Bintang Besar vol.24
97/11『ビンタン・ブサール』第24号より


金五郎のおじさん(李善根氏)の思い出…朴理恵子
韓国での納骨を終えて…畠谷吉秋
  聞き手・まとめ / 大山美佐子


Bintang Besar vol.24

金五郎のおじさん(李善根氏)
の思い出

朴理恵子(BC級戦犯者遺族・支える会メンバー)

  おじさんが亡くなって、はや2ヶ月が過ぎました。まだ、実感できないような気もちです。
 おじさんには、お世話になったまま、何のご恩返しもできず、お別れになってしまいました。
 私が結婚して田無に住むようになって、約18年。おじさんは、特別な存在であったと思います。
 おじさんが一人暮らしになってから、義父母がとてもおじさんのことを気づかい、よく夕食をいっしょにしていました。自然と、私が会うことも多くなり、おじさん独特の魅力でだんだんと親しみが増していったように思います。私の子どもたちも、本当の孫のようにかわいがってもらいました。近所の人に自慢していたこともあったようで、ありがたいことだと思います。
 また、子どもを叱ってくれたこともありました。ある時は、穴の開いたジーンズをはいている長男を見て、私がとても叱られたこともありました。

 私の父が田無に来た時は、特別に歓迎してくれました。同じ北朝鮮出身ということもあり、父もおじさんに会うのをとてもたのしみにしていました。
 「会いたい人のことを思ってずっと雲を見ていると、雲がその人の顔になるんだよ」と、子どもの頃父から聞いたことがあります。……おじさんも帰れない故郷のことを思い、会えない肉親のことを思い、涙したこともあったでしょう。
 先日、実家に行った折、父が「金五郎さんと一度ゆっくり語り合いたかった」と言い、10数年前義妹の結婚式の帰り松本の駅でおじさんに買ってもらってしまってあった焼酎を飲んでいました。
 私も、父と同じように故郷に帰れないおじさんのことを、父と重ね合わせていたところもあったと思います。
 あの日、おじさんがソファーにすわったまま意識のなかった時のことを思い、「あと2時間はやく私が行っていれば……」とずっと思っていました。
 意識のある時に、看病させてほしかった。身体をさすってあげたかった。ごはんを口に入れてあげたかった。病院通いをさせてほしかった……。
 9月30日、おじさんの部屋の鍵を小平の都営事務所に返しに行った時、おじさんが働いていた西友の裏に行ってみました。
 “おじさん、あそこに腰かけて、トラックが来るのを待っていましたね。西友の人たちとも仲良く冗談を言ってたのしませていましたね。その後、義母と3人で昼食を食べに行きましたね”

 「あー、おじさんにあいたいなー」と胸が苦しくなって涙ぐんでしまいました。もう十数年、うちの家族の誕生日には、ケーキを買ってくれていました。いつも不二家のいちごのショートケーキ。プレートには「孫から」「ママから」「子どもたちから」とかいてありました。子どもたちが、「たまに、他のケーキも食べたいなぁ」ともらしていたこともありました。
 でも、今度の11月19日の次男の誕生日にも、私は、不二家の生ショートケーキを買って、プレートには今まで一度も書かれなかった「金五郎のおじさんから」とケーキ屋さんに書いてもらいましょう! 誕生日には、必ずおじさんの思い出を語り合うことでしょう。
 金五郎のおじさん、ありがとうございました。


Bintang Besar vol.24
韓国での納骨を終えて

畠谷吉秋(BC級戦犯者原告家族)
聞き手・まとめ 大山美佐子(支える会メンバー)

 10月9日にきんごろうさんの四十九日とお別れ会を終え、翌10日、親父(原告の金完根氏)と来洪さん(朴来洪さん)と3人で韓国に納骨に向かいました。その日の4時に「望郷の丘」という公園墓地に到着しました。場所はソウルから高速道路で約2時間、忠清南道天安市聖居邑というところです。卞光洙さん(韓国在住の原告。故卞鐘尹氏遺族)とその友人の方、判決のとき日本にもいらした朴粉子さん(故朴栄祖氏遺族)とそのだんなさんもいらしていました。加えて金文子さんという方がご主人・2人の息子さんとともにいらっしゃいました。数年前に韓国でBC級戦犯問題を扱ったドキュメンタリー番組が放送されましたが(韓国MBC「忘れられた戦争・もう一つの叫び」1993年3月1日)、そのなかで語っていたきんごろうさんを見て、自分の親戚のような気がする、とテレビ局に電話をかけ、きんごろうさんとも連絡をとったということです。以来、電話で頻繁に連絡をとったりと家族のような付き合いをしていたそうです。3年前にきんごろうさんとうちの親父が韓国に行った際に、きんごろうさんはこのご家族と会ったそうです。ちなみに、きんごろうさんが望郷の丘に墓地を購入したのはこの訪韓の折でした。
 韓国でのやり方にのっとった素晴らしい埋葬でした。お供えする料理やお酒などを金文子さんご家族が用意してくれていました。お墓を守ってくださることも快く受けてくださいました。私たちもいろいろ迷い、墓地の管理者とも相談をしたのですが、日本からだと何かあってもすぐ行けないですから……。
 今回私は親父に付いて韓国に行きましたが、親父は落ち込んでいたし、元気そうに見えても年だし、心配だったということが一つ、それから今後のためというか、そういうところを見ておきたいという思いもありました。いまは来洪さんが柱になってくれていて、来洪さんにくっついて見ておかないといけないと思った。親父たちもいつまでも元気じゃないですから。葬式なども今回は二世を中心におれらがやろうと決めた。きんごろうさんを一番お世話していたのが朴さん(来洪さん一家)だったから、朴さんに喪主になってもらい、あとは誰がやるかといえば我々の世代だね、ということで、朴さんの指示どおりにぼくらは動くようにした。親父たちは相談役というか、わからなければ聞くというふうにした。親父たちもあえて口を出さず任せていたという感じでした。今回の件で我々二世の結束も強まりましたし、また二世としての責任も各々が感じたと思います。



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