Bintang Besar vol.19
96/5『ビンタン・ブサール』第19号より


解決を求めて 国会請願から18年…内海愛子
報告 今井知文さん…田口裕史


Bintang Besar vol.19
解決を求めて 国会請願から18年

内海愛子(支える会メンバー)

  1996年4月15日 花曇り、クリントンアメリカ大統領の来日をひかえて厳戒体勢の永田町、内閣総理大臣官邸で午後4時30分に官房副長官渡辺嘉蔵氏に面会、原告の李鶴来さんと支える会の5人が同席した。年代を感じさせる官邸の玄関を入るとふかふかの絨毯の感触が伝わってくる。応接室で、前の沖縄からの陳情の人の話が終わるのを待つ。沖縄の人たちは、米兵の交通事故で殺された2人の兄弟である。マスコミが取材で同行している。官邸玄関で、「マスコミ関係者はここまで」「写真はここでは許可していない」とやりあっている。われわれには、同行取材もないためそのまま応接室へ通される。1970年末に、私が李さんと出会って以来、ともに同進会の運動に心をよせてくれる土井たか子さん(現衆議院議長)とその秘書官の五島昌子さんの尽力で実現した面談である。五島さんが私たちを引き連れ、入口で、玄関で、警戒する警察官や職員に説明を繰り返し、やっと応接室にたどりつた。そこで待つこと30分。2階の副官房長官室へ赴く。
 副長官は社民党所属である。村山政権を支えた一員である渡辺氏は、「日本が植民地支配の処理をしていないことが問題だ」との認識はもっていた。軍隊生活を体験している世代なので、李さんの話には心情的に理解できるところはあるようだ。とげとげしさもない。だが、「イギリスが、旧植民地出身の兵士に補償をしているとも思えない」「戦争裁判は連合国がやったものだから」など、この問題についての知識はほとんどない。商工畑で活動してきた議員という。自分でもこの問題について「あまり知識が無いので、よくしらべてみる」と話し、橋本総理大臣宛の「要請書」に目を通している。
 李鶴来さんは、橋本龍太郎総理大臣宛に「要請書」を書きたくなかったのが本音であろう。彼が厚生大臣の時、同進会の代表3人が彼に面会した(1979年6月29日)。この時は、渋沢利久衆議院議員(当時)が仲介の労をとってくれたが、初めからテキパキと仕事をすることを印象づけようというのか、話をじっくり聞くという雰囲気ではない。李鶴来さんが「馬小屋みたいなところに友人の遺骨を放置したままでは、私たちは死んでも死にきれない」と、その心情を語ったとき、橋本厚生大臣は「あなた、失礼じゃないですか。政府はちゃんとやっています」と声を荒げた。それでも同進会の人たちが、これまでの経過を話し、政府の対応には誠意が無いことを訴えると、怒った橋本厚生大臣は、席をけって退席した。そんな経緯があった。
 それから18年、その橋本厚生大臣が総理大臣の席に座っている。歴代首相に「要請書」を送り続けた同進会としては、過去の経緯を胸にしまって、橋本総理大臣に「要請書」を提出したのである。
 同進会は、日本政府にたいして40年以上、国家補償を求める運動を続けてきた。初めは、巣鴨刑務所から永田町に出かけてきた。電車賃もないため原告の一人朴允商さんがオートバイを運転し、その後ろに金完根さんが乗ってきたこともあったという。首相官邸の前に座り込んで、代表が官邸で鳩山総理(当時)と面会した。官房長官とも面談している。今日、私たちが訪れた首相官邸は、同進会の人たちにとっては長年、運動を展開してきたなじみのあるところである。1960年には、官邸の塀を乗り越えて面会をしている。こうした繰り返される朝鮮人、台湾人の戦犯者たちの激しい運動が、政府に「生業資金」の貸付という措置を取らせたこともあった。しかし、彼らが求め続けた「国家補償」にたいして政府の反応は冷たかった。そして、1965年の「日韓条約」の締結。その後、日本政府は、同進会の面会の要求すら受け入れようとはしなかった。 私が当時、韓国出身戦犯者同進会と名乗っていた会の事務所があった同進交通を初めて訪れたのは、1978年2月、2年間のインドネシア暮らしから戻ったあとである。応対に出たのは李鶴来さんだった。運動が行き詰まっている時だった。一応の説明はしてくれたが、李さんの対応はどちらかといえばそっけないものだった。「何をやっても、どうせだめだ」という気持ちが強くにじみでていた。
 「マスコミも取材にはくるけど、それっきりだし、日本政府は面会にも応じようとしないし、韓国政府は、条約の対象外だからと相手にもしてくれない。われわれの問題はどこへももっていき場がない。宙ぶらりんの状態ですよ。」
 私に語ったからといって何が解決するわけでもないが、李さんはその苦渋を語ってくれた。その話を聞いてしまった以上、私にできることをやって、この事態を打開する方途を考えてみようと思った。当時「アジアの女たちの会」で活動していた関係から、同じ会の五島昌子さんが相談にのってくれた。「国会請願」という方法を考えた。李さんは、「私たちは、日本政府に請願する筋合いではない。何で請願するんですか。私たちは当然のことを要求しているだけだ」と、当初、この請願行動には否定的だった。李さんの言うことはもっともだ。だが、話し合いの結果、今の事態を打開するためには出来ることはなんでもやろうということになった。1978年のことである。日韓条約の壁に阻まれて、「補償」という言葉を使うことはできない。苦肉の策として、一つは遺骨送還、二つ目に送還にあたって「誠意と儀礼をつくすこと」という文言をいれた。この言葉に、補償の可能性をこめたのである。だが、この請願は、採択されなかった。門前払いである。それならと1979年にも、もういちど同じ内容で「請願」をおこなった。李さんと二人でよく衆参議院の議員会館をまわった。五島さんが紹介の労をとってくれたこともあって、衆議院13人、参議院11人の議員が紹介議員になってくれた。土井さん、村山富一さんも名前を連ねた。衆議院社会労働委員会で、この「請願」は、採択された。委員長だった村山さんが直接、私の家に採択を電話で知らせてくれた。李さんのところにも電話を入れてほしいと依頼すると、快く引き受けてくれた。これで事態は動く、少なくともなんらかの解決ができると、二人で喜んだ。
 社労委の委員長だった村山さんが総理大臣になり、土井さんが衆議院議長になった。あの橋本さんが総理大臣の椅子におさまっている。18年の歳月は、政局にいろいろな変化となってあらわれている。だが李さんの、日本政府の差別的な処遇をただし、刑死者をふくめた朝鮮人・韓国人戦犯への国家補償を勝ち取るという願いはまったく実現されていない。
 行政、立法に働きかけ続けて40年。いま、司法への期待をかけての提訴から4年余、5月20日に判決を迎える。李さんたちの要求が通るのか否か、われわれの歴史認識はもちろん、日本の民主主義が問われているのではないだろうか。
 渡辺副長官への面会を終わって、いかめしい官邸とその警備のなかを出てくると、いいようもない空しさを覚えた。彼への面会にこぎつけるまでに、李さんが払った努力のすさまじさを知っているだけに、こんなことを繰り返してなんになるのかとの思いである。だが、眠たそうな副長官に、懸命に説明する李さんのその執念は感動的であった。そして、空しさを人一倍感じているはずの李さんは、ひとつでも前進できることがあればそれに望みをかけていこうとする。その姿勢に逆に励まされながら、判決の日にむけてまた活動を続けていきたい。


Bintang Besar vol.19
追悼
 今井知文さん

田口裕史(支える会メンバー)

  私は、今井知文さんに、一度しか会ったことがない。けれども、その“一度”は、数年分以上にも相当するほどの強い印象を、私の胸の底に残している。
 今井さん宅にお伺いしたのは、1992年4月4日。原告の方たちや内海愛子さんも一緒だった。庭の桜がとてもきれいに咲いていたことを思い出す。
 食事をごちそうになり歓談するなかで、今井さんは私に、「君のような若い人が、何故こんな一文の得にもならないようなことをするのか」と穏やかな微笑みをたたえながら質問した。私が意表をつかれてしどろもどろになりながら何とかこれに答えると、今度は逆に(私の記憶によれば)内海さんが、「今井先生は、なぜ同進会の皆さんの支援をなさってきたのですか」と尋ねる。
 今井さんは、「彼らのことがこのまま放っておかれたのでは、腹の虫がおさまらないのだ」ということを、いかにも下町人らしい言い回しで、きっぱりと答えた。このときの短く簡潔な語り口のなかに、決して揺らぐことのない心のありようやその人柄が、見事に表れていたように思う。そのことに私は、いたく感動をした。
 50年代の時点で旧植民地出身戦犯者の問題に気づき支援をした人物がいると聞くと、どんなにすごい活動家だろうかと思われるかもしれないが、今井さんは、決してそういう人物ではない。
 彼らの支援に奔走した今井さんの心情は、一人の市井の人間としての“あたりまえの怒り”によるものだったと思う。ただ、その怒りには、ちょっとやそっとで撓むことのない強靭さが備わっていた。不正なものを目の前にすると、いてもたってもいられないのだという誠実なたたずまいが、一度だけお会いした今井さんの姿のなかに感じられた。
 このようにして韓国・朝鮮人戦犯たちを支え、そして彼らに慕われていた人物がいるという事実が、私の胸を打つ。
 今井さんは、私と同じ東京都江戸川区に暮らしていた。自転車に乗って橋を渡ればすぐにでも会える場所にいながら、それ以降一度もお会いしなかったのは、直後に体調を害され、訪問者を相手にするのが身体に良くないようだと伝え聞いたからである。
 絵画を愛した今井さんは、あの時、私たちに自筆の色紙を下さった(6頁に一部掲載)。そこに筆で記されているのは「正念場」という文字。運動を続けるなかで、疲れたり心が弱まったときにはいつも、この色紙が、私に深い励ましを与えてくれる。
 あの日の今井さんの姿は、私の心のうちに、いまもはっきりとした像を結んでいる。判決を見ることなく亡くなられたのは残念だが、今井さんの「存在」が、私たちを今も支えてくれているのだという感覚を、私は強く持つ。



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