第6章 結論
本論文は、低エネルギー集束イオンビーム装置および直接蒸着用液体金属イオン源すなわち集束イオンビーム直接蒸着装置を開発し、集束イオンビーム直接蒸着法を新しい微細加工手法、成膜手法として実現し、直接蒸着膜の基礎的な特性の測定およびその応用に関する探索をおこなってきた成果をまとめたものである。本章では、上記内容に関する研究成果を総括し、今後の展望および課題について述べる。
6−1.低エネルギー集束イオンビーム装置の研究(第2章)
集束イオンビーム直接蒸着法を実現するため、50〜100eVのエネルギー領域において1μm以下の最小ビーム径を持つ低エネルギー集束イオンビーム装置の開発をおこなった。設計手法としてレンズ系の倍率、球面収差および色収差を評価しビーム径を予測する手法を確立した。この手法を用いて低エネルギーの集束特性に優れたレンズ系を設計し、質量分離器、偏向電極、XYZステージ、超高真空系等からなる低エネルギー集束イオンビーム装置を開発した。この装置により、初めて1μm以下の低エネルギービームが実現できた。得られたビームはAu+ビームにおいて最小ビーム径0.35μm、ビーム径0.4〜7μmにおいてビーム電流密度〜300A/m2(〜30mA/cm2)であった。
評価手法による予測ビーム径と実際に得られたビーム径を比較検討することにより、ビーム電流密度を決定しているのは色収差であり、さらに高いビーム電流密度を得るにはレンズ系の色収差の改善およびイオン源においてエネルギー幅の小さなイオンビームを得る必要があることが明らかになった。また、最小ビーム径を決定しているのは倍率と実効的な線源径であり、さらに小さなビーム径を得るにはレンズ系の倍率を小さくすること、および実効的な線源径の小さなイオン源を開発する必要があることも明らかになった。
光学系の改善について述べるならば、この研究で用いた軸対称な電界レンズ系の色収差、球面収差の評価手法のみならず、完全3次元系において幾何収差、空間電荷の影響、電極形状および位置の誤差も含めてもすべて評価することのできる設計手法が必要とされるであろう。また、評価手法だけでなく、1μm以下が要求される加工精度、位置合わせ精度に現実にどのように対応するかも検討の余地が多く残されている。また、振動に対する対策、電源系のリップルに対する対策に関しても考えるべき課題は多い。
低エネルギー集束イオンビーム装置における今後の課題は、上記した色収差の改善、倍率の縮小の他、試料観察用の走査電子顕微鏡の組み込み、試料観察用光学顕微鏡の高解像度化、電界電離型ガスイオン源1)の使用、複数イオン源の交換機能、基板加熱機能の組み込み、特性計測手段の組込等が考えられる。多種のイオン種を様々なエネルギーにおいて組み合わせることにより、超高真空中で多くの加工が連続的になされることは、いわゆる真空内一貫プロセス2)をこの装置のみで実現することをも意味する。
集束イオンビーム直接蒸着法が実用的な手法として広く社会に受け入れられるためには、装置があまり大がかりにならず、また高価にならないことも必要な条件であることを忘れてはなるまい。
6−2.直接蒸着用液体金属イオン源の研究(第3章)
集束イオンビーム直接蒸着法を目的とした、導電体用イオン源(Au、Cu、Al)、超伝導体用イオン源(Nb)および磁性体用イオン源(Co)の開発をおこなった。その結果、導電体用としては、Au−Si合金イオン源、Au−Cu合金イオン源、Au−Cu−Si合金イオン源、Au−Cu−Ge合金イオン源、Al−Au−Ge合金イオン源、Au−Cu−Al合金イオン源、Au−Cu−Al−Ge合金イオン源およびNb−Au−Cu合金イオン源が、超伝導体用イオン源としてNb−Au−Cu合金イオン源が、また磁性体用イオン源として、Cu−Co−Nb−Au合金イオン源が充分なビーム安定性と100時間以上の寿命をもち、実用に足る性能を満足した。しかし、Nb、Coにおいては、引き出しビーム中の割合が10%に満たないので、これを増やすための開発が必要であろう。
Nb−Au−Cu合金イオン源を用いてエネルギー分布の測定をおこない、各イオン種が通常の運転条件において20〜30eV程度のエネルギー幅を持つことを確認した。
今後、さらに多様なイオン種に対応することが求められるものと思われる。また、前節において述べたように、ビーム径の微細化、ビーム電流密度の増大にはイオン源に依存する部分が大きい。実効的な線源径、エネルギー幅に焦点を合わせそれらを最適化することを目的としたイオン源開発が今後必要とされるであろう。そのような開発をより計画的系統的におこなうためにも、必ずしも現在明らかにされているとは言えない液体金属イオン源におけるイオン化機構の解明が待たれる。
液体金属イオン源は小規模の装置により金属イオンビームを長時間安定に得ることが可能な、貴重な手法である。現在は集束イオンビームに用いられるのみであるが、より広範囲な利用が可能であろうと思われる。また、運転条件を変えることにより、非常に多くの中性原子あるいは液滴が発生することも知られている3)。中性原子源として利用することにより新しい真空蒸着手法となることも可能であろうと思われる。
6−3.集束イオンビーム直接蒸着法で成膜した薄膜の評価研究(第4章)
低エネルギー集束イオンビームにより金属薄膜を成膜し、付着確率の測定、高純度成膜の確認、電気特性、超伝導特性、および蒸着膜の結晶構造に関して評価をおこなった。付着確率に関しては従来の測定結果に対してより確度の高い精密な測定結果を得ることができた。純度に関してオージェ電子分光法と2次イオン質量分析法を用いてAu試料の分析をおこない、電流密度と残留ガス圧から予想される純度と矛盾しない高純度が達成されていることを確認した。この結果により、集束イオンビーム直接蒸着法が高純度薄膜を作製することのできる新しい手法であることを証明した。電気特性に関し、Au、Cu、Alについて抵抗率を測定し、エネルギーに対する明瞭な依存性は認められず、バルク抵抗値の1.2〜1.6倍(Au、Cu)、2.2〜2.7倍(Al)という薄膜として実用上問題のない値であることを確認した。バルク値との差は、結晶構造に起因するものと思われる。超伝導特性に関しては、Nbの臨界温度の測定をおこない、エネルギーに対する依存性は認められないこと、8.5〜9Kという実用に足る臨界温度を持つことを確認した。蒸着膜の結晶構造に関しては、反射高速電子回折法、透過電子顕微鏡像およびX線回折法により解析した結果、最表面はアモルファスに近い状態であること、結晶粒径が30〜100nmの多結晶であること、各結晶粒は偏った配向をしているという結果を得た。
これらの結果はまだ断片的なものであり、集束イオンビーム直接蒸着膜の基本的な特性全体を明らかにするためには、多種の元素に関して系統的により詳細に研究をおこなうことが必要である。また、これにより不純物の影響より逃れることが困難であったイオンビーム蒸着手法自体の特性がかなりの部分明らかにされるであろう。
エネルギーの効果に関して、現状では明白な効果は観測されていない。イオンビーム自体のエネルギー幅が20〜30eVと比較的大きいことによりエネルギーの効果が隠されている可能性もあり、今後イオン源技術の進歩によりエネルギー幅をもっと狭い範囲に制御して研究を続ける必要があるであろう。この手法は今後、低エネルギーイオンと物質の相互作用においてイオンの運動エネルギーが物質形成過程を支配することによる結晶構造制御の可能性、さらにそのような過程を経ることにより初めて可能になるような原子間結合4、5)の可能性を探索するための有用な手段である。
6−4.集束イオンビーム直接蒸着法の応用研究(第5章)
集束イオンビーム直接蒸着法の特長を生かした応用の探索として、絶縁物上曲面上への蒸着、回路修正への応用、弾性表面波素子への応用、SQUIDへの応用、磁気多層膜への応用および微小試料に対する電極形成を試みた。絶縁物上への蒸着は、有限な抵抗値で接地された金属パターンから蒸着を始めることにより電荷の逃げ道を自身で作製しながらパターンを延長する手法を確立した。曲面上への蒸着に関しては、ビーム位置が補正可能な範囲であれば、可能であることを確認した。回路修正への応用では、保護膜に覆われているICの配線パターン間の接続が低抵抗で可能であることを確認した。弾性表面波素子への応用では、複数の金属により電極の作製が可能であり、その基本的な特性に関してリソグラフィーの工程を用いて作製されたフィルターと比較して遜色のないものであることを確認した。SQUIDへの応用では、準平面型ジョセフソン接合のマイクロブリッジ部分を集束イオンビーム直接蒸着法により作製し、DC−SQUID磁力計を構成してそれが従来のものと比較して遜色のない性能を持つことを確認した。磁気多層膜への応用において、合金イオン源と質量分離器による金属多層膜作製の手法を確立し、GMR効果の発現を確認した。また同時に、膜厚、平坦度等の制御において原子層程度の精度が可能であることが明らかになった。微小試料に対する電極形成においては、他の方法では電極の形成が不可能であるような微小で脆弱な試料に対して電極の形成が可能であることを明らかにした。
今後、これらの応用研究をさらに発展させて、真に実用的な領域に到達させなければならない。重要なことは他の手法では不可能な加工をこの手法で実現することである。そのための応用の探索は継続して続けられなければならないであろう。
生産用の成膜装置という観点から見ると、この手法の最大の欠点は、量産に不向きであることである。たとえば、図2−12に示したシリコン基板上に描画した「FIBDD」という金文字は、描画に要した時間は約20分であり、偏向電極に与える電位を制御するコンピューターのプログラミングに要した時間とあわせても加工に要した時間は半日程度である。通常のリソグラフィープロセスにおいて同じ大きさの「FIBDD」を作製しようとすると、プロセスの条件はすでに確定されているとしても、プロセスに要する時間は2〜3日、マスクの製作も含めると少なくとも1週間の時間がかかる。しかし、通常のプロセスでは、それが100万個の「FIBDD」であってもほぼ同じ時間で作製できるが、集束イオンビーム直接蒸着法にとっては装置寿命よりも長くなり実質的に不可能である。コストについても同様な比較をおこなうことが可能である。リソグラフィーで「FIBDD」を作製するためには、全体で集束イオンビーム装置の約10倍程度の価格のプロセス装置が必要とされる。さらに、リソグラフィーではクリーンルーム、何種類かの産業廃棄物の処理等付帯設備も必要になるのに対し、低エネルギー集束イオンビーム装置は通常の実験室に設置が可能であり、産業廃棄物も一切出ない。これらのことを考えると、研究開発における開発期間の短縮、および少量生産における設備費の縮小という観点において、集束イオンビーム直接蒸着法がコスト的にも成り立つ場所があるものと考えられる。今後、このような観点で応用を探索していくことも必要である。
第6章の参考文献
1) J.Oroff : "High-resolution focused ion beams", Rev.Sci.Instrum. 64 (1993) 1105.
2) E.Miyauchi and H.Hashimoto : "Application of focused ion beam technology to maskless ion implantation in a molecular beam epitaxy grown GaAs or AlGaAs epitaxial layer for three Dimentional dimentional pattern doping crystal growth", J.Vac.Sci.Technol. A4 (1986) 933.
3) C.D'Cruz, K.Pourrezaei and A.Wagner : "Ion cluster emission and deposition from liquid gold ion sources", J.Appl.Phys. 58 (1985) 2724.
4) 石川順三:”極低エネルギーイオンビームを用いた薄膜形成”応用物理 62 (1993) 1180.
5) J.Ishikawa : "Applications of negative-ion beams", Surf.Coat.Technol. 65 (1994) 64.