兵隊ごっこ


 昔の遊びで一番にあがってくるのは兵隊ごっこや。私の年代の者は、太平洋戦争一年前に小学校に入学し、五年の時に終戦をむかえ、戦中、戦後の激動の時代に、幼少年期を過ごし、色んな目に会ってきたので、少しくらいのことではへこたれんで。

 その時分は軍国主義一色の時代やったで、みんなが兵隊さんに憧れ、学校を卒業して兵隊になって、一番上の大将になるのが、その頃の子供んたの夢やったで。そういった子供の夢が、兵隊ごっこに夢中にさせたんやった。

 兵隊ごっこの本部は、いっつも石田の実ちゃんとこの裏の広場やった。産めよ殖やせよの時代やったで、兵隊の頭数には不自由しなんだな。隊長には野田の清ちゃんや正ちゃん、それに清水の孝ちゃん、その下に片桐の勉さんや和田の政さん、一番下の一等兵や二等兵に、内田の勝美さんや一つ年下の石田の実ちゃん、長尾の宏さん、渡辺の準ちゃんに私、それにもう一つ年下の大坪の一ちゃんや高垣の清さん等大勢おったんや。

 みんなを指揮してまとめていく大将の清ちゃんと言や、赤谷界隈の子供仲間や、小学校高学年の生徒も一目も二目もおく番長やった。どっちかと言うと小柄やったが、侍眉毛で見るからに精悍で、才知に長け腕力も強ようて敏捷やったな。

 高等科の時に少年兵に志願し、南国宮崎の喜入れの基地で、人間魚雷回天に乗り込み、来る日も来る日も敵艦にぶつかる訓練をしといでるうちに、敗戦になって帰っといでて、一命をとりとめないたんげな。

 赤谷の子供んたは、清ちゃんの命令で「休め!」「気をつけ!」や、行進の練習をしたり、敵の動きをさぐる斥候に出て、戦いの状況を報告したり、小隊で攻撃を仕掛けたりしたんやで。上級生なんかは、東殿山で切った楢や漆等の木を、刀の部分だけきれいに皮を剥いて作った軍刀をさげ、二等兵の私たちは竹薮で切った竹で作った鉄砲をかつぎておったんや。服の方は継ぎはぎだらけやったし、服の上に山で取ったつる草を巻いて偽装し、学校の休みには、竹の鉄砲をかつぎては赤谷川に沿って、願蓮寺洞の方へ遡ったり、おいえやせいひっさの裏の桑畑や、愛宕公園や
三十三間堂の辺りを駈けづり廻ったもんや。

 あんまりひどう動くもんで、からだじゅうに生傷が絶えなんだな。山を駈けずり下りるもんで、ズボンの尻がよう破れ、おっかさんに毎晩のように縫ってもらったで。洗濯も大変やったろな。

 昔は、今と違って上下関係が厳しょうて、学校でも町内ごとの分団会がようあったんやで。一年生と高等科二年生との年の差が、八つもあったんやけど、上級生は下級生の面倒をしっかりみて、下級生も上級生の言うことをよう聞いたんやで。

 その頃、上級生から習ったことは数え切れんくらいあるで。水泳の仕方、やすやいかりでの魚の取り方、川干しの仕方、木登りの仕方、あけびやくるみなんかの木の実や草の実のある場所、蜂の巣や雀や鳩の巣の見つけ方、小鳥や山の動物の捕らえ方や飼い方、たき物等の作り方や背負い方、竹馬や杉鉄砲や竹トンボや竹スキーやそりなんかの作り方や遊び方、はては思春期の性の処理の仕方まで、みんな町内の上級生に教えてもらったり、見よう見真似で覚えたんやった。

 赤谷もすっかり代が替わって、昔住んどいでた人んたが、都会や小野へ出ていきないたり、色んなことを教えてもらった懐かしい先輩の方々も、都会へ就職しないたりして、疎遠になってまったし、昔、兵隊ごっこで走り廻った裏の桑畑も、住宅ができ、バイパスになったり、役場ができたりして、あんまりの変貌に目を廻すこの頃なんやんな。
    

                                
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