Bintang Besar vol.26
98/5『ビンタン・ブサール』第26号より


追悼 文泰福さん…林るみ
故文泰福氏告別式 悼辞…今村嗣夫


Bintang Besar vol.26
追悼 文泰福さん

林るみ(支える会メンバー)

 文泰福さんが亡くなって二か月が過ぎたというのに、いまもその現実を受け止めたくない気持ちでいる。あまりに早すぎるじゃありませんか、文さん。あの堂々とした体。ゆったりとした口調。“会長”という言葉にまさにふさわしい、落ちついた姿を二度と見られないとは信じられない。信じたくない。
 最後に言葉を交わしたのは、確か、一審の最終弁論が近づいたころ、裁判所でだった。体調が悪そうだったが、他の同進会の方々のことを気遣いながら「ムンさんも年だからねぇ」とユーモアを交えて語られた。そう、黒縁メガネの、厳格そうな“親分”といった風体とは不釣り合いなほど、文さんはいつも穏やかで、ユーモアも忘れない紳士だった。私たちの前では、怒りを露にせず、つねに静かに語った。それだけにいっそう、文さんの言葉は胸に響いてきた。
 文さんに、初めて詳しくお話をうかがったのは、七年前の初秋だった。『アサヒグラフ』で提訴をルポすることになり、延々とインタビューした。不勉強な私に、一つ一つ丁寧に説明してくださった。
 私にはどうしても尋ねたいことがあった。その年の夏、かつて文さんと同じく死刑判決を受けた李鶴来さんが、オーストラリアに行き、元俘虜の人たちに会い“加害者”側の一人として詫びていた。加害と被害の問題を文さんはどう考えるのか。文さんはしばしの沈黙の後で語り始めた。僕は今こうしてあなたと話をしている。あなたが上司の命令で来ていたとしても、僕が向き合っているのはあなた自身だ。それと同じで、俘虜にとっては僕個人がすべてだったと思う。今思えば、もっと違った接し方もあったかもしれない。コリアン・ガードは何も知らされていなかった――。そう辛そうに語る文さんを見て、質問をぶつけた自分の横柄ぶりが恥ずかしくなったのをおぼえている。
 提訴前には、職場にもうかがった。文さんは、仕事では日本名を使っているが、どこで提訴のことを知ったのか、取引先の日本人から「裁判を頑張ってくれ」と励ましがあった。そのときほど嬉しそうな文さんを見たことがない。
 ところが、その日、文さんの意外な言葉も聞いた。田無のお宅にも寄せていただいたのだが、そこには多くの本があった。確か、岩波の『世界』なども積んであった。「歴史を勉強している」という。そして文さんはこう言うのだ。
「僕は、今度の裁判は勝訴は難しいと思っているんですよ」
 えっ、裁判はこれから始まるのに。慌てる私に、文さんはいつもの落ちついた口調で説明された。
「われわれが楽々と勝てるほど、いまの日本の社会は進んでいませんよ。でも、だからこそ、日本のために、この裁判はやらなきゃいかんのですよ」
 文さんは日本の政治と社会の現状に、大変危機感を抱いていると言う。
「このままじゃ、日本はだめですよ。また戦争をやってしまいますよ。戦争が何だったか、きちんと伝えたい。そして日本政府の姿勢をきちんと正したい」
 そう力を込めて語る文さんに悲観的な様子はまったくなかった。むしろ目が輝いていた。そしてこう付け加えた。
「政治が変われば、話は別ですよ。僕は社会党の土井(たか子)さんに期待をしているんですよ。彼女が首相になるようなことがあれば、僕たちの裁判も変わりますよ」
 当時は誰もが予想できなかったことだが、その二年半後、社会党首相が生まれた。しかし、この問題をめぐる状況は、ほとんど変わらなかったと思う。文さんの絶望はいかほどだったろう。そして一審判決。その日、私は、肩を落とす文さんの無念を思うと、声もかけられなかった。
 「日本人のための裁判」。文さんの声がいまも響く。が、私自身、提訴以来、気ばかりが募って空回りするばかり。文さんの葬儀で、悲しみを堪えている李鶴来さんと金完根さんの姿を見たときは、とり返しのつかないところまで、時間がたってしまったような気がした。文さんの長い闘病生活、ご家族の苦しみを思うと、自分自身の非力さも含めて、やるせない。
 でも、甘い考えかもしれないが、文さんがどこかで「あきらめちゃだめよ」と言っているような気もする。文さんは政治を動かす司法へ期待を繋げた。裁判はご子息、芦沢承謙さんに引き継がれた。控訴審判決を目前にして、文さんが裁判に託した思いを、改めて噛みしめたい。


Bintang Besar vol.26
故文泰福氏告別式 悼辞

今村嗣夫(国家補償等請求訴訟弁護団)

 あなたの死は、日本のほとんどすべての新聞で報道されました。日本経済新聞、朝日、読売、毎日や共同通信によると思われる産経や東京新聞や地方新聞にみんな書いてあります。あなたのことを紹介した記事の一つを読んであげましょう。〈戦争中に植民地だった朝鮮から、日本軍の軍属として駆り出され、連合国捕虜の監視員などを務めた。戦争犯罪裁判で捕虜虐待を理由に服役した。これに対して、「戦争責任の肩代わりまでさせられた」「日本人と同様の補償を受けられないのは不当」などとして、日本政府に謝罪と補償を求める裁判を起こした。〉とあなたを紹介しているのです。
 原告団長のあなたと、いつもよき相談相手の李鶴来、金完根両氏をはじめ、七人の原告団と私たち七人の弁護団は、この裁判を「条理」裁判と名づけました。条理裁判とは、筋道を通す正義の裁判ということですが、日本の政治に欠けている正義を実現するための裁判が私たちの条理裁判です。
 あなたは、東和産業という事業のほかに、原告団長として正義の事業を遂行してこられたのでした。一生を損得勘定の日常生活に終始しがちな普通の人にはできないことです。裁判などという面倒なことはしないで、正義を貫くなどということは諦めてしまうのが普通です。その中にあってあなたはじめ、この条理裁判の原告団の人々の精神は若々しく不滅です。
 ここにあなたの東京地方裁判所の法廷での証言調書があります。この裁判を支える会の若者たちが作った、きれいな本になっています。この中に、三時間余りにわたって、あなたが証言台で語った言葉が、今も生きているのです。これはあなたの日本の政治に向けた正義の遺言です。少しあなたの証言を皆さんに紹介しましょう。
 あなたは、朝鮮の小学校を卒業してから、東京の中央大学に留学していたおじさんの世話で、日本に来て、東京神田の錦城中学校で学んでいたけれど、昭和一六年大東亜戦争が始まってからすぐ朝鮮へ帰り、昭和一七年八月、俘虜監視員として南方に動員され、タイ俘虜収容所で俘虜の監視をするようになったのでした。
 そしてあなたは、昭和一八年、クリアンクライという所で、上官から俘虜監視員のとりまとめ役を命じられました。それは、あなたが東京にいたということを知った上官のめがねにかなって監視員の責任者にされたのでしたが、そのことからあなたは戦後、戦犯裁判で死刑判決を受けるようになったわけです。
 けれど、その後、いわゆる俘虜虐待行為はしていないことが明らかになり、減刑され、あなたは生き延びることができたのでした。   (次のページに続く)
 死刑判決を受けた裁判はずさんなもので、たった一日で終わったというのです。弁護士の質問にあなたは次のように答えています。

一日で裁判が終わったとおっしゃったんですが、裁判の手続きが終わってから判決が出されるまでの間はどのくらいの時間がありましたか。
私の考えでは三〇分くらいです。

判決はあなたははっきり聞かれましたか。
ええ、多少、英語はわかるもんですから、「デス・バイ…」、あと「ハンギング」まで聞かなくても「デス・バイ」で、ああ、俺はもう死ぬのかと思いましたね。それで、奈落の底へ突き落とされたような感じで、ぼぉーっとしてました。

 この死刑判決後、あなたはPホールという死刑囚の独房に入れられ、死刑になるのを待つ身になったのでした。そのときの気持ちを弁護士は法廷で尋ねました。

あなたは、Pホールでどのような気持ちでおられたのでしょうか。
最初の一か月は、どういうように表現したらいいんでしょうか、なめくじに塩をぶっかけたような感じでのたうちまわっていました。要するに、死ぬ目的がはっきりしないんですね。誰のために、何のために死ななきゃいけないのかと、この若さで、当時、二三歳でしたから、それで、一か月過ぎますと、少し、もう誰のためでも、とにかく殺すと言うんだから死ぬ以外方法はないと、ただ、死ぬときにみっともない死に方はしたくない。元気よく万歳を叫んで死のうと、こういうように覚悟を決めました。

ある意味で死の覚悟ができてきたということですか。
ええ、段々、一か月後にできました。

あなたがPホールにいる間に絞首刑が執行された人たちは何人くらいおったでしょうか。
九人ぐらいおられました。

 条理裁判の原告団長であるあなたは、たんたんとご自分の人生を証言され、死刑になった仲間のことを思い、再び戦争によって自分たちのような悲惨な目にあう若者を、再び出してはならないと訴えておられたのです。
 あなたを支えた、原告団の仲間の皆さんと、家族の皆さんと、事業の取引先の皆さん、そして条理裁判を支えた若者と共に、あなたの生前の平和の訴えを受け継ぎ、この国の政治に正義を実現するための努力を、どんなにしんどくとも、お互いにできるだけ続けていきたいと思います。それが、条理裁判の原告団長に対する、最大の供養になるのではないかと思います。
 安らかに眠って下さい。

'98.2.6 田無山総持寺にて



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