Bintang Besar vol.23
97/8『ビンタン・ブサール』第23号より


朴允商さんの葬儀に参列して…小塩海平
ドキュメンタリー作品
 「朝鮮人BC級戦犯の記録」を製作して…本橋雄介


Bintang Besar vol.23

朴允商さんの葬儀に
参列して

小塩海平(支える会メンバー)

 私が朴允商(パク・ユンサン)さんの訃報に接したのは、4月18日の午前中、まだ亡くなられてから数時間しか経っていない時であった。今回の渡韓の目的は、私達の教会が戦時中神社参拝を強要したことによって殉教した朱基徹牧師の生誕100周年、殉教53周年の記念礼拝・記念講座に参加することであり、身の引き締まる思いで韓国の地を踏みしめたのだが、よもや朴さんの葬儀に参列することになろうとは、夢想だにしていなかった。
 前日、清州の卞光洙(ピョン・グァンス)さんを訪ねた際、朴さんのお加減が芳しくないことはうかがっていたのだが、昨年本橋さんが撮影された時の朴さんのお元気そうな姿が印象的で、私の方から訪ねて行きさえすれば、いつでもお会いできるような気がしてならなかった。当日、面会の申し入れをしようとして電話をし、図らずも朴さんの訃報に接することになってしまった。
 朴さんは痛風を病んでおられたのだが、他の併発症も重なって、短い入院の末、4月18日の午前4時20分に、ソウルのセブランス病院で亡くなられた。享年85歳とのことである。葬儀はキリスト教式に簡素に執り行われ、波乱に満ちた生涯を終えられた朴さんにとって、最も相応しい葬儀ではなかったかと思う。
 追慕礼拝は、朴さんが亡くなられた当日、午前11時からセブランス病院の霊安室で行われた。私は少し早めに着いたので、一昨年、清州で行われたBC級展でお会いした朴允商さんの息子さんの朴一濬(パク・イルジュン)さんに挨拶をし、しばらくの間お話をした。一濬さんははじめ、私が日本から駆けつけたと思ったらしく、「よくもこんなに早く来られましたね」と驚かれたのだが、私が朴さんの訃報に接した経緯を説明する
と、このような偶然を大変感謝して下さった。朴一濬さんは、実は、私が今回追慕礼拝に出席しようとしていた殉教者朱基徹牧師の四男である朱光朝さんと一緒に、極東放送局(キリスト教のラジオ放送局)に勤務しておられるとのことであった。
 追慕礼拝は、朴允商さんの奥さん(イ・ハクスンさん)をはじめ、近しい親戚の方々、朴一濬さんの教会の皆さんなど、20人くらいの人々が集まって行われた。司式は一濬さんの教会の牧師が行い、讃美歌を歌い、聖書を読んだあと、人間は神の前に生きるのでなければ、ただ虚しく、はかない人生をいたずらに費やすのみであるということ、朴允商さんは人生の最後の時をキリスト者として立派に生きたのだということを話された。
 礼拝後、奥さんのイ・ハクスンさんと日本語でお話しをし、朴さんの最後の闘病の様子を聞かせていただいた。朴さんはこれまで、鍼灸治療を続けてこられたのだが、亡くなる数日前、急に顔色が悪くなり、言葉が出なくなったためにセブランス病院に入院されたとのことであった。意識はずっとしっかりしていただけに、意思の疎通がうまくできないことに随分いらだっておられたらしい。戦時中の栄養不良や傷病など、身体に負担をかけ続けてこられたことが、急な訃報に繋がったのではないかと思う。
 朴さんの追慕礼拝に集まった人たちは皆クリスチャンだったので、初対面でもかなり立ち入った話をすることができた。朴一濬さんとイ・ハクスンさんが私のことを「支える会」のメンバーとして皆さんに紹介して下さったので、私は加害者である日本人の一人として、また朴さんの裁判を支援している良心的な日本人の一人として、厳粛な思いをもって葬儀に連なっていることをお話しした。
 私は、実のところ、朴さんとそれほど深い交流があったわけではなく、それだけに、今回はぜひとも直接お会いして、お話をお聞きしたいと願っていた。朴さんの早すぎる葬儀に列席しながら、BC級展で親しく語りかけて下さったときの温厚な人柄や裁判所で立派な証言をされたときの毅然とした態度、また様々な映像や文章を通して私の胸の内に刻みつけられた朴さんの姿や言葉、生き様が次から次へと思い起こされ、日本政府の無責任や裁判所のふがいなさ、また自分自身のどうしようもない非力さにあらためて涙を飲まざるをえなかった。追慕礼拝に参列した人たちは朴さんが戦犯として苦しまれたことや戦後補償裁判を闘っておられたことはほとんど知らなかったようで、私の話はかなりの衝撃だったらしい。朴さんは、死力を尽くして裁判に取り組んでおられた一方、韓国における晩年の生活は、普通のやさしいハラボジ(おじいさん)として過ごされていたようだった。
 翌19日には、昨日とほぼ同じ顔ぶれで入棺礼拝が行われた。私たちが朴さんの遺体のまわりを取り囲むと、2人の医師が朴さんの遺体をきれいに拭いて、麻でできた装束を着せていく。朴さんの顔や身体を見る機会はこれが最後であり、イ・ハクスンさんと朴一濬さんは、涙を拭いながら朴さんの髪を梳き続け、今生の別れを惜しまれていた。用意されていた棺(ひつぎ)に丁寧に遺体を納めたあと、讃美歌を歌い、祈り、聖書の教えを聞いた。肉体の復活と永遠の生命を信じるキリスト教に相応しい入棺礼拝であったと思う。
 週明けの月曜日(21日)には発引礼拝が行われた。「発引」というのは出棺の意で、朴さんの生まれ故郷である忠清北道の鎮川(チンチョン)まで2時間ほどバスに乗り、道沿いの小学校のところから、棺を引きながらなだらかな細い山道を行列した。朴さんを埋葬する場所にはすでにパワーショベルで穴が掘られており、近くに簡単な天幕が張られ、近所の人々が集まっていた。あちらこちらに淡紫色の美しいチンダルレがかがり火のように散咲し、カッチ(かささぎ)が餌をくわえて、気ままに行ったり来たりして飛んでいる。山腹から後ろを振り返ると、朴さんの最初の奥さん(朴一濬さんのお母さん)が身投げをされたという川がきらきらとまぶしく輝いているのが見える。のどかで、どことなくもの悲しい、韓国の典型的な田舎の墓所である。葬列に加わった人々は、思い思いに腰を下ろして、朴さんの思い出話に花を咲かせている。この日は卞光洙さんや金時雨(キム・シウ)さんも仕事を休んで駆けつけてこられたので、私も一緒になって話の輪に加わった。
 この辺りの慣習では、大理石の石板を墓穴にはめ込み、非常に手の掛かった埋葬を行うのだそうである。石板をはめ込んだ後、麻の装束に包まれた朴さんの遺体を棺から取り出して丁寧に安置し、やはり大理石の石板で蓋をして、「密陽(ミリャン)朴氏」と大書された布をかぶせる。朴さんの初めの奥さんの骨を傍らに合葬し、牧師の説教の後に皆で土をかぶせたのだが、私も日本から来た特別な客人として、この儀式を担わされた。
 「おとうさまとおかあさまは、やっと一緒になられましたね」と誰かが一濬さんに声をかけた。一濬さんは黙々と作業を続けておられたのだが、しばらく考えてから「ええ、55年ぶりの再会なのです」と感慨深げに答えられた。愛妻と幼子とを残して戦争に駆り出され、刑務所の中で奥さんの訃報を知らされた朴さんの思い、夫が日本の戦犯となったことを知り絶望の中で命を絶たざるをえなかった若い母親の思い、そしてまた、父母と別れ、ひたすら信仰に頼って生きてこられたご自身の生涯とを噛みしめながら、一濬さんは心を込めて土塊を運び続けているように見受けられた。
 帰りのバスの中、イ・ハクスンさんが私の手を握りながら朴さんの話をして下さった。朴さんは一審判決が下されたとき、「僕はもう日本には行かれないよ」とさびしく漏らされたのだそうである。私は応える言葉もなく、ただただ耳を傾けてお話に聞き入るほか、なす術を知らなかった。


Bintang Besar vol.23
ドキュメンタリー
「朝鮮人BC級戦犯の記録」を製作して

本橋雄介(「朝鮮人BC級戦犯の記録」監督)

 映画学校の卒業制作として、韓国・朝鮮人BC級戦犯問題をテーマに選んだきっかけは何だろうか。その一番大きな理由として挙げられるのは、僕自身がこの問題を初めて知ったときの、怒りを越えたやるせなさであった。それは、朝鮮人元戦犯者たちが被った被害に対し、当時から現在までも続く出来事がいかに矛盾だらけであるかということだった。このような思いに駆られたのも、僕が今まで、日本が起こした戦争について、そしてその戦争がアジアの人々にとってどういうものであったかを全くと言っていい程考えてこなかったからかもしれない。その無知ゆえに、様々な事実に対する「なぜ」という疑問が強く頭の中にあった。「なぜ」朝鮮の人達が日本の戦犯にならなければいけなかったのか。その思いを常に持ち続けていたことが、真剣にこの問題へ取り組むことができた最大の理由だと思う。
 実際に、李鶴来さんや金完根さんをはじめとする原告の方々に会って話を聞くうちに、この問題について知りたいという思いがどんどん強くなっていった。それと同時に、「映像」という手段で、少しでも多くの人達にこの問題を知ってもらいたいと考えるようになった。その為にこの企画に取り組んでいるのであり、李さんたちが協力してくれているんだということを常に自分に言い聞かせた。
 作品の構成を考える上で、李さんたちを取り巻く、様々な側面からBC級戦犯問題を考えてみたい と当初から思っていた。幸い、泰緬鉄道の元鉄道隊員・阿部宏さんや、元捕虜(オーストラリア兵)の方たちに話を伺う機会があった。その中で、日本人があの当時の天皇制社会構造をどう見ていたのか、そして今どう思っているのかを聞くことができたことは、僕自身、非常に勉強になり、作品の中でも重要なポイントになったと思う。そして、捕虜たちが当時、朝鮮人監視員をどう見ていたのか、朝鮮人の立場を理解していたのかということがとても気になっていた。二人の元捕虜に会うことができたが、そのうちの一人、トム・モリスさんが、「朝鮮人が一番憎まれていた。日本人はその次だった」という言葉を発した時に、まず驚きよりも、このBC級戦犯問題が日本と韓国の間だけではとどまらない、いかに複雑な問題であるかを示しているように思えた。
 今回の作品を通じて、泰緬鉄道やチャンギー刑務所など、あっちこっち飛び回った。僕だけでなく、一緒に製作を共にした友人たちと、実際に現場へ行き、考えることができた。こんなにも意義深い体験ができたことを嬉しく思う。その中で、李鶴来さんに韓国のふるさとへ連れていってもらうことができた。韓国へ行った理由は、日本の朝鮮支配を重要なポイントとして考えていたからだ。李さんたちが当時、どのような皇民化政策を受け、それがその後どのように影響しているのか、実際に李さんが通った小学校や生家へ行き、話を聞いてみたいと思った。李さんには無理に頼んでお願いしたのだが、恥ずかしながら、当初、僕のようなビデオカメラを持った日本人を一緒に韓国へ連れて行くことが、李さんや李さんの家族、親戚にとって、どういうことを意味するのか考えていなかった。しかしこの事を振り返ってみると、李さんが僕に対して協力してくれたことが、いかに重大なことであったかを、身にしみて感じている。
 今回の作品には、すでに亡くなられた朴充商さんや他の原告の方々など、大勢の人達に協力をしてもらい、なんとか完成させることができた。その為にも、より多くの人達に韓国・朝鮮人BC級戦犯問題を知ってもらい、考えてもらうための一つの手段として、今回製作したドキュメンタリー作品を役立てていくことが僕の努めであると考えています。

*本橋雄介さんは、日本映画学校の卒業製作として韓国・朝鮮人BC級戦犯問題を取り上げ、97年3月にドキュメンタリー「朝鮮人BC級戦犯の記録」を完成。「支える会」主催の上映・講演会を含め、都内数カ所で上映されたほか、後には法廷でもビデオによる検証が行われた。
*『朝鮮人BC級戦犯の記録』(62分)
 1996年度日本映画学校卒業制作作品(1997年3月完成) 
 1997年山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品



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