原告の
プロフィール
profile of plaintiffs




文泰福(ムン・テボク)

1923年生まれ。タイ捕虜収容所勤務。1946年イギリスの戦犯裁判で死刑判決を受ける。100日間を死刑囚房で過ごし、その間何度も仲間の死刑執行を見送った。長文の遺書をのこして逝った趙文相(チョウ・ムンサン)もそのうちのひとりである。後に懲役10年に減刑。1952年仮釈放。韓国・朝鮮人BC級戦犯とその家族・遺族の会「同進会」の会長を務めてきたが、今年2月2日亡くなった。享年74歳。裁判は、長男が承継している。


李鶴来(イ・ハンネ)

1925年生まれ。タイ捕虜収容所勤務。逮捕後、一度起訴状却下になったが、1947年再逮捕。オーストラリア戦犯裁判で死刑判決を受け、10カ月を死刑囚房で過ごす。その経緯を獄中で綴った「私乃手記」は、現在係争中の裁判で証拠資料として裁判所に提出された。原告中最年少の李さんは、日本軍に動員された当時16歳、死刑判決を受けた時20歳だった。1956年釈放。


尹東鉉(ユン・ドンヒョン)

1922年生まれ。マレー捕虜収容所勤務。1947年オランダ戦犯裁判で懲役20年の刑を受ける。1950年スガモ・プリズンからの仮釈放命令に対し、補償も援護もなしに放り出されては生きてゆけないと出所拒否、ハンストを行った。だが翌年には無理矢理「釈放」されてしまう。同時期、尹さんの他に二人が出所拒否をしている。「釈放」は彼らにとって「飢え」を意味した。


金完根(キム・ワングン)

1922年生まれ。ジャワ捕虜収容所勤務。上官には、映画「戦場のメリークリスマス」で有名になった、サディスティックな軍曹“バンブー・モリ”(ビート・タケシが演じた役のモデル、いつも竹の鞭を身につけていたためこの名がついた)がいた。その暴力に耐えきれず、同僚の朝鮮人監視員は自殺。1946年、イギリスの戦犯裁判で懲役10年の刑を受ける。1952年仮釈放。


文済行(ムン・ジェヘン)

1922年生まれ。ジャワ捕虜収容所のほか、民間人抑留所や東部防衛隊など、契約外の勤務を次々と強いられた。戦後戦犯として逮捕され、一度釈放後オランダ戦犯裁判で懲役10年の刑に。1951年仮釈放。朝鮮人戦犯の中では早期に釈放された文さんにとって、敗戦後の混乱期を生きることはある意味では獄中以上に厳しかった。同時期に釈放された二人の仲間は自殺した。98年11月に他界。享年76歳。


朴允商(パク・ユンサン)

戸籍上は1914年生まれ。ジャワ捕虜収容所勤務。空襲で重傷を負い、生涯後遺症に苦しんだ。1947年、オランダ戦犯裁判で懲役15年の刑に。同年、郷里の妻は周囲の白眼視に耐えきれず、幼子を残して入水自殺。1954年仮釈放。1983年永住帰国。本裁判原告中最高齢。93年には、法廷証言のため不自由な足をおして来日した。97年4月18日、入院先の病院で他界。享年85歳。裁判は、韓国在住の妻と長男が承継している。


卞光洙(ピョン・グァンス)

故卞鐘尹氏の長男。韓国在住。父・鐘尹さんは、光洙さんが生まれる直前に日本軍に動員され、ジャワ捕虜収容所に勤務。1947年オランダ戦犯裁判の結果、銃殺刑に。韓国では、孤立を恐れ真実を語れない当事者・遺族が多い中光洙さんは、物心ついた頃から「戦犯の子」といじめられ故郷を追われた体験を日本の法廷で証言した。なお、光洙さんは現在「韓国太平洋戦争遺族会」副会長を務めている。


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