長尾の積ま

 八幡小学校の坂道を上ってきて、ぶっかった所に長尾の積まの家があった。
 積まは、下駄づくりの名人やった。
 今でも私は、50年程前に、積まに作ってもらった踊り下駄を、二足大事に保管している。それは、大きな桐の台に、緑の鼻緒と、黒の鼻緒ですえたもので、とっても見事なもんや。

 私は、若い衆の頃から今日まで、夏になるとこの下駄を履いて、郡上踊りを踊ってきたもんで、だいぶ痛んでおるが、今でも舗道を歩くとカランコロンと小気味のよい音がするので、皆が振り返るんやで。

 昔、積まは上井山にあった、岸山履物店の下駄工場で働いといでて、岸山のお抱えの職人やった。
 朝んなると、積まは腰の所に手拭をかい、弁当を風呂敷に包んで、家から出掛けなるとこをよう見かけたもんや。家の方にも仕事を持っといでて、上がり端の前の畳二枚くらいの仕事場で、夜なべに下駄をこしらえといでることがようあった。
                                              

 積まの作らっせる下駄は、特別注文の上等のものばかりやった。
 一枚の分厚い桐の板切れが、積まの指先に操られ手元で宙返りをする度に、歯を入れるとこの切り込みができ、鼻緒をすえる穴が三っあけられ、表面が舐めたようにすべこう削られ、見事な下駄に仕上がっていった。

 積まの下駄づくりには、流れるようなリズムがあった。
 桐を胴さし鋸で切る。鉋で粗削りをする。研ぎすまいた鑿で歯のとこを、サクッと削ぎ落とし、仕上げの鉋を入れる。その度に鋸や鉋や鑿の音が心地よく響き合い、積まの名人芸の下駄が生まれたんや。
 こうした積まの下駄づくりを、向かいの一ちゃんや隣の政さんや内田の勝美さんと一緒に、膝かんぼをかかえて、じっと見とったもんや。

 積まは小柄な方で、いつもにこにこしといでて、子供んたに優しようて怒らしたとこを見たことがなかったな。時々、ひょうきんなことを言って笑わしておくれた。

 昔は、頭のよい人が多かったが、何処で覚えないたんやろか、読み,書き算盤が達者で、冠婚葬祭の時には帳場をようやらしたし、町内でも責任のある会計の役をいつもやっといでたようや。
 積まにまかせておけば、大丈夫と皆も思っとったんやな。

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