Bintang Besar vol.14
95/6『ビンタン・ブサール』第14号より


韓国と私…小塩海平


Bintang Besar vol.14
メンバーズエッセイ
 韓国と私

小塩 海平(支える会メンバー)

 韓国と私のつきあいは,今から約15年ほど前,私が中学生の時に突然わが家に舞い込んできた一通の手紙から始まった.一字一字丁寧に綴られたその手紙は,韓国の慶尚大学の園芸科を卒業した宋眞明さんから差出されたもので,父のもとで一年間蘭の栽培の研修をしたいのだが受け入れてもらえるかどうかという内容だった.宋さんがどうして私の家のことを知るようになったのか定かではないが,私の両親は彼がキリスト者だということを知って,研修を受け入れる決心をしたらしい.父はその後招聘状を書いて送ったり,領事館に行って手続きをしたりして尽力していたが,結局私の家では研修ヴィザが降りないことがわかり(所得が少なかったから!),宋さんは翌年,神奈川の大きな農園でシクラメンの栽培を勉強することになった.私は宋さんと手紙をやりとりし,ハングルをおぼえて彼の到着を待っていたのだが,のっけから韓国と日本の間にある隔たりを感じないわけにはいかなかった.
 宋さんが名古屋空港に到着した日,父は出荷用の段ボール箱にマジックで「歓迎,宋眞明君」と書き,高校野球の入場行進の時に使うプラカードようなものを作って出迎えにいった.宋さんは当時髪を七三に分けており,礼儀正しい振る舞いと内に秘めた情熱が印象的な韓国人らしい好青年だった.彼はときどき神奈川の農園から休みをもらい,私の家に来て泊まっていったが,韓国の歴史や兵役のことなど,私に請われるままに語ってくれた.「睫毛が凍るような冬の日に38度線で見張りをしていると,おかあさんの顔が北韓の夜空に白く浮かんで見えるんだよ」という彼の話は,高校生の私にはまるで遠い国のおとぎ話のようにしか感じられなかった.今考えると申し訳なく思うのだが,なぜ彼が38度線に立たなければならなかったのかというようなことについて私は想像することさえできなかった.
 私は宋さんとの出会いを通して,日本が戦争中,韓国に,そして韓国の人々に,あるいは韓国の教会に対してどんなにひどいことをしてきたか知らなければならないと思うようになったのだが,しかし日本が韓国に対してどんなにひどいことをしたのかという知識があるということと,それが私にとってどういう意味を持つのか,あるいはそのことを知ったからにはどのような生き方をすればよいのかということとはなかなか結びつかなかった.たとえ誠意ある謝罪の言葉を述べたとしても(もちろんこれは必要な大前提であるけれども),それはスタートラインに立つことを意味するにすぎない.肝心なのは私の人生をどう生きるかということであり,しかも,韓国の教会,韓国の人々とともにどう生きるかということである.私は,荒れ狂う嵐のような時代にあっても最後まで信仰を捨てずにたんたんと生き抜いた韓国の牧師たちを尊敬せずにはおられなかったし,何とかしてその信仰の遺産を受け継ぎ,私もそのように生きたいと願うようになった.
 その後私は何度か韓国に宋さんを訪ねた.行く度に日本語の流暢な年輩の方たちに出会い,それまで知らなかった事実を知らされる.私はせめて,かつて韓国人が強いられて日本語を習得したと同じくらい上手な韓国語を身につけたいと思う.そして自らの意志で学習した言葉を通して負の遺産を清算していけたらと思う.戦争は虚しかった,悲惨だったというけれども,戦後私たちはそういえるほど充実した人生を生きていないのではないかと思われてならない.かつて戦争当時,人々が間違ったものにではあったが人生をかけて懸命に生きた以上に,私たちは平和のために,自由のために人生をかけて生きなければならないのではないかと思う.戦争の虚しさは,戦後の経済的な発展によってよりも,むしろ私たち戦後世代の充実した人生によって浮き彫りにされる必要があるのではないだろうか.



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