赤谷の傘屋さん

 昔、赤谷には傘屋が三軒あった。一つの町内に三軒も傘屋があるなんて珍しいことやで。
 下には、石田の武夫さんに篠田さん、中には名畑さん、どの方も温和で、町内の方々も親しみをもって接しておいでた。

 どの店も朝早ようから、夕方遅そうまで仕事をやっといでて、ようはやっとったな。
 その頃は、機械による大量生産でのうて、一本一本竹を削っては、手作りで丹念に仕上げていく作り方やで、一本の傘が仕上がるのに、多くの時間と手間がかかったんや。

 暮しが貧しょうて、今みたいに簡単に買ってもらえんで、傘をさす方もそれは大事にさいたんや。
 昔は大相撲でも、一年に春場所と秋場所で、たった二十日相撲をとっただけやった。それで相撲取りを一年を二十日で暮らす好い男なんて言っとったんやで。一年で二十日しか相撲が見えんとなると、好角家も血まなこになって、一番一番真剣に見るようになるんやって。

 背広も、一年に一着きりとなると、着る方も大事にして着んならんで。
昔は、職人さが魂を込めて物を作り、その物を使う方も心を込めて丁寧に使ったんや。

 だいぶ前に、長いこと使っとった柱時計がまわんようになった時、新しいのを買いにいって、「今まで使っとったやつみたいに、長いことまわるやつをおくれ」て言ったら、店の主人は「きょう日、そんな長持ちするもんを作っとったら、会社がやってけんようになるで、短い期限で壊れるもんを作る時代なんや」て言わした時には、びっくりしたで。
世の中、使い捨ての時代やで、子供が物を駄々くさにしても、親が文句を言えんようになってまったな。

 私達の子供の頃は、町内の職人さが物を作んなれるとこを、そこら中で見ることができた。
 傘屋の仕事場では、仕事柄あぐらをかいて仕事をしなることが多かったな。両足で器用に傘の柄を廻いて、細く削った傘の骨を、傘の柄の頭のとこの切り込みに差し込み、太目の木綿糸を穴に通いて固定して、骨組が作られ、手足が一体になって動き、傘が少しずつ出来上がっていくのを、私達は上がり端なに坐って、終日眺めておったんやで。

 骨組が出来上がると、その上に厚手の和紙が貼られ、紙の上に渋柿の汁を塗り、それが乾くのを待って、その上に腕によりをかけた達筆で、注文主の名前と町名を、でかでかと書きないたんやで。傘の文字には、製作者の心がこもっとって、その人柄がよう出とったな。

 昔は殆どの家が注文傘で、私の家の傘には、十センチ四方くらいの大きな字で、中愛宕石田藤と書かれとって、雨ん中をまるで名前が歩いとるようで、傘を間違えることがなかったな。私が傘をさいて歩いとると、あれは石田の藤一まんとこの坊やってことが、一目でわかったんやで。

 傘屋の横や、裏の空地には完成した傘が、広げて干いてあって、強烈な柿渋の匂いがしたもんや。
 今は、赤谷に三軒あった傘屋も廃業され、番傘も大量生産のこうもり傘に変ってしまった。浦田の花街を芸妓さんが、番傘をさいて歩きなれる風情のある姿も、すっかり過去のものになってまった。

 名畑の信まは、一番遅うまで傘をこしらえておいでて、私と同じ町内で子供好きやったな。いつも心やすく話しかけとくれて、親しみのわく人やった。戦争中と戦後の一時期、町内会長をやっとくれて、特に戦争中には、まっきはんを巻き、戦闘帽をかむって活躍しないたな。若い方を戦争にとられ、働き手が少くのうなっとったので、町内に信まのような人がおいでることは、なんとのう心強かったな。

 郡上おどりの保存会に入っといでて、踊りの晩には毎晩出掛けられ、輪の中で楽しそうに踊っといでる姿が印象的やったな。

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