師走から正月へ

 昔から伝わる大きな行事と言や、正月とお祭りにお盆やった。今は暮らし向きもようなって、いつも正月や祭りと同じようなものを着たり、食ったりしてちょっとの暇を見つけては、物見遊山に出掛けていっとるけど、昔はいっくら働いても食うのがやっとこさで、大人も子供も正月やお祭りや盆を楽しみに、その日その日を精一杯生きとったんや。

 当時は、赤谷のほとんどの家が、米屋や八百屋、呉服屋等からつけで物を買っといでて、お店にたまったお金を、正月や盆にみんな支払ってすっきりした気分で、よい正月や盆を迎えようとして、毎日を一生懸命働かっせたんや。

 昔は、新町や本町や殿町、塩屋町なんかの町ん中の大きな商家や地主、上級学校を出て役所へ勤める官員様を除いて、ぐろ端と呼ばれる中心から離れた端っこの町々は、大部分が暮らしが貧しかったそうや。親から買ってもらった服が破れると、布を当てては縫ぎ、終いには尻のとこが雑巾みたいに厚うなったんやで。三度の食事も、真っ黒な麦飯の上に梅干か漬物をのせて、渋いお茶をかけて口ん中へはたき込んだんやで。


 それで、おっとうやおっかさんも、家族の者にせめて正月や盆、祭りぐらいは、いっせき旨いものを食べさせてたり、つぎのあたらん新品の服を着せてやりたいと思わっせたんやろな。

 正月を迎えるまわしは、もう師走の声を聞く頃から始まっとったな。師走の慌ただしさの中には、どこの家にも、一年の最後のしめくくりをしっかりやって正月を迎えようとする意気込みみたいなものがあったんやで。

 野田幸さや平樟の八百屋の店頭には、正月用の磨き鰊や、棒鱈や数の子、たつくり、紀州みかん等をいっぱい並べて客を待っといでたし、立町の森本やきちいさ等の呉服屋のウインドーにも、正月用の晴れ着が飾られ、夜遅うまで賑わい、帳場には旦那がどっかり腰を下ろしといでた。

 夜が明けると安久田や鬼谷から大籠を背負って峠を越えて来とくれたし、小駄良や明方、上の保からも大勢出掛けて来とくれて、行きつけの家や店で、山の畑で採れた里芋や小豆や草花等を売り、受け取ったお金で正月用の魚や雑貨を仕込んで、峠を上って行きないたんやで。

 床屋も正月頭を刈る大人や子供で込み合って順番待ちやったし、髪結いさも二十代の娘さんが、島田に結っていっせきやわったもんで大はやりやったな。

 私の家も昭和の初めから30年代にかけ、豆腐屋をやっとって、年末には正月豆腐を徹夜で挽いて間に合せたんやった。
 あんなにいせきのう血まなこで働いといでた人も、往来の激しかった町も、一晩寝て起きると水を打ったように静かになった。
 
私は、この動から静の見事な変わりようを、子供の時分に不思議に思ったことがあったが、私達の先祖は、昔からこうした生活のけじめをとても大切にして来たんやた。
 
 今はそこら中に物が溢れ、人間が贅沢になってまって、毎日が正月や祭りのような生活で、子供んたもよっぽどのことがないと感動せんようになってまったと思いなれんか。
 
 一年に一回の大晦日の夜の銀しゃりや塩鮭のうまかったこと、おっとうに盃に一杯だけ酒を注ぎてもらって、一つ歳をとったことを祝ってもらったこと、たしないお年玉を握りしめて東京堂の初売り出しに並んだこと等、この歳になっても、これらの思い出は昨日の事のように新鮮なんや。

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