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「わが町の水辺の未来の夢」

9月1日の日誌にも掲載しましたが、
是非皆さんに読んで欲しくて、HPのトップページに掲載しました。

 9月定例県議会で、私は一般質問の一つに「千曲川の護岸改修と千曲川サミットの開催について」を質問しました。
 なぜかというと、浅川ダムをめぐる問題でも、浅川流域で水害を撲滅するためには千曲川を下流から整備することも欠かせない課題であり、そのためには、千曲川沿岸の各市町村の利害も左右すめため市町村がバラバラに建設省へ改修等を要望するのでなく、県の強力なリーダーシップのもとで、早期に安定した千曲川の機能と役割を達成すべきと思っているからです。
 そして、それまでは(下流の整備が進むまでは)県として、理由を市町村に説明し、それぞれの市町村の面積に応じて、時間雨量36.5ミリで何万トンの雨水調整をするよう指導することも問われていると思いますし、その具体的方法として各家庭への浸透桝の設置や、開発行為への指導、雨水調整池の整備など、実例を示し具体化すべきと思います。当然、その一つの方法としてダムも含まれまますが、海のない本県は千曲川を基本にして、この様な具体的な手法を総合して示せば県民の理解も得られやすいと思います。 
 実はこの発想は、昭和58年の豪雨による千曲川の氾濫で、千曲川の水位が上昇し、流入する支川のあちこちでも氾濫したことに対する終着の結論でした。 どんな小さな水害の解決にも、水利組合や対岸、上流、下流などの利害や、地形上の問題もあり、そう簡単に行くものではありません。いわゆる人間の世界で「あっちたてれば、こっちがたたず。」ということであり、水害対策で良く使われる言葉では「もぐら、たたき。」です。 
 でも、水害の被災者でも河川の構造などから、なぜ水害が起きているか原因を理解し「行政はこう考え、こうした事業を行って行くので将来何年後には解決します。」という計画的な対応を行っていれば、ガマンや安心が出来ます。
 しかし、残念ながら千曲川の対応は、広域的であることから、これまでそうした対応は行われてはいません。
 この課題は、今後私が何としても県議会の場で追い求めなければならない課題だと思っています。
 このなことを考えているうち、市役所のある方にお願いしておいた文書が見つかったと連絡があり頂いて来ました。 この文書は平成7年9月16日に50才の若さで病死された、長野市職員であった島田秀雄氏が建設省の懸賞論文に応募し入選したものです。彼が道路課の課長補佐をしている時、私に「議員さん。議員さん。これ懸賞論文に入選した私の文書ですが、読んで下さい。」と手渡され、その後、私も引っ越しなどでどこかえ行ってしまい、さがしていたものです。
 さっそく、この「わが町の水辺の未来の夢」と題する懸賞論文を、あらためて読みましたが、水害対策や河川愛護に対する島田さんの将来を展望した真剣な姿勢に感動し涙が出ました。 
 島田秀雄さんは今の筑波大学の前身である日本教育大学の大学院を経て、なぜかはわかりませんが畑違いである長野市役所に昭和45年4月に就職。農林部を経て昭和60年4月からは建設部河川課改修係長、平成元年4月から同・河川課長補佐、平成3年4月から同・道路課長補佐、平成7年3月末からオリンピック総務課主幹、そして同年9月16日に亡くなりました。
 私の知っているのは河川課の係長時代からですが、私が地区の都市型水害などでお願いに行くと一緒に現場を見て河川の構造をチェックし「もぐらたたき、ではあるけど、やりますか。」と言って対応をしてくれました。
 また、私が相次ぐ都市型水害に市議会の一般質問で「市は都市型水害対策に無策だ。」と再三再質問で市長に運動公園雨水調整池の建設を求め約束させた時も、当時の河川課長は「無策とはひどい。」と怒りを露わにしましたが、彼は「良く言ってくれた。」と、怒りを出しませんでした。 
 この懸賞論文を作成した年月日はわかりませんが、オリンピックの招致活動をしているころだと思います。でも、彼は皮肉にも亡くなる直前にオリンピック総務課に配属されましたが、オリンピックを見ることなく亡くなりました。
 私は、島田さんが河川課時代に「どうすれば水害は無くなるのか。」真剣に仕事をし、その結果、市内中小河川でも伝統的な水利組合や、上下流の利害などの壁に思い知らされ、最後は政治的な対応を求めたのだと思います。
 その意味で私への「議員さん。議員さん。これ懸賞論文に入選した私の文書ですが、読んで下さい。」という言葉を忘れず、私のバイブルとして、今後も水害撲滅のため全力で頑張りたいと思います。

 9月12日に一般質問を行った時、私は島田さんに感謝の意と敬意を込めて、この「わが町の水辺の未来の夢」を壇上に持って行きました。そして、ここに描かれている「未来の夢」を現実にするため力を込めて質問しました。

信濃毎日新聞の「浅川ダムー治水への住民参加」は良かったよ。でも。   2001.2.12
 2月7日から12日まで信濃毎日新聞に「自治新世紀 わたくしたちの手で」として「浅川ダムー自治への住民参加」が7回連載されました。
 実はこの記事の効きかけは、県政担当記者の一人である中谷圭治氏が昨年来、私の一般質問や委員会での質問を聞いたり、このHPに特集として掲載している「わが町の水辺の未来の夢」を見て感激したというメールを寄せて頂いた経過などにあるようです。そして、昨年11月22日の浅川ダム対話集会。田中知事がダムの一時中止を打ち出した後、私は下流域でこれまで水害に苦しんで来た皆さんの今日までの一つ一つの苦労の積み上げと気持ちを考えた時、これまでの党利党略や反対のための反対がもたらした住民への影響は何か。反対している皆さんは治水ということについての自らの責務を考えているのか。などを考えていました。
 そのな時、中谷記者から「わが町の水辺の未来の夢」を題材にして治水への住民参加を連載記事にしたいので、協力して欲しいと話しがありました。私は「子ども未来センターの連載記事の様に、何を言おうとしているのか分からず、結果的に知事は正しく県は悪人という印象を持つような、くだらない記事でなければ協力する。」と言い、これまでの長野市の水害対策の歴史や自ら雨水貯留している北堀の高原さん、過去の水害の苦しみから自らの土地を調整池として市に協力した石渡の竹内さん、下流への雨水調整のため開発行為の度に監視している石渡の街づくり対策委員会、これまで一緒に水害撲滅のために活動して来た皆さんを紹介しました。
 すると中谷記者は、これらの皆さんを一人一人取材し、「この問題がこんなに奥の深いものだとは思わなかった。どうまとめて良いか分からない。」と言って来ました。私は「水の問題は昔からカマやクワを持って血を流した歴史もある、そう簡単には解決しない。その通り書けば良いんじゃないの。」と言いました。しかし、中谷記者は何かに脅えている様でした。
 中谷記者が大変な動力と思い悩みまとめた記事が、ようやく7日から連載がはじまりました。私は出張先でもファックスで記事を取り寄せ読みました。そして、最後の12日に掲載された「治水の自治再構築を」との見出しで長野市役所職員として50才の若さで亡くなった島田秀雄さんの懸賞論文「わが町の水辺の未来の夢」をモチーフに住民参加の治水を訴えている記事を読み終わり感激しました。
 しかし、その横に新潟大の大熊孝教授の「上流・下流徹底的な話し合いを」と題するコメントを読み、複雑な気持ちになりました。言っている事は全体的には正しいと思いますが、「一度生まれてしまった不信感をひもといて行くのは楽ではない。・・・・仕切り直して再出発しないと信頼感は生まれません。」という様に、浅川ダム一時中止の知事の決定は仕切り直しであるだけに、今までの下流域、そして中流域の皆さんの苦労は、さらに、あの反対のための反対の皆さんを説得するのに言うに言われない苦労と時間を強いられなければならないのか。新潟の河川(信濃川)を愛する皆さんが、上流の千曲川でダムや狭隘な立ケ花によって下流の信濃川が水害から守られ、そのために今回の浅川ダム問題をはじめ上流の長野県民が苦しんでいる事実を黙視して「住民参加」を語れるのかということです。私はサケも戻ってこない千曲川の生態系を復活させるためにも大熊孝教授のご教授に従い、新潟県境からダムを壊す活動を提唱する決意をしました。
 後で調査しましたらこの大熊孝教授なる人物は民主党の公共事業見直しの委員会のメンバーとかで、知事が浅川ダムの検討委員会に入れたがっている方の様です。

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