わが町の水辺の未来の夢
島 田 秀 雄

 夏の行事「虫送り」をした少年時代を思い出す。子供達の松明が堤防を走り抜け、最後に害虫とともに橋の上から千曲川に投げられる。あの頃は木橋であった。母の実家へ行くためには必ず渡らなければならないが、対岸の子供達にみつかると河を挟んで石を投げあった喧嘩の仕返しが怖かった。木橋は幅も狭く、手すりもなかったので「風が吹くと危ないから」と言われ、真ん中を歩いていても自転車が来ると木琴のような桁がガタガタと踊りだし、思わず座り込んでしまう。木と木の隙間から見ると千曲川は手の届きそうなところで渦をまいている。じっと水面を見つめていると、自分のからだがまるで仮眠術にかかったように上流に向かって滑り出し、夢の中へ引き込まれていった。

 1998年、冬季オリンピックを成功させたナガノは、今は河川に関する諸問題の先進地として世界の注目を集めている。十年前、千曲川の現状に危機感を持った沿岸の人々は、千曲川委員会を組織した。特別な専門知識のない人々の集まりではあったが、高い理想は深く流域の理解を得、地道に活動を通しての功績が評価されて今日に至っている。委員会を中心に流域の人々の「良心」のより所としても存在感をしめしてた。千曲川を対象として解決された上下流・対岸問題は世界の河川においては依然として手の付けられない困難な事柄として棚あげされていた。何故なら、それは国際紛争に発展しかねない問題であるからだった。しかし、世界はナガノの呼びかけに応じ、千曲川委員会が企画した「河川に関する国際協調会議」に参加することによって、その困難に立ち向かおうとしている。ナガノに来、「理想的な現実」の千曲川を見たことによって決意を固めていた。
 千曲川に面して建てられたこの国際会議場からは、子供達の水遊びの歓声が聞こえる。河川敷でテニス、野球、ゲートボールをする人々や、アスレチックや滑り台で遊ぶ子供らが見える。野菜畑と果樹園が連なっている。堤の桜の木陰には、サイクリングやジョギングをする人を応援する親子連れ、花壇の手入れを終えた長寿会の人達がいる。今夜は花火大会と会議出席者も参加する盆踊り大会が行われる。国際会議の進行状況はテレビを通じて各家庭に報道されており、婦人会民謡部のNさんはカナダ代表のA氏のゆかたを縫いながら見ている。会議最終日の今日は、「ナガノ宣言」が全世界に向けて発表されることになっているが、その歴史的瞬間を待っている。
 千曲川委員会のメンバーであるGさんは、会議場の後列にい、当時をしのんでものおもいに耽っている。
 昭和30年後半から始まった高度経済成長につれて、人間も社会も大きく変わった。人々は従来の因習や束縛から解き放され、個性が尊重され多様な価値観を持つようになった。生活様式や生産手段が能率化され、技術が高度化した。とりわけ、農村と農業における変化は、弥生時代いらいの大波であった。機械と施設の集約経営の一方、高齢化や減反・貿易の自由化の影響などで遺棄される農地が増大した。天然ダムの水田は都市化の進展の中で改廃され、かつては居住不適地であった低位部や森林を切り開いた山地に市街地が出現した。人々は都市生活の利便生と経済の豊かさを獲得したが、「まち」は災害、特に水害に脆くなった。自然の水循環の中で透水・保水・遊水のメカニズムが壊れ、降雨は流路に集中して瞬間的に押し寄せた。深興住宅地ばかりでなく既存集落にも依存せざるを得ない状況の中で、部分改修は被害地を移転させ、まるで「モグラ叩き」ゲームをしているかのようだった。自然は開発や住環境の整備の中で人々が忘れていたものを洪水とたって警告を発していた。
 昭和57年、Gさんは千曲川の濁流が堤防を乗り越え、自分達の村に押し寄せる様を見た。村民総出で行った堤防上の土のう積みは、しょせん対岸の完成堤防に勝てるハズがなかった。 「むこうのもんは、酒盛を始めるだろう・・・」と誰かがつぶやいた。子供の頃にも洪水はあった。田畑を流され、牛を失った親達が薄暗い部屋の隅でうずくまっていた。その姿を見て、子供心にも「学校で通う習字紙代5円くれ」と言いだせなかった。今度の洪水は古文書にもないほどの水位になった。泥棒なら持てるだけを持って行く、水はすべての財産と時には命を奪う。川沿いにすむものの宿命を「所 貧乏」と諦めることもできず、込み上げてくるやるせなさを押さえ切れない。上流の町では湯t豊かな財力でポンプ場をいくつも作り、千曲川の堤防は後回しにして各地で支川のコンクリート化・・・流域全体がテンデワレワレな事をしていて、そのツケをなぜこお村が払わなくてはいけないのか。
 だから、千曲川委員会でGさんは千曲川の治水能力を高めることが、流域自治体の独自の改修計画より優先させるべきて゛あること、そのため相互協力をし調整を図るべきであることの必要性を説いた。今では流域内において流出の増加や流出時間の短縮など流況に影響するすべての計画は、事前に委員会の調査を受け調整されることとなった。開発行為に伴う調整池が義務づけられ、公園・校庭・駐車場は遊水池を兼ね、歩道や水路は透水性構造となった。この中で「みずがめ作戦」と呼ばれた各戸・各事業所での雨水貯留は、洪水流出の増加を押さえ・遅らせることに効果があったばかりでなく、小さな行動の積み重ねが治水には重要であることを人々に教えてくれた。「雨が降ってきたら、庭にバケツを出そう。雨どよの先に水がめをおこう。」という宣伝によって始められたこの運動は、時がたつと敷地内雨水貯留施設として改良・研究が進み、各戸にある駐車場スペースに見合ったコンクリート桝が考案され、土砂流入防止の芝張りや排水用小型ボンプナなども考案されている。大量生産による桝は安価となり、広いスペースをもつ事業所は組み合わせて設置した。自治体は補助金を交付した。雨上がりに排出される貯留水であるが、花壇への散水・洗車・農業用消毒水・水洗便所への接続などにも利用した。桝の設置が急激に増えたのは、発生した火事の初期消火に役立ったことをマスコミが報道したころであった。今では持ち家の69パーセント、事業所の54パーセント、公共施設の88パーセントが施設を持ち総貯留量は50立方メートルになっている。
 また、沿岸自治体は千曲川治水の運命共同体として力を合わせるため基金を設立し、これを重点事業の推進費とした。
 例えば、下流の人々は上流のダム水没予定地を視察し、その悲しみを分け合い、上流の人々は下流の洪水のあとを尋ね、苦しみを理解した。基金はダム補償の上乗せとして、堤防や河道整備の用地上乗せ費用としても支出され、事業の促進を図る共に流域の一体感をアピールした。この様にして、行政の枠組みが取り払われ流域全体としての支援体制が確立したため、ダムによって故郷を失う地主は「ここは水害のない村だった。下流の人のためになるのは、今までは嫌だったが・・・・・」と協力を申し出た。水害にも被害者がいるかぎり加害者がいる。被害者も加害者である場合も多い。人々がそのことを自覚したとき、治水事業は理解されやすくなり、一層の促進が図られた。

 O婦人は、この国際会議の直接責任者であるが、有力な千曲川委員会のメンバーでもある。控室のモニターテレビはフランス代表が発言をしている。O婦人は、ふっと、千曲川原に捨てられていたテレビを思い出していた。
 初めて「シンスイ」という言葉を聞いたとき、まず思い付いたのは「浸水」であり、実は「親水」で川や水辺と仲良くすることだと理解したときも、浸水解消もできずに何が親水かと思った。先生には川は恐ろしいところで子供達だけで行ってはいけないと教えられ、確かに、川で行方不明になった人を大人達がたけざおを持って探していた様子や水難地蔵に手を合わせていた母親の姿わ覚えている。久しぶりに千曲川に行ってみると、雑草が背丈以上に生い茂り風がザワザワと不気味な音をたて、足がすくんでしまう。つる草の中に自転車や冷蔵庫と一緒にテレビは捨てられていた。川原に出てみると割れたガラスが光り、あきカンが散らばっている。小石はぬるりとした皮膜に覆われている。両親が養蚕の網を乾かした川原は、素足で歩くことができない。千曲川の小石を「玉と拾わむ」と歌った万葉の歌人の嘆きが聞こえてきそうだ。岸辺を洗う水は掃除機のチリを解かしたようだ。濁しても「三尺下れば 澄む」と言われ、スイカを冷やし手ですくって飲んだ幼いころの水であった。

 O婦人は千曲川委員会で川の美化が達成されるなら、おのずから親水は可能だと主張した。これを受けて行政は、下水道の整備を促進し、支川の浚渫を行い、工場排水基準を強化し、有リン洗剤を規制した。沿岸の人々は、河川愛護会を中心に定期的な草刈り、あきカン・ゴミ拾い、不法投棄のパトロールを実施した。人間は、個々バラバラで生きていると原始人に戻ってしまうかもしれない。しかし、地域社会の中で共鳴できる活動の場を見いだしたとき、高いモラルを持ち生産的な行動を起こす。そのうえ、自分の行動は、同時に流域全体の動きの中の一つの行為を分担していることを自覚したため、人々の意識が変わった。人々が変わって、千曲川とその景観が戻ったのであった。
 豊かな自然・広大な空間・肥沃な土壌を持つ河川敷の利用について千曲川委員会が検討を行ったとき、Cさんは立ち上がって言った。「ワシらはみんな落第です。川をあんなにしてしまったのは大人の責任です、ここは ひとつ子供達に すっかり任せましょう」そこで、流域の子供達百人が一週間河川敷でキャンプをし、夢や希望を語り合った。公園やサッカー場・野球場が欲しい、泳げる場所や魚釣り場を作って欲しい。かぶと虫の養殖場・昆虫採集もしたい、イカダ下りや駅伝も。相撲大会や音楽会、サーカスはどうか。水害資料を集めて博物館。体験学習農園はおもしろいとおもう・・・・。千曲川委員会は、基金を活用し子供達の夢をつぎつぎに実現していった。今では、都会の学童が、教育課程の一環としてこの地を訪れ、キャンプをしながら遊び・学び・農場を体験するようになった。

 国際会議場では、まもなく「ナガノ宣言」が発表されようとしている。会議の成功が予感されSさんは、こんなイナカでも国際外交ができた喜びに満足していた。
 冬季五輪の年、大会役員としてS宅に滞在していたC・オナガン氏は、オーストラリア文化相を経験したウィーンの人である。歓迎に家族が「美しき蒼きドナウ」を合奏したとき、氏はドナウ川の話をしてくれた。西ドイツのシュパルツの森を源とし、黒海までの三千キロの大河は、ハンガリー、スイス、ユーゴ、ソ連など八カ国に添って流れ、所によっては深い峡谷となって山岳地帯を、また悠々と流れて牧野を潤す。美しい伝説と悲しい民話を持ち、人々の生活と心を豊かにする偉大な川だと語った。しかし、このごろ鉱山の乱開発や国ごとに異なる排水基準による水質の悪化、観光船と漁業の対立、対岸国どうしの堤防強化競争、ダム管理の不調整や運河建設による水量変化の問題等など多くの悩を抱えていることも語った。千曲川委員会の取り組んでいる上下流・対岸問題、環境の保全などの課題が、ドナウ川にもあるように世界の河川にもやはり存在し、なお、必要なことだとするならば、千曲川流域で築き上げた哲学と継続されている実践は、国際的普遍性をもつ地域文化となりうるだろう・・・・・そこに、大胆な発想が生まれた。この文化を世界に発信することによって、門前町と史蹟に依存していた都市像から脱皮し、国際都市としてのアイデンテイテイを確立することになり、地域の活性化が図られる。未来を切り開く新しいストーリーに挑戦する千曲川委員会は、「ナガノ宣言」の案文をもって世界に呼びかけた。
”河川は一国、あるいは複数国を貫流し、または国境となしていても人類共通の自然造形物であることを認識し、国際的に環境保全に努める必要を確認する。われわれは河川のもたらす恩恵を等しく享受し、またその災害からのがれたいと思う。河川は、国家の利害を越えた調整委員会によって、治水・利水・環境などの問題が処理されるべきであり、人々は健全な河川の保持のためその運営に努力する。”

 国際会議場では、C・オナガン氏が最後に発言を求めていた。
 「以前スポーツを通じて世界の平和に貢献したナガノが、いま再び河川を通して世界をひとつにした。河川という媒体によって、われわれは近隣諸国と相互協調すべきことを知り、また、地球環境の保全は小さな行動から達せられることも知った。子孫に誇りうる宣言を満場一致で採択したわれわれは、困難な問題が発生したとき必ずやこのナガノの地を訪れ、ナガノに学ぶことだろう。ナガノは千曲川の流れに、あのエデンの東の園を潤した川の姿を再現させているからである。」
 会場に拍手の音が続いている。

 少年の昔、洪水があると大人達は、貴重な橋桁を流してしまわないようにと村総出で取り外しをした。しのつく雨、乱打される半鐘、千曲川の濁流、若者が取り外した長い木材を肩に堤につぎつぎに駆け上がってくる。遠い位置から順次外す作業は手前が流されたら帰れない、肩にした木材を浮きにして濁流と戦わなければならない。いのちがけの行動を共にして村の団結が培われていた。
 その木橋は、いまでは幅の広い立派な永久橋になった。こんな暑い日でも橋の下は涼しい風が吹き、しばし真夏の夢を見させてくれた。


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