氷たんぼ

 私の子供の頃、赤谷川の上の方に、冬のかのしみに天然氷をつくる田んぼがあって、皆がそれを氷たんぼと呼んでおった。
 人工の氷の無い時分に、冬になると分厚いコンクリートを張りめぐらした田んぼに、赤谷川の山水を引き、冬の寒さを利用して氷を自然に張らせ、氷が15センチ程の厚さになったとこで、それを専用の鋸で、50センチ四方くらいの大きさに切って運び出し、おがくずにまぶして氷室に入れ、一年中保管し、真夏のかき氷や解熱用に売られておった。
                  
                         
                                                
 今でこそ氷は簡単に作れるが、当時はたしないもんやった。
 昔、氷たんぼは八幡に二た所あった。その一っが犬鳴きの奥、もう一っが赤谷川の奥の方にあったんや。
 
赤谷のは、八幡でも一番寒い北側の山に入り込んだ隠地にあり、そのはす向かいには、願蓮寺洞の墓場があって、何とのう気味の悪いとこやった。

 
昔は今と違ってよう雪が降ったし、お日さまの熱も弱かったとみえ、三月のはじめ時分まで、屋根や道路にも雪が残っておった。
寒さもひどうて一月に入ると、どこの家の軒先にも、刀の先のような長い氷柱がぶらさがり、夜、朝日湯で一風呂浴びての帰り道に、濡れた手ぬぐいを空中で10回程振り回すと、手ぬぐいはカチンカチンに凍って棒のようになるので、面白がってようやったもんや。翌朝起きて鉄の火箸を持つと、火箸が手のひらにじわっと氷りついてきてびっくりしたもんや。

今は雪がちょっと降ると、まるで親の仇みたいに降るきっぱから、側溝や赤谷川へ運んで棄ててまうが、昔は雪をそのままほったらかいて、踏み固めたもんで、春が来るまでそのまま雪は道に残っておったもんや。
 夜になって夕飯を食べとると、早飯を食べた向かいの一ちゃんが、カタカタと竹スキーを滑らせる音が聞こえてくると、もう飯もそっちのけにして、スキーを持って表へ飛出したもんや。やがて隣の政さんや、はす向かいの宏さんや石田の実ちゃんも仲間に加わってきて楽しかったなあ。


 
正月も終り寒に入ると、冷込みもひどうなって、氷たんぼには見事な氷が張り、それが日毎に厚うなっていった。それを待ち兼ねておいでたように,左官さや大工さや百姓衆が、冬仕事に氷切りや氷引きに、氷たんぼへ雇われていかっせた。
 雪が道に積もると、橇に氷を乗せ、雪が解けると荷車に乗せて、氷たんぼから林病院横の氷室まで、朝早ようから夕方遅うまで、何回となく車は私の家の前を通っていったもんや。私の家の前の道や赤谷の坂道を下へ降り、乙姫川に沿って林病院のそばの氷室までの道は、比較的よかったが、氷たんぼから今の名畑さんの前の坂道までは細い山道や畑の道が曲がりくねっておって、難行苦行やったなあ。
 
その日の仕事の出来高で、日当が決まると見えて脇目もふらずによう働かっせて、中には、荷車を犬にもひかせて運ばっせる人もおいでた。
 

                                                  

 
二月三日は節分で、一晩寝ると寒が明けて立春や。
 節分には夜になると、子供達は、「節ぼの豆おくれんか」と言って、新町や本町の旦那衆や商家を一升袋を持って豆を貰って歩いた。
 この日は、私はおっかさんに連れられて、向かい山にある大乗寺の鬼子母神にお参りし、ご祈祷をしてもらったが、向かいの宏さんも千代まに連れられ一緒に参ったもんや。このまじないが効いたんやろか、風邪一っ引かず健康でひとなった。
 氷引きは未んだしばらく続いたが、だんだんぬくとうなると、この仕事も終りに近づき、氷引きさんたは元の仕事に戻っていきないた。
 今はその氷たんぼも、すっかり埋め立てられて、立派な霊園に変わってしまった。
 

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