5−4.弾性表面波素子への応用
弾性表面波(Surface Acoustic Wave)素子は、レーダーへの応用に始まり、テレビ受信機のフィルターとして一般的に使われるようになり、最近では移動体通信機器用のフィルターに広く使われている4)。その原理は、圧電体基板上に櫛形電極(Inter-Digital Transducer)を形成し、櫛形電極に高周波電力を入力して圧電体基板表面に弾性表面波を発生させ、別の櫛形電極により弾性表面波を再び高周波(電気)信号に戻すものである。弾性表面波の波長が電磁波と比較して10−5程度小さいために電気部品として小型になること、伝搬損失が小さいために効率の良い電気部品となること、半導体プロセス技術が製造に応用できるために量産性に優れているといった特長を持っている。
弾性表面波素子の典型的な応用例は伝送型高周波フィルターであり、圧電体基板表面に作製された2組の櫛形電極より構成される。励振側櫛形電極に入力された高周波電力は圧電現象により弾性表面波に変換され、圧電体基板表面を伝搬する。この弾性表面波は受信側櫛形電極により再び高周波電力に変換される。櫛形電極は、極性が異なる電極が交互に一定の間隔で並べられる。その間隔は共振周波数の波長に相当する。共振周波数と波長の積はその圧電体基板の音速に対応し、材質と結晶方位により固有の値を持つ。櫛形電極の数、形状により共振周波数の分布、透過効率(減衰)等のフィルターとしての基本的な特性が決定される。
図5−6.伝送型弾性表面波フィルターの原理図
集束イオンビーム直接蒸着法により弾性表面波素子の櫛形電極を作製すれば、強い付着力を生かした様々な金属材料の利用が可能となる。櫛形電極の材質は通常AlかAlを主成分とする合金が用いられている。より低抵抗率であるCuや、より化学的に安定であるAuを用いて櫛形電極を作製すれば、耐電力特性、耐環境特性において優れた弾性表面波素子作製が期待できる。また、集束イオンビーム直接蒸着法の加工の自由度を生かせば、任意の断面形状、2次元的な膜厚の制御、異種金属材料の組み合わせといったリソグラフィーを用いた従来のプロセス技術では作製することが困難あるいは不可能な櫛形電極を作製可能である。このような利点が期待できる弾性表面波素子作製に集束イオンビーム直接蒸着法が応用できることを確認するために、伝送型弾性表面波フィルターを作製し、その基礎的な特性の測定を試みた5)。
使用した基板は3インチのLiNbO3で、結晶方位は(64°YX)である。この基板の音速は4700m/sである。まず、フォトリソグラフィーの工程により、基板上に櫛形電極間を接続するための矩形のAl電極を作製する。このときの試料パターンの光学顕微鏡像を図5−7に示す。次に矩形電極がターゲットホルダーに接続されていない場合には、30〜100eVのAu+ビームを用いて接続されている部位より導電パターンを延長し、ターゲットホルダーとの電気的接続をおこなう。次にAu+、Cu+、Al+ビームにより櫛形電極を作製した。櫛形電極の膜厚が薄い場合(20nm以下)には、矩形電極との段差部分において抵抗が生じる場合があったため、段差部分の膜厚のみ100nm程度にした。電極1本の長さは100μm以下であったため偏向電極によるビームの制御で描画したが、電極が並ぶ方向へは数100μmの移動が必要であったため、この方向は試料ステージにより移動した。このようにして作製した櫛形電極加工後の試料の光学顕微鏡像の例を図5−8に示す。
図5−7.櫛形電極形成前のパターン例
図5−8.櫛形電極形成後の試料例
作製、評価した試料は、VHF(Very High Frequency)帯の伝送型フィルターとUHF(Ultra High Frequency)帯伝送型フィルターの2種である。VHF帯の試料の櫛形電極は、32eVのCu+およびAu+により形成した。電極間隔(中心間)は10μm、すなわち1周期は20μmで電極幅は2μm、励振側、受信側とも9組の櫛形電極により構成される。電極の平均的な膜厚は88nmであり、矩形電極間の距離(櫛形電極の長さ)は96μmであった。測定は基板のままプローブ電極を矩形電極におしあて、ネットワークアナライザ( network analyzer )を用いておこなった。Cu電極の場合の伝送特性を図5−9に、Au電極の場合を図5−10に示す。いずれも音速と電極周期より予想される235MHzに10〜15dB程度のピークを持つフィルター特性を得た。AuとCuにおいて顕著な差は観察されない。700MHzのあたりに高調波の小さなピークが観察される。およそ1.4GHzにピークがあるゆるやかな山は、励振側の矩形電極と受信側の矩形電極間の静電的な結合によるものと思われる。このように投入された電力の多くが弾性表面波以外に変換されたのは、主に素子の設計上の問題であり櫛形電極の性能を示すものではない。むしろ、9組の電極により10〜15dBのピーク高さが得られたことは、励振、受信における電気信号のエネルギーと機械的振動のエネルギー間の変換効率(電気機械結合係数)が従来のAl電極とリソグラフィーにより形成された櫛形電極に対して遜色がないことを示している。
図5−9.Cu電極VHF帯フィルターの伝送特性
図5−10.Au電極VHF帯フィルターの伝送特性
UHF帯伝送型フィルター試料は、32eVのAu+ビームを用いた電極間距離2.0μm、電極幅1μm、平均電極厚さ20nm、電極長さ48μm、励振側受信側とも41組のものと、32eVのAl+ビームを用いた電極間距離2.4μm、電極幅1μm、平均電極厚さ10nm、電極長さ48μm、励振側受信側とも41組のものを作製した。Au電極による試料の伝送特性測定結果を図5−11に、Al電極による試料の伝送特性測定結果を図5−12に示す。Au電極試料においては、電極間距離から予想される周波数(1.175GHz)の近傍である1.078GHzの位置に高さがおよそ20dBのピークが観測されている。また、Al電極試料においても、電極間距離から予想される周波数(979MHz)の近傍である917MHzに高さおよそ20dBのピークが観察されている。
比較のために、スパッタ成膜したAl膜をリソグラフィーとリフトオフ工程により、電極間距離2.4μm、電極幅1.2μm、電極厚さ80nm、電極長さ48μm、励振側受信側とも81組の櫛形電極よりなる参照試料を作製した。参照試料の伝送特性測定結果を図5−13に示す。ピーク幅、形状に若干の違いはあるものの、予想周波数(979MHz)の近傍である924MHzにおよそ20dBの高さのピークが観察される。電極数が半分であるにもかかわらず、Au電極試料におけるピーク位置での減衰は参照試料よりも少ない結果を示している。これは、直接蒸着したAu電極における電気機械結合係数がスパッタ蒸着法で成膜した参照試料の電極よりも優れている可能性あるいは櫛形電極の電気抵抗が小さいことによる効果を示しているものと思われる。一方Al電極試料は参照試料よりも減衰が多い。電極の膜厚が小さく抵抗成分が大きくなったことが原因ではないかと推測している。
以上の結果より、集束イオンビーム直接蒸着膜による櫛形電極の作製は、リソグラフィーの工程により作製した電極と比較して遜色のないものであり、耐電力、耐環境、自由な断面形状の作製といった直接蒸着法に期待される特性を追求していく上で、基本的な問題がないことが確認された。前述した入出力側それぞれ41組合計82組の櫛形電極の作製に要する時間は2〜3時間程度であり、この手法を弾性表面波素子の量産に用いることを望むことはできないが、Au電極、Cu電極等の使用により耐電力、耐環境に特に優れた素子の少量生産には対応できる可能性がある。また、開発段階における設計支援装置として試料の試作、修正等においても有用であろう。より基礎研究的にはなるが、任意な断面形状をもつ櫛形電極を多種金属を組み合わせて作製し、リソグラフィーを用いた手法では作製不可能であるような構造により生じる新しい機能を追求することも可能となる。
図5−11.Au電極UHF帯フィルターの伝送特性
図5−12.Al電極UHF帯フィルターの伝送特性
図5−13.Al電極参照用試料の伝送特性