Bintang Besar vol.16
95/10『ビンタン・ブサール』第16号より


元戦犯者の妻として…権正順さん 聞き手大山美佐子


Bintang Besar vol.16
[インタビュー]
元戦犯者の妻として

権正順さん 聞き手:大山美佐子(支える会メンバー)

―お連れ合いの朴昌浩さんが亡くなられて4年が経ちましたね。
 命日が8月3日だから、先月(8月)は法事とお墓参りをしました。本人には病気になる前から「私が死んだら韓国へつれていけ」と言われていたんですが、毎年向こうに行けないし、私の息子もほかのことは父親に逆らえないけど「これだけは勘弁してください」と言っていたんです。1周忌が終わった後、主人の両親のお墓参りに韓国へいって来たんですが、そのときお墓の土を少しいただいてきたんです。それを主人のお墓の周りに撒いてやったんです。金(完根)さんも、「おい新井、母ちゃんのだよ、父ちゃんの土だよ」と言って撒いてくれたんです。皆さんもう涙ぐんでいました。まね事ですけど、自分が気づいたことだけはなんとかしました。
 お葬式のときは孫がしっかり挨拶をしましてね、今でも近所の人なんかには、「あのときお宅の孫には泣かされたよ」と言われます。その時の写真をみると、ほとんど私の身内なんです。主人は本当に身内は一人もいないんです。仲間が身内になっちゃうんですね。私、一回ケンカをして、「あまり苦しいのに仲間のためにそれだけするのなら、あなた家族を取るの、仲間を取るの」と言ったら、「仲間を取る」と言った。あの人はそういう人なの。
―権さんが日本に来られた経緯を教えてください。
 終戦の年の3月だか4月に日本に来たんです。だから丸50年になりますね。8歳のときのことです。韓国全羅南道救礼郡というところで暮らしていたのですが、うちの兄は東京にいたんです。韓国の人は長男を大事にするんです。それで何しろ一日会って死んでもいいから、息子のところへ行こう、というので家族で日本に来ました。私は4人兄弟で、22違いの兄と、18違いの姉、4つ違いの姉、私が一番下です。上の姉夫婦が神戸にいたので、そこから招請してもらい、東京には戦争が終わってから来て、ずっとそのままです。足立区の方に住んでいました。
―朴昌浩さんとの出会いは?
 うちはお見合いなんですよ、これでも(笑い)。やっぱり縁というか運命というか、主人を紹介してくれたのが、うちの従姉妹の婿さんなんです。主人は、巣鴨から足立区の韓国人のカバン屋か何かにアルバイトに来ていたらしいですよ。お兄さんは偏屈な人なのに、あの人の目にとまったから、いい人だろうということになって。あるときお姉さんが「おいで、おいで」と言うから行ってみたら、おじさんみたいなのが、2、3人来てるのね。今、考えると主人と、金完根さんと大川(朴允商)さん。ずいぶん飲んで騒いでいるわね、と思ったの。それが見合いだったんだって、笑っちゃう。母は「韓国の習慣も礼儀作法も知っているからいいんではないか」と言ったんですが、父は「年を取っているから」と反対して、やっぱり家庭を調べないとということで、調べてみたら一致したんではないですか。スガモ・プリズンにいたということより、ああいう戦争にいってそういうところで寝泊まりしていると、体が普通の人より悪くなるのが早いのでは、とだいぶん心配していましたよ。うちの兄は、「変な目で見られる場合があるから戦犯というのはあまり表に行って言うのではないよ」と言っていました。でも結婚まではパタパタと。昭和30年4月1日に結婚しました。部屋を借りていたんですが、詐欺にあったみたいで、住むところないの。それで私の実家に居候して。だまされても人を悪くいう人じゃなかった。仕事もいろんなことをやりました。ビニールの生地を酸で溶かして加工する、そういうのを、私も子どもが生まれる日までやりました。この子栄養失調になろうかというくらい本当おっぱいは出ないし、ミルクも買えないし。そういう生活してよく育ったと思っているんです。2年ほどして娘も生まれました。でも私自身も病気がちで、子どもらも心配して「お母さんが早く元気になってほしい」というようなことを作文に書くんです。
―韓国にも何回か戻られているのですか。
 最初にいったのが長男が小学3年生のときだから昭和39年の頃ですね。1カ月くらい行ってきましたよ。同進会の他の人の故郷も訪ねたりして。いろいろ預かって行ったわけ。主人の故郷では、お母さんがミカン箱ではないけれどもそういう箱をだしてきてくれて、そのなかの封筒に主人の爪と髪の毛が入っているんです。だから自分は死刑になるつもりだったんでしょう。友人に「もしあなたが生きて帰れたら、うちの親に届けてくれ」と預けたとか。お母さんはそれを泣き泣き出してきて、「もうこんなものいらないね、あんた帰って来たからね」って。「私とお母さんで一緒に燃しましょう」といって、燃してきました。
 思いついたパッと行動に移す人でしたから、韓国にも何回も行きましたが、亡くなる前の年に、私と息子と孫で行った旅行が一番楽しかったって、孫への手紙に書いてありました。息子は自分の家族全員を連れて行きたかったんです。それはわかるの。でも、病人を連れてますでしょう。それで何回もケンカして。本人はどっちでもいいから行ってくれよな、って顔して黙って見て笑ってるの。だれのためにけんかになったか。
―裁判もずいぶん進みました。
 裁判を傍聴しているときは、「ああ、パパはああだったな、こうだったな」とか、やっぱりつらかったです。大川(朴允商)さんの時も、「私も兄さんみたいにいずれ帰るんだ」と帰国する大川さんに言ったというのは主人のことなんです。名前が出てくると、あの時ももう胸がはちきれそう。主人がいれば自分ででることができるのに、「何も役に立たない母ちゃんが来たってね。あなたのあれを伝えることもできないし、せめて頭数で来たよ」という気持ちで伺っていました。
 裁判が始まる前でしたが入院して間もなく、それが不思議と、裁判のようなことを起こさないと、と言うんです。台湾の元兵士の方たちの補償が裁判の判決によって促されたのを新聞で見て、「同進会も今までやってて、前よりはみんな生活が楽になったし、もらえるとかもらえないとかでなくて、やったらいい」というようなことを言うんです。お見舞いにきた仲間が「おまえ、そんなことを言うけどだれがやるんだ」と怒ってるの。すると「ああ、おまえとは話にならない」って、「今は昔より食べられるから、だれかがやればいいと思うと、私はこういう体でできないから、それを望んでいるだけの話をしたのに、怒ることないだろう」と言うのです。それからしばらく経って、裁判の話が持ち上がって、「ああ、パパが思ってたことが通じて、よかった」と、やっている方たちにはすごく悪いと思うけど、主人が思ってたことが現実となってよかったなと私はそう思ってます。



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