私は外車が嫌いだった。
と言っても外車に乗る機会などほとんど無かったのだけれどスペックと価格を見ただけでもあいつらは我々日本人をバカにしているように思えた。
機構的にも日本車が左ハンドルを考慮して設計されているのにもかかわらず付け焼き刃的な右ハンドルでお茶を濁すあいつらのやり方が気に入らない。
実際それによる不具合や故障の話は良く耳にした。
また故障した場合のアフターサービスにも不安がある。
取り扱いディーラーの技術や価格もよくわからんし、昔は不具合が出ても「使い方が悪い」の一言ですませたと言う話も聞いたくらいだ。
それらを補う長所があるかと言えば、確かに高速での直進安定性や旋回性能に優れた部分はあるが、一般的な日本車と比べ大きく寝かされたキャスターアングルやネガティブキャンバーを設定していれば当然の結果である。
これらは大きく立ち上がったサイドシルが高い車体剛性と引き換えに乗降性を犠牲にしているのと同様に他に犠牲を払っているから得られる性能であり、これだけで日本車より技術が優れている訳ではなく、単なる味付けの違いである。
むしろ、ボディー鋼板やメッキ、電装部品、オートマチック変速機等々世界に誇れる日本の技術は数多い。
更に低価格であることも日本車の優れた面であるわけだが、その様な自動車大国へ車を売り込もうというのであればそれなりの車つくりをするのはもちろんダンピングギリギリの低価格を設定するべきであろう。
しかし、クソ高い価格設定にもかかわらず外車は売れているのである。何故に世界一の技術を持つ国産メーカーをさしおいて糞高い車を買わなければならないのか?
ブランドだか知らねえが外車がそんなに偉いのか?車と言ってもたかが機械である。機構、材料、コスト、アフターサービスが劣っていれば高い金を払って乗る価値などない。
だから私は外車が嫌いだ。そもそも私が外車が嫌いだと宣言する前に、もし外車が喋ったとしたら「お前のような貧乏性の奴に乗られたくない」と言われてしまうと思う。
それほど私は貧乏性である。(或いはケチである)
そのようなわけで私は20年ほど日本車に乗り続けてきたのである。
しかもケチな私は10以上使うことを前提として選び実際に軽トラックなどは15年を越えても使い続けている。
それくらい永く乗るとあちこち故障も出てお金もかかるが自分で修理しながら乗り続ければ新しい車に買い換えるよりも安く済んでいると思う。
また車など機械は使われるために生まれてきたわけで使い込まれるほどに美しく輝いて見えるように思える。
例えばプラスチック製(樹脂製)のシフトノブやステアリングホイールは表面加工がすり減ってテカテカの光り、何万回も荷物を積み下ろした荷台は塗装がすり減って鈍く光っている。
もちろん「光り」=「輝き」でなく光っていればよいと言うわけではないが、使い込まれたことによって出来た傷などを見るとその機械が悦んでいるように思える。
私がこのように考えるようになったのは、昔読んだ「箱」という小説の影響かもしれない。
それは段ボール箱が主人公で「私たち箱は物を入れられ使われることが悦び」と思うのだった。段ボール箱が新しい時は新品の製品を入られ運搬された。今思えば華々しいひとときだった。その後古本などを入れられ第二の人生(箱生)をおくる。やがてその箱は使い捨てられて池の中に落ちてしまうのだが、その瞬間その箱は、隅々まで水で満たされ恍惚としながら溶けて死んでいく。
何故なら、物を入れられるために作られた箱にとって隅々まで満たされた悦びは溶けて死んでしまう恐怖よりも大きかったのである。
つまり物に意志があるなら機能を全うしたときが何よりの悦びであるというわけだ。
そして、私は悦ぶ車の姿を見るのが喜びと感じるようになり、何時か車が溶けてしまうほど使い込んでみたいと思うようになった。
別の例えをするなら博物館に展示してある程度の良い車より多少の傷があっても現役で走っている車の方が幸せそうに見えるとでも言った方が解りやすいかもしれないが、私の思い入れを表現するにはシンプル過ぎると思う。


とにかく私は出来るだけ自分で修理しながら国産車に乗って自己満足していたわけだが、最近N産車のウインカーリレーを交換した時にリレーに何故ついているのか解らないステー付きで3000円という高値で売りつけられるという経験をした。
正確に言うと買う買わないは私の自由であったのだから「売りつけられた」とは言えないかもしれないが、リレーの接点を磨く等して修理せずに部品を交換を選んだ私の選択はその後の耐久性などを考えると合理的だったと思うしその場合純正品を買うしか選択肢がないといって良い。
そして近所のN産部品共販で部品を注文したわけだが、余計なステーが付いて3000円!だよ。3000円。
しかもリレーそのものは、他の車とコネクターも同じで付け替え可能にもかかわらずステーが付いていることでその車専用になっているようだし、ステー付きで交換するよりもリレー単体で交換した方が、作業もはるかに楽である。
私も新品のステーを取り外してリレー単体を取り替えることになったわけだが小説「箱」の理論で考えたとき使われることなく捨てられたステーの立場はどうなるのであろうか。
私にはどう考えてもステーが付いていた理由は解らないし、つけて販売しているN産が頭が悪いとしか思えない。
かといって部品共販のおっさんに私の国産車に対する思い入れを語っても頭がおかしいと思われそうなのでおとなしく部品を受け取り悶々としたまま部品を付け替えたわけである。
しかし、その後もN産車に乗るたびにこれを作った奴は頭が悪いし物(車)の気持ちもユーザーの気持ちも解っていないと思えて非常に気分が悪い。
そんなことがあって国産車に対する思い入れが醒めかけてていた時にあらためて外車を見てみると車種やメーカーによっては昔と違って信頼性を得ているものもあるようだ。
しかも聞くところによると欧米では私のように自分の車は自分で直すというスタイルが定着しているという。
また古い物も比較的大切にするようである。
そのようなユーザーを対象としているならば車のつくりも当然それに対応しているのでないだろうか。
もしそうならば永く使うほど輝きを増す車を見つけられそうな気がしてきた。
しかし新車価格は以前よりマシになったものの高すぎるので問題外である。
ところが中古車価格は市場の原理により度々高品質の物が低価格という現象を生み出す。
また、日本での中古車価格は走行距離よりも年式を重視する傾向があるが、私は年式よりも走行距離が重要に思える。
ある程度年数が経たないとその車の評価が固まらないという理由と走行距離による消耗という極当然の理由からである。
いずれにせよ人と違う価値観を持つ者にとって中古車の相場は面白い物である。
元々外車には興味がなかったので知らなかったが高年式でしかも走行距離が少ない物がリーズナブルな価格であることに驚きつつ私が選んだ車がBMWのZ3である。
血迷ったと思われるかもしれないがそれも否定しない。
この車の場合幌と言うこともあり耐久性にも大いに問題がありそうだし部品代も高そうだが高くても直しながら乗れば永く乗れそうな気がする。あくまで感覚的に決定してしまった。
また国産新車の目先の売り上げを目指した商品づくりの結果、将来理不尽な故障に悩ませられないかという不安も後押しした。
しかし数千円の部品代で怒った私がガイシャの維持費に耐えらるどうか自分でも疑問であるが。
ところでこのZ3と言う車は、ドイツ車でありながらアメリカで作られているし、速そうに見えてそれほど速くない、バター臭いデザインであるが、チーフデザイナーは日本人である。高そうに見えてそれほど高くない、等々非常にインチキ臭い車であるところが気に入ってしまった。一番の理由は中古車価格が安いことが一番気に入ったところだ。
その中古車価格は、私に「買ってください」とひれ伏しているように思えた。
「よし、それならば今までの無礼は水に流して買ってやろう」と私は思った。
こんなことを言うと熱狂的な愛好者に怒られそうだがZ3は、あまり車が好きな人が買う車ではなく車をファッションとかちょっとお洒落な道具として割り切って乗る人向けの車であると思う。
私も車好きと言うよりは機械好きであり車に対する特別な思い入れはないように思う。単なるお洒落な道具としてとして溶けてしまうまで乗り回してやろうと思う。