Bintang Besar vol.25
98/2『ビンタン・ブサール』第25号より


Ontmoeting(出会い)…渡辺信夫
韓国・朝鮮人BC級戦犯の人たちと私…橋本良介


Bintang Besar vol.25
Ontmoeting(出会い)
オランダ人抑留者
対日道義請求裁判に関して

渡辺信夫(日本キリスト教会東京告白教会牧師
・支える会会員)

 一昨年秋から、オランダ民間人で第二次大戦中日本軍の抑留所に収容され虐待を受けた人たちの補償請求裁判に関わっています。日本人でこの裁判を支援する人がいることが向こうの団体(対日道義補償請求財団)の機関誌で紹介され、反響を呼んでいます。一昨年、私はあるオランダ人女性からクリスマスカードを貰いました。彼女は7年前にジャカルタの教会関係のゲストハウスの食堂で私と話し合ったことを覚えていてくれて、機関誌で私の名前を見たのでクリスマスカードと手紙をくれました。彼女は子供であった時、抑留所に入れられたのです。私は、戦争に参加した自分自身の戦争罪責を見詰めつつ生きて来たこと、そのことから度々インドネシアに来て、特にイリアン・ジャヤの人権問題に深く関わらずにおられなくなったことを話しました。そして「一日本人として、子供であったあなたに味わわせた苦痛について謝罪する」と言いますと、彼女は「あなたは謝罪するには及びません。悪いのはヒロヒトです。あなたは彼の命令に従っただけなのです」と言いました。私は彼女の状況把握の的確さに感心しましたが、ヒロヒトの命令だったからといって神に対する私の責任がなくなるわけではないことを論じました。
さて、昨年の暮れにまたバッカーさんという新しい人からクリスマスカードを貰いました。それは私たちの団体「オントムーティング」Ontmoeting(出会い)のことが向こうの機関誌に出たのを見て、団体の主立った人、内海愛子さん、小塩海平さん(支える会メンバー)の名前も書いて、私の所に送られて来たものです。「あなたがたの活動を、私も、私の家族も、私の属する教会の会員一同も感謝しています」と記され、旧軍人であることも書かれていました。私はこれにやや詳しく返事を書き、私がどういう者で、どういう経緯でこれに関わるようになったかを知らせました。その手紙に対する返事がこのほど届きました。長い手紙でした。その一部を抜き出し、意訳して紹介しましょう。

 「あなたや内海さんが韓国人元BC級戦犯の補償要求の裁判に関わっておられることを嬉しく思います。内海さんのお名前はガヴァン・マコーマック、ハンク・ネルソン共著「泰緬鉄道」の中に何度も出て来るので知っていました。彼女は優れた研究者であるとともに、助けを必要とする人々を助けるために、痛みを共にする感情を備えた素晴らしい方です。
 私がこのことに関心を持つのは、上記「泰緬鉄道」の中で朝鮮人グンゾクであったある故人の名を見たからです。彼は1947年2月25日にシンガポールで処刑されました。その日本名は武本幸治、韓国名はキム・テクシン(金澤振)です。私はこの本を読んで初めて彼の処刑を知ったのです。
 私が彼を知ったのは1943年の恐怖の日々、鉄道建設作業の中でした。武本は当時20代半ばの青年で、明かにその同僚の中では教育程度が高く、正確な英語を話しました。彼は看守ではなく収容所の事務長のような役割でした。それだけに収容所の中では影響力がありました。勿論、彼は多くの悪いこともし、時には我々俘虜に残虐な行為をしました。特にこの時代、モンスーンの雨の中、熱帯ジャングルで、長期間の雨と泥の中の重労働で、病気と飢餓、そして絶望が私たちを襲いました。私たちの多くが死んで行くことは避けられませんでした。
 戦後何年か経って、当時の出来事を思い返す機会がありました。その時初めて、武本という人が1943年という異常な事態の中で17歳のオランダ海兵隊員の命を二度に亘って助けたことを思い起こし、愕然としました。その若い兵隊が私だったのです。
 ある朝の収容所の整列の時、鉄道工事に出発する前、武本は私を列から外して、収容所の炊事場の作業の報告を命じました。こうして彼は私が飢えと病気と飢餓に遭わないよう守ってくれたのです。しかし私は若くて生一本でしたから、戦友たちと悲惨を共にしようと決意しました。私は武本に炊事場の作業を外して建設現場に戻してくれるよう頼みました。彼は私の言うことを理解せず、お前は何と馬鹿かと言い、ついには怒って私の顔を平手打ちしました。私は仲間のいる辛い仕事に戻りましたが、仲間のうちの或る者も私を馬鹿だと言いました。
 その三・四週間後、私が赤痢とマラリヤから回復し、作業に適すると日本軍の衛生兵から判定された時、武本は介入して、私をもう一度炊事場で働くように命じました。私は服従せざるを得ませんでしたが、不承不承でした。この役目は他のもっと内陸の収容所に移動してからも続きました。数箇月後に鉄道は完成し、俘虜の作業班が組み替えられた後、私は他の収容所に移り、その後また外の収容所に移りました。それは1944年2月の初めでした。その時から私は武本の姿を見なくなります。こうして1997年3月、53年の後、私は彼の運命を知ったのです。しかし、永遠の審判者であられる神が、武本を顧み、その短い生涯の間になした悪とともに善行を考慮に入れたもうたことを私は心から信じます。彼の霊魂が平安に安息しますように」。

 97年8月14日カトリックの白柳大司教がオランダで謝罪のためのミサをし、オランダ人に多大の感銘を与えたようです(読売新聞夕刊8月15日付)。ライデンで日本語礼拝を指導している佐々木悟史牧師が帰国の際このことを訴えました。私たちプロテスタントは95年に戦後50年の罪責告白文を作り、韓国、台湾、中国に赴いて謝罪の礼拝を捧げましたが、それ以外のところでは謝罪の集会は行なっていません。オランダで行なえば、カトリックのした以上の反響があるでしょう。バッカーさんもそれを望んでいるようです。ただし、私はオランダの対日感情を好転させることが、日本の天皇のヨーロッパ訪問に際して、オランダで歓迎されるための下準備にしか利用されない恐れがあると考えます。最近、イギリス首相が来日した時、日本の首相は戦時中の俘虜虐待について謝罪し、向こうの通俗新聞にも投稿するサーヴィスをしました。それは日本の天皇のイギリス訪問を歓迎して貰うための見え透いたリップサーヴィスであり、政府はこういうことには熱心であります。私たちの行動が善意から発するものであっても、そのような愚かなことにならないように気を付けたいと思います。キリスト者という立場を利用して、単に友好関係の促進のためだけではなく、普遍的な真理と正義のために、同じキリスト教信仰を持つ人々に訴え、連帯を作って行くことが出来るし、それをすべきだと思います。バッカーさんが朝鮮人軍属のことを思う以上に、日本人は戦犯として裁かれた旧植民地の人々に責任を感じなければなりません。私たちが謝罪のためにオランダに行くとすれば、それは旧植民地の人で日本人として罪を負わせられた人々の名誉回復のためでもなければならないでしょう。


Bintang Besar vol.25
韓国・朝鮮人BC級戦犯の人たちと私

橋本良介(摂津シネマサークル事務局長
・ 支える会会員)

 私は、9年前まで、朝鮮人・台湾人BC級戦犯の人たちのことをまったく知りませんでした。昭和天皇が死去した1989年、映画『私は貝になりたい』の摂津上映会を企画し、TV版『私は貝になりたい』を演出した岡本愛彦さんの講演会を聴きに行ったところ、岡本監督によって知らされたのでした。翌年の摂津上映会では、参加者にスライドとナレーションで、朝鮮人・台湾人BC級戦犯人たちに対する日本政府の理不尽な行為の経過を知らせました。そして、私個人は、京都ロシナンテ社が出している『月刊むすぶ』の一昨年1月号で、支える会・田口裕史さんの文章を読み、昨年6月頃に入会しました。私どものサークルも、昨年7月、映画制作・上映活動への支援を決めました。

 控訴審第4回公判の後、原告側の人たちの夕食についていった時、原告の金完根(キム ワングン)さんが、私に語られた言葉……「恨(ハン)とは、どこへもぶつける所のない、いきどおりですよ」に強い共感を覚えました。日本語の「恨み」よりも広がりと深みを感じます。
 この世に条理に叶わぬことは五万とあることでしょう。でも、そう言って手をこまねいていたら何も生まれません。人それぞれが限られた個々の出会いの中で、これと思った出会いと取り組むしかないと思います。また、「強い共感」自体は、客観的には、世の中のさまざまな対立の両側に起こり得ることなのでしょう。私も冷静に、「思い」を裏打ちする「論理」を築いていかなければなりません。
 ここではもう少し、「思い」について書かせて下さい。私が「どこへもぶつける所のない、いきどおり」に強く引き寄せられたのは、20歳の時「非A非B型肝炎」(私の場合、後年C型と確認された)に感染し、15年間の療養生活を送らざるを得なかったことも、個人的には絡んでいるのかもしれません。4年程前に主治医の勧めで、インターフェロン治療というのを受け、驚異的に炎症が治まり、現在血液検査をしてもまったく正常値、ビールもおいしくてうれしいのですが、療養生活が長かったせいか、素直に浮かれる気にはなれません。現代医学では治らないと言われた日々の無念の思いも忘れたくないのです。私が発病した1970年頃は、肝炎ウィルスの知識は一般化されておらず、友達から「うちのおかあちゃんから、あの子にうちの晩御飯食べに来んように言うてくれ(と)言われた」と聞いた時はショックでした。でも、感染するまでは自分も無知だったことを思うと、友や友の母上への怒りは沸きませんでした。
 私が療養中から関わりだした障害者運動の世界で、「共に生きる地域社会」という言葉がよく使われます。しかし、障害者と健常者の関わり合う場の実情は、新聞紙上を賑わしている福祉事務所の事件など氷山の一角だろうと思います。生き死ににかかわるところまでいかなくても、「行事への参加強制」と、「行事からの障害者排除」……この2つはあちこちで日常茶飯的に行われているはずです。この2つは、表面的には相反する行為ですが、元は同根です。それは、自由権、自己決定権の無視です。1994年、知的障害者育成会の全国大会(徳島)で、本人部会代表が「私たちに関することは、私たちを交えて決めて下さい」という決議文を読み上げた声がどうして届かないのでしょうか? 好意的に観ても、「障害者のために」「ユートピアを作ってやるのだから、黙ってついて来なさい」という差別的な姿勢しか思い浮かびません。「共に生きる地域社会」というのは、黙ってついて行けばいつかたどり着く、といったシロモノではありません。「共に生きる地域社会」は、常に、今にかかっているのだと思います。問題は「今」です。地域の障害者と健常者が、今、どう喜び悲しみを共にするか、どう共に輝くかが、最も大切なのだと思います。

 朝鮮人BC級戦犯の人たちが求めている、日本政府の謝罪と補償は、これは断固実現させなければなりません。昨年、朴允商(パク ユンサン)さん、李善根(イ ソングン)さんが亡くなり、今また文泰福(ムン テボク)さんの訃報を知り、支える会の新参者なりに思うことは、亡くなった方を始め当事者の方々が「今」を大切に生きてこられ、これからも生きていかれる……私も「今」の関わりを大切に生きていきます。運動は引き継がれていきます。日本政府の謝罪と補償が実現する日まで。
 公判廷で、李鶴来さんと金完根さんは、輝いていました。どう観ても、傍聴席からみて右側(国側)より、左側(原告側)のほうが圧倒的に輝いていました。

 大好きなデイビッド・リーン監督の『戦場にかける橋』は、少年時代に感激した作品ですが、今観ると、アジア人の描き方が気になります。お色気の面でのみアジア人女性が存在感を与えられています。脚本は“赤狩り”でハリウッドを追放された人が覆面ライターで書いていたのに。当時のリベラルの限界?
 東京裁判の映画が東映で制作中。東条英機を主人公に、インド独立運動をからめて、ですと!……



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