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July 19th (SUN)


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日本の戦争責任を肩代わりさせられた
 
韓国・朝鮮人BC級戦犯者パネル展 みんなきてね!

日 時:12月12日(土)〜13日(日)
場 所:ギャラリー・エル・ソル
    
東京都田無市南町5-3-5 phone:0424-68-3558

主 催:韓国・朝鮮人BC級戦犯者を考える田無の会
連絡先:0424-64-3795(朴)

原告・文済行(むんじぇへん)さん逝く。

11月13日。突然の訃報でした。支える会メンバー一同言葉を失っています。
長身にステッキをたずさえ、どこか飄々とした雰囲気を漂わせたジェントルマン。そんな文済行さんの風貌から、苦難に満ちたこれまでの歩みを感じとるのは困難なほど。自らの体験を語る言葉も少なめで、決して声を荒げたり怒りをあらわにすることのない人でした。しかし、今あらためて振り返ってみると、文さんは、その静けさの奥に秘めていた苛烈な生き様を、私たちの胸に一層強く刻みつけてゆかれたように思われてなりません。
戦犯に問われた朝鮮人青年のなかでは比較的刑期が短く、そのためスガモ・プリズンからの出所も早かった文さんは、それゆえに戦後日本の最も生きづらい時期を生き抜かねばなりませんでした。家族の温かい歓迎を受けて出所する日本人戦犯とは異なり、朝鮮人戦犯にとって、戦後日本はまったくの異国の地。家族や友人、住まい、仕事、…明日からの生活を保証してくれる何ものもない、獄中以上に厳しい現実が待っていたのです。同時期に出所した二人の仲間は、生活苦と厭世観にさいなまれた挙げ句に自殺。文さんも飢餓線上をさまよい、仕事を求めて各地を転々とする生活が続きました。そんな中、文さんは、仲間が出所するたびに、片道数時間はかかる道のりを徒歩で出迎えに行ったといいます。自分が出所したときは、誰もいなくて心細くつらかったから、と。
ジャワの戦犯刑務所で文さんと同房だった李永吉
(いよんぎる)さんは、戦犯に問われた衝撃から精神分裂病を発症、スガモ・プリズン出所後半世紀近くを精神病院の閉鎖病棟で過ごし、91年に亡くなりました。文さんは李さんの見舞いにも足繁く通い、同進会の仲間たちとお金を出し合って、彼に背広をあつらえたりしました。「永吉さんのお葬式のとき、お棺の中に背広を入れてあげたんです。あの人は本当にかわいそうでしたよ」。自分のことを語る時には決して見せない涙をためて、そう呟いた文さんの切ない表情は、今も鮮やかに脳裏に甦ります。
昨年(97年)4月に原告最高齢の朴允商
(ぱくゆんさん)さんが、8月には李善根(いそんぐん)さんが亡くなり、さらに今年2月には原告団長の文泰福(むんてぼく)さんが相次いでこの世を去っています。文済行さんの死によって、裁判提訴当時六人いた当事者原告(七人の原告中、一人は遺族)はいまや三人だけになってしまいました。
今年7月に出された高裁判決は「この問題の早期解決を図るため適切な立法措置を講じる」必要性を認めました。それから数カ月過ぎた今もなお、日本政府はこれに応える動きを何一つ見せていません。
政府・国会は、被害者の死を待っているのでしょうか?
責任を放置したまま「時効」が訪れるのを願っているのでしょうか?
文済行さんの死は、今またひとつ日本政府に罪状を加えました――ひとりの人間の尊厳を踏みつけにし、何一つ償わぬままに、彼に死を迎えさせた、ということにおいて。そして、そのようなやり方を日本政府に許してきた私たち自身の責任もまた、重く、深く、問われなければならないと感じます。

判決についてのご意見やご感想、
また、この問題へのお考えなどを下記までお寄せ下さい。

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