赤谷川界隈

 昔、赤谷川の奥の方にお寺があって、長雨で地盤が緩み山がぬけて、多くの坊様が土砂の下敷きになって埋まってしまったそうだ。その時に流れた坊様の血が、長いことかかって地面にしみ込んで、それが大雨が降る度んびに、水に混じって出てくるもんで、赤谷川の水は今でも赤い色をしとるんやで。
 これが、私がはなたれ小僧の頃に、おっとうが炬燵にあたって聞かせてくれた赤谷川の名前の由来なんや。

 赤谷川をちょっと遡ったとこに願蓮寺洞があり、杉の木立で囲まれた隠地で、そこには昔から墓場があったので、昼間でも気味の悪いとこやった。



この赤谷川の下にできた在を赤谷と呼び、昔は、新町や塩屋町や本町が賑やかな町場で、私の住む赤谷は、「ぐろはし」と呼ばれておった。向かいの大坪のいせまが、「おきりま、ちょっと町まで行ってこまいか」とおっかさんをよう呼びにおいでたもんや。

 私が小学生の時分八幡幼稚園が、殿町にあったが、そこへは旦那衆や町場の子が通学し、ぐろはしの赤谷の子達は殆どいかなんだ。

 この赤谷の私の先輩に、野田の清ちゃんや片桐の勉さんや和田の政さんがおいでたし、同年輩には、兵いっさの勝美さんや石田の実ちゃん、長尾の宏さん渡辺の準ちゃん大坪の一ちゃんや高垣の清さんがおって、よう遊んだもんや。

 その時分は明け方になると、和田の豊平さの一番鶏が最初に鳴くと、それに合わせて近所隣の雄鶏が一斉に鳴き始め、高垣の軍まがトタン板を、カンカンとたたいて仕事を始めなると、それに合わせたみたいに筒井の政さまがトントントと金槌をたたきなる音が響いてきたし、名畑の信まも、竹を細う削って先っぽに穴を開け、その穴に巧みに糸を通いて、傘を作っておいでた。和田の豊平さも荷馬車を引いて、明方の方に出掛けていかした。


                                 

 
梅田屋の店頭には、皿に盛られた牡丹餅が並び、八幡堂のウィンドウには、ほかほかの饅頭が山のように盛られた。

 赤谷川のどんぼには、あまごが泳ぎ、前の日の夕方に入れておいた差し込みに、朝方になると胡麻鰻がかかり、石を起こすと沢蟹がびっくりして這い出してきた。
  
                      
                                   
 
年を取るにつれ私には、こうした光景がいたって懐かしく思い出され、当時の赤谷の町や、そこに暮らしておいでた人達が、頭に浮かんでくるんやで。

 
今んなると、こうしたことは遠い昔のものになったし、やがて私の頭から、幻のように消えてってしまうやろう。

 
そこで私の頭のぼけんうちに、自分の記憶の中から赤谷の昔の家々や、そこに住んでおいでた懐かしい方々を引き出いて、記録に留めておこうと思いついたんやで。

 こうした作業を通いて、私の幼少年期に大きな影響を与えておくれた方々に、お会いできるのは、とっても楽しいことなんやで。


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