Bintang Besar vol.15
95/8『ビンタン・ブサール』第15号より


チャンギー刑務所…中野真理子
インドネシア アンボン・ハルク島…内海愛子


Bintang Besar vol.15
メンバーズエッセイ
 チャンギー刑務所

中野真理子(支える会メンバー)

 シンガポールの東に建つ白い、立派な建物、それがチャンギー刑務所である。今なお刑務所として使われているということだが、外観も50年前と同じだそうだ。原告の李鶴来さんは、この刑務所にあった仮設軍事法廷で裁かれ、絞首刑の判決を受けた。そして李さんの他にも、文泰福さん、金完根さん、朴允商さんがこの刑務所に収容された経験を持つ。
 実はこの私、まだ「支える会」と、無縁だった1992年の2月に、チャンギー刑務所を訪れたことがあるのだ。当時、私はとりつかれたようにシンガポールに旅立った。陥落50周年を迎えるかの地に立って、戦争のおろかさを思い、日本軍に殺された多くの中国系シンガポール人のために祈って来たかったからだ。
 ところが出発直前、私は高熱を出し寝こんでしまった。そしてボーッとする中で、一冊の本を思い出した。10年も放っておいた本を急に思い出したことも妙だったが、シンガポールのことがかかれていた偶然には驚いた。『これが私の戦争だった』(高文研)と題するその本は、まるで著者の井出静氏が私のために書いてくれたような内容だったのだ。「高さ役10メートルの高塀を周囲にめぐらし、さらにその内側にも二重に塀をめぐらした広大な敷地に、三階建ての獄舎をもつチャンギー刑務所は、イギリスの一世紀にわたるマレー植民地支配のいわば象徴であった」、「日本軍のシンガポール占領の後、一時は白人兵たちが収容されていたが、日本が敗れ、いま再びイギリスの手に取り戻されて、イギリス軍の管理のもと、イギリス兵とダッチ兵(オランダ本国兵と植民地のインドネシア人兵からなる)によって監視されていた」。(前掲書より)
 井手氏は捕虜としてチャンギー刑務所に収容され、一日にビスケット三枚とドロップ四粒しか与えられなかった。食糧がなかったからではない。戦争中、日本軍が連合軍の捕虜たちにやったことを、敗戦後は報復として日本軍がやられたためだという。
 日本人である私は予約をとっていなかったために、刑務所内部を見学することはできなかった。そこで正面に立って、日本兵と連合軍の兵士両方のために祈ってきた。
 その後、あのチャンギー刑務所に収容された日本軍の中に、韓国・朝鮮人や台湾人がいたことを知った。さらに、BC級戦犯としてチャンギー刑務所で処刑された日本人の中に、朝鮮人軍属がいたことも知り、私は自分の無知を恥じた。
 「(仲間の死刑)執行後開房されて、(チャンギー刑務所Pホールの)中庭に出たときのその悲しさはたとえようもない。中庭のカンナの花は変わりなく咲いている。青空にはつばめが高く飛んでいる。自然は私が見る目には変わりはないが、数十分前までいた彼らは一体どこへ、どこへ」と李鶴来さんは当時の手記に書いておられる。このことを法廷で聞いた時、私は、とりつかれたように旅立ったシンガポールから続く一本の糸を思っていた。
 さらに御縁は続くのだが、当時チャンギー刑務所の教悔師をしていたのは田中日淳和尚さんで、現在、池上本門寺の貫主をされている方である。そのため本門寺の中に「シンガポール・チャンギー殉難者慰霊碑」が建てられ、毎年4月に慰霊の集いが開かれている。
 私は、この本門寺がある東京・大田区に住んでいる。そして今年の8月6日、地域の仲間と共に、足下から敗戦50年を考える集会を計画している。メインテーマとして「韓国・朝鮮人BC級戦犯問題」を取り上げることになった。池上本門寺を抱える土地柄だからだ。
 私が今「支える会」のメンバーになっていることも、チャンギー刑務所との出会いなくしてはあり得なかっただろう。


Bintang Besar vol.15
[連載]もっと知りたい韓国・朝鮮人BC級戦犯
インドネシア アンボン・ハルク島

内海愛子(支える会メンバー)

 インドネシアの東、バンダ海に浮かぶアンボン島、この小島が世界史に登場するのは、17世紀。香料諸島の中心地として、オランダ、ポルトガル、イギリスがその覇権を争った。肉料理に欠かせない丁子(クローブ)やにくずくが、これらの島にヨーロッパ人を引き寄せたのである。
 今でも、モルッカ諸島の要所には、オランダやポルトガルが築いた要塞が残り、大砲が風雨にさらされている。覇権を握ったオランダは、アンボンの経営に力を注いだ。オランダの影響が強く残ったアンボンは、戦後、独立したインドネシア共和国から分離独立しようとの運動が続いていた。1975年にも、モルッカ独立を求めるグループがオランダで列車ジャックをやった。そんなこともあり、76年、はじめてこの島を訪れた時は、パスポートを見せて島に入る許可を取る必要があった。
 蘭印軍の一員として日本軍と闘ったアンボン人も多く、日本人兵士のなかには、かれらを「黒いオランダ人」と呼んでいる者がいるほどである。
 日本軍がアンボン島の東端リアン、ハルク島、北のセラム島のアマハイの三か所に飛行場を建設したのは1943年、オーストラリアを攻めるためである。
 原告の金完根さんは、オランダ人捕虜とともにハルク島に送られた。東西15キロ、南北10キロの小島に、長さ1500m幅65mの滑走路をつくるのである。5月のハルクは雨がおおい。捕虜1500人をつれて島に上陸したものの、宿舎の設営は不十分で、捕虜も金さんたちも、濡れた毛布にくるまり、寒さに震えた。補給は途絶え、皆、栄養失調に苦しんだ。珊瑚礁の白砂の照り返しが、弱った捕虜の目にまぶしい。竹を輪切りにして眼鏡をつくり、セロハンをはって簡易サングラスを作った。
 こんな話をくりかえし聞いていたが、ハルク島は遠かった。一度は金完根さんたちの仕事の現場にたってみようと、アンボンのトレフからスピードボートをチャーターした。狭い海峡だが潮の流れは速い。桟橋もないので、半分濡れながら、島にあがった。
 島には金さんたちの汗の結晶が残っていた。雑草がおいしげっていたが、椰子の木をきりたおし、滑走路をつくったあとがある。掩退壕も残っている。錆び付いた機械が打ち捨てられていた。島の人はここを「スコジョウ」と呼んでいた。
 飛行機が一度もとんだことのない滑走路、こんな無意味なものをつくるために多くの捕虜がここで命を落とし、その監視をさせられていた金さんたち朝鮮人軍属が戦犯となっている。それだけではない。椰子の木を切り倒された島の人々の被害もある。今でも食糧の足りないこの島に、捕虜と日本軍が乗り込んできたのである。住民の被害も大きかったはずだ。後手後手にまわった作戦、大本営の熱帯の自然軽視が、捕虜と朝鮮人軍属に多くの苦難を強いた。インドネシアのバンダ海に浮かぶ小島で、多くの命が無意味に奪われたのである。



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