凍みこんにゃくの歴史


凍みこんにゃくの「天下野町」のルーツを調べると「水府村誌」に地元生まれれの医者・択捉島の
探検で有名な「木村謙次」の名前が出てきます。

木村謙次(1752-1811)とは

宝暦二年(1752)天下野の八左衛門昌尚(まさなお)の第四子に生ま
れた。謙二は常に意を殖産興業に注ぎ、
諸富野(もろとの)現、久慈郡山方町・高倉地方の重要産物であるこんにゃく栽培
の発展に力を尽くした。

かつて関西地方に遊んだ時丹波の国(京都・兵庫)でしみんにゃく製造が盛んに
行われていることを聞き、立ち寄って親しくその製造販売の法を調査して帰り、
寛政七年(1795)、これを天下野高陽(こうよう)の根本喜兵衛に伝え、ますます
改良普及に努力したので世の賞賛を博し、同地方の一大特産物として栄える

に至った。(水府村誌 P。557引用)文化二年(1805)の高倉・東両村の
「地理書上帳」には産物の中に氷蒟蒻を記している。(水府村詩 P.292引用)
「高倉郷土誌」によると明治40年(1907)の旧高倉村における凍こんにゃく製造農家は
14,15件とみている。(水府村誌 P.390引用)


木村謙次はエトロフの探検家としても有名です。
木村謙次HP: (常陸太田市教育委員会)

以下の写真は木村謙次の生誕の地や墓は当方から300mくらいの位置にあり、最初に
「凍こんにゃく」が伝えられた根本喜兵衛氏の天下野高陽は同じ町内で500mくらいの
位置にあります。既に「凍こんにゃく」は天下野町内に伝えられて多くの先人の努力により
250年以上の歴史があります。


木村謙次の墓 (常陸太田市天下野町) 


墓地にある「木村謙次」の業績の説明:水府村教育委員会



参考文献: 水府村誌                  



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