5−6.磁気多層膜への応用
近年、強磁性/非磁性人工格子において巨大磁気抵抗(Giant Magnetoresistance:GMR)と呼ばれる、バルクの強磁性体における異方性MR効果よりもはるかに大きく、また非磁性体の膜厚により周期的、共鳴的に変化する特異な現象が発見された9、10)。その代表的な例がCo/Cu人工格子膜であり、特に大きなMR比を持つことが報告されている11)。GMR効果が発現するためには、人工格子膜を構成するそれぞれの金属の膜質が良質であるのみならず、1原子層以下の精度で膜厚が制御できること、および平坦度がやはり1原子層程度の均一性を持つことが条件とされる。集束イオンビーム直接蒸着法で成膜した磁性薄膜が、上記の条件を満たすものかどうかを見極めるためにCo/Cuの多層膜の作製をおこない、MR特性の測定をおこなった12)。
集束イオンビーム直接蒸着法により選択的な成膜をおこなうと同時に多層膜(人工格子膜)の成膜が原理的に可能であるのは、合金イオン源の利用によりイオン種の切り替えがきわめて簡単におこなうことができ、かつビーム形状およびビーム位置が原理的にイオン種によらずほぼ一定であるからである。すなわち、質量分離器によりイオン種を選別する他は合金イオン源から引き出される各イオン種は全く同じ静電的な光学系を経由するため、イオン種間で基本的に位置ずれが発生せず、また実効的な線源径およびエネルギー幅がほぼ同じであれば同じビーム径のビームが得られる。また膜厚は、あらかじめ各イオン種に対する付着確率を測定しておけば、ビーム電流値と走査速度および走査回数を調整することにより精密な制御をおこなうことが可能である。
Co/Cu人工格子膜を作製するためには、CoとCuを含有する合金イオン源が必要であるので、第3章において述べたように、Co−Cu−Nb−Au合金液体金属イオン源を作製し使用した。
Co/Cu多層膜は半絶縁性のGaAs基板上に作製した。大きさは約14μm×76μmであり、2.0nmのCo薄膜12層と1.34〜2.23nm(計算上)のCu薄膜11層を交互に積層した。Co薄膜はエネルギーが64eVでビーム電流値が160〜200pAのCo2+ビームを用い、Cu薄膜はエネルギーが32eVでビーム電流値が500〜600pAのCu+ビームを用いた。ビーム径はどちらも4μm程度であり、成膜中の残留ガス圧(真空度)は2×10−7Paであった。膜厚を厳密に推定するために、それぞれのビームを用いて同じ大きさ(同じ走査範囲)で長時間成膜した試料(厚さ50〜100nm)を作製し、厚さを段差計により測定した。人工格子膜の成膜に引き続き、エネルギー54eVのAu+ビームを用いて4探針に相当するプローブ線を蒸着し、さらにそのプローブ線を延長してボンディング用のパッド状電極を成膜する。この基板をIC用のパッケージに接着し、ワイヤボンディングの後、評価をおこなった。図5−20にこのようにして作製した試料の光学顕微鏡像を示す。
図5−20.作製したCo/Cu多層膜の試料例
以上述べたような方法でCu層の膜厚を変えながら作製した試料を磁界中に配置し、抵抗変化を測定した。測定は、磁界方向と試料に流す電流方向が平行な場合と、垂直な場合の二通りについておこなった。測定例を図5−21に示す。この例は測定したうちでもっとも大きなMR比が得られたCu膜厚2.1nmの測定結果である。横軸は磁界強度を示し、縦軸はMR比(△R/R)を示す。MR比は磁界強度が充分強いときの抵抗に対する抵抗変化の比で定義されている。図の上半分は磁界と電流が垂直な場合、下半分は平行な場合を示している。Co層はそれだけで異方性MR効果を持っている。GMRは等方的なので平行な場合がGMR効果のみを表し、垂直な場合はGMR効果と異方性MR効果の和を表す。この場合、GMRのMR比は6.4%、異方性MRのMR比は0.4%である。なお、測定は室温でおこなっている。図中の2本の実線は、磁界をマイナス側からプラス側に走査した場合の測定値と、プラス側からマイナス側に走査した場合の測定値を示す。
このようにしてCu層の厚みを1.34〜2.23nmの範囲(計算上)で変化させ、MR比を測定した結果を図5−22に示す。スパッタ蒸着法で成膜したCo/Cu人工格子膜における第2MRピーク位置(Cu層厚2.1nm)付近で極大となり、交換結合型GMR膜特有の曲線を示している。ピーク位置におけるMR比(6.4%)自体はスパッタ成膜において観測される値(たとえば34%11)、14%13))よりも小さいが、この結果により、集束イオンビーム直接蒸着法によっても人工格子GMR膜の作製が可能であることがわかった。これは、集束イオンビーム直接蒸着膜が、磁性膜の作製に有効であるのみならず、1原子層以下の膜厚制御性をもち、また各層間の界面がきわめて平坦であることを示している。イオンビーム蒸着においてはエネルギーの効果により界面で1〜数原子層の界面混合層の形成が予想されるが、MR比の低下の原因にはなっている可能性があるものの、決定的にGMRの発現を妨げるものではないことがわかった。
この結果は、集束イオンビーム直接蒸着法が磁性薄膜の成膜および人工格子膜の作製に有効であることを示している。また、集束イオンビーム直接蒸着法は、周辺への汚染なしに選択成長できる方法なので、半導体プロセスの中に磁性体を共存させる一つの手段になる可能性を持っている。
図5−21.電流と磁界が垂直な場合と平行な場合における磁界とMR比の関係
(図中の矢印は磁界の走査の方向を示す)
図5−22.Co/Cu多層膜におけるCuの膜厚に対するMR比の関係