赤谷の大黒様

 戦後最大の八幡町のイベントは、昭和二十二年の五月に日本国憲法が誕生したのを祝って行なわれたお祭りやったな。

 長くて苦しかった戦争がようやく終わり、世の中にはほっとした空気が流れ、やがて向かいの大坪さんや、山本の信ちゃんや、野田の政ちゃんや筒井の政まんた、戦争に大陸や南の島々へ行っといでた、多くの赤谷の働き盛りの方々が復員しといでた。その陰で、下道の中村さんや和田の豊平さの豊ちゃん、石田の健ちゃんや山本の幸男さんや向かいの本田さん等、異国で戦死されて、二度と帰って来られん方も大勢みえ、子供心にも喜びと悲しみが入り混じった複雑な気持ちやったんな。

 あの忌わしい戦争が終わったんや。軍国主義に変って、アメリカから民主主義が入ってきて、日本は新しい国に生まれ変わるんや。小学校の習字にも、「民主主義国家建設」なんて書いて教室にはり出され、明るく開放的な時代の到来にわくわくしたもんや。

 五月から新憲法によっての平和で民主的な国づくりが行なわれるようになりそれを祝ってのお祭りが、全国各地で盛大に行なわれたんや。

 戦中戦後の生活は、着る物も食う物も殆どのうて、朝飯や昼飯を食わずに通学する者もおったんや。赤谷でも栄養失調で死んなる人もおいでたんや。つぎはぎだらけの物を着て、食物もろくに食えん苦しい生活やったけど、あのいまわしい戦争と軍国主義の時代は終ったんや。みんなが力を合せて、新日本を建設するんやと言う希望のようなもんを、大人も子供も持つようになったんや。

 そういった民衆の大きなエネルギーが、新生日本の出発を祝う憲法発布の記念のお祭りとなって燃え上がったんやで。 そしてこのお祭りに向けて、各町内の知恵袋と言われる人達が、力と業を競いあって、お祝いの作り物をこしらえたんやった。

 その頃の赤谷には、町内のだし物づくりに寝食を忘れて、骨をおっとくれる方がたんとおいでたんやんな。下では石田の武夫さんや大沢の良ま、中には芝野の春まや筒井の政ま、上では山田の三一まや筒井の光まなんかの顔が、浮かんで来るんやで。時代がちょっと下がると、下では下原の兼ちゃん、中では島さんや山本の信ちゃん、上では和田よっさの数ちゃんや太田の良ちゃん、早死にしないた細川さんたも知恵者で一生懸命やったんな。

 その時分の赤谷は、上中下の愛宕の町内が一つにまとまっとって、愛宕神社の伊勢神楽や、祭りのお神輿や、愛宕公園での郡上おどりに、全町内で取り組んだんやった。
 愛宕神社の下の拝殿の白壁の土蔵の前には、結構でっかい愛宕会館があって節分が終る頃には、夜んなると、町内の有志の方が集っといでて、祭りの作り物の計画をねって、手間暇かけて赤谷始まって以来の立派な大黒様を作んないたんやで。

 大黒様は、右肩から背中の方へ大きな福袋を掛け、左肩の上に打出の小槌を抱えて、どっかり腰を下ろしたそれは見事なもんやった。体全体に杉の新芽を差し込み、それを巧みに刈り込み、四季の草花で衣服に模様を入れ、顔を粟で吹き付け、小豆やたか黍なんかの穀物をうまく使った、それは見事なもんやった。
 私はこれまで七十年生きてきて、あんなに雄大でかっこようて立派な大黒さんを、これまでに見たこたなかったな。

 お祭り当日は、ゆうに五米はある大黒様を、いっせき飾り立てた大荷車に乗せて、大人も子供も顔におしろいを塗り、眉をえどって口紅を引き、華やかな衣装を着て、飾りの付いた傘を冠ったりして、車の前の方に三味や笛や太鼓等のお囃子が乗り、とんでもない重量の車についた紅白の綱を、赤谷中の大人と子供が総出で引っ張って、町中を練り歩いたんやで。

 各町内からも、豪華な山車や、神輿が繰り出して、夜遅うまで新生日本の門出を祝福したんやで。
 郡上製糸や郡上紡績が景気のええ時代やったで、多くの女工さんが働いといでて、このお祭りに、トラックを飾り立てて歌謡ショウの舞台にしたて、女工さんたが、色気のあるドレスを着て、町ん中でトラックの上で、はやり歌を歌いないたんや。

 国の将来を思い、新生日本の再建に向けて、みんなが一つにまとまった、あの頃の燃えるようなエネルギー、今思い出しても胸が熱つうなるんやで。

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