Bintang Besar vol.13
95/4『ビンタン・ブサール』第13号より


ふたりの自殺者…田口裕史
これがあなたたちの国、わたしたちの「隣の国」
  …阿部 陽子


Bintang Besar vol.13
[連載]もっと知りたい韓国・朝鮮人BC級戦犯
ふたりの自殺者

田口 裕史(支える会メンバー)

「あなたは、昭和二七年四月八日、巣鴨から出所されたということですね」
「そうです」(略)
「あなたはこの仮出所するときには食べ物とか衣類等をたくさんもらったんでしょうか」
「いいえ。もらいもしなかったですけど、こっちにあるお米の配給券とか。軍服まず一枚ね、それと川崎の方が身元保証人で、そこまで行く交通費八〇〇円、それ以外何ももらったことないですね」(略)
「帰還手当て一万円というのはもらったことありませんか」
「いいえ、そんなのもらってませんよ」
「あなたの仮出所したころは、誰かもらった人いるんですか」
「ないです。先に出た者は何もないです」(略)
「出所した後の寝泊まりするところは用意されていたんでしょうか」
「いや、政府は何もしてくれませんでしたよ」
 現在係争中の国家補償等請求裁判で、原告文泰福さんは、そう証言した(『原告本人尋問調書第二集 文泰福』94年当会発行 p.9)。
 証言にあるように、日本政府は、釈放後の韓国・朝鮮人戦犯者に対して謝罪・補償をしないばかりか、生活保障さえ怠っていた。日本人戦犯者と違い、彼らにとって日本は異国の地であり、住む家もなく、家族や知人もいなかったにもかかわらずである。出所後の生活は、困窮をきわめた。
 1954年と55年には、出所後の住宅斡旋、被服寝具の支給、一時生活資金の支給等を求めて、計3名の韓国・朝鮮人BC級戦犯者が出所拒否をするという事態にまでなっている。
 こうした中、ふたりの仲間が自殺。ひとりめの許栄(ホ・ヨン)さんは、55年7月19日、深川市の神社境内で首を吊った。もうひとりの梁月星(ヤン・チルソン)さんは、翌56年10月20日、西武線に飛び込んだ。
 仲間の中からふたりもの自殺者を出してしまったことは、彼らに大きな悲しみと怒りを残した。戦死もせず、死刑にもならなかった仲間が、釈放後の苦悩のために死んでしまったのだ。日本政府の無責任さが彼らを殺した。「同進会」(韓国・朝鮮人戦犯者の互助組織)の活動記録を見ると、彼らの死後、首相、法相等への補償要求交渉、デモは回数と激しさを増しているのがわかる。
 その後、政府は、若干の生活援護措置をとったが、もっと早い時期に対応されていたならば、ふたりは死なずにすんだはずだ。
 韓国・朝鮮人戦犯者のうち死刑を執行された23名を除く125名中、文泰福さん仮出所の52年までに96名が釈放され(許栄さん、梁月星さんは51年釈放)、梁さんの自殺した56年10月には、巣鴨に残っていた韓国・朝鮮人戦犯者は、わずかに一人だけだった。この数字は、日本政府の措置がいかに遅かったかを示す。
 表題の「ふたりの自殺者」は、事態を正確に表現した言葉ではない。朴允商(パク・ユンサン)さんのお連れ合いは、夫が戦犯となったショックで貯水池に身を投げ自殺している。洪鐘黙(ホン・ジョンモク)さんは死刑囚房で自殺を図ったが、一命をとりとめた。また、私たちの把握していない所で、未遂を含め、当事者や家族が自らの命を断とうとした可能性も、あって不思議ではない。
 自らの国と民族を植民地支配していた日本という国の戦争責任を負わされてしまった苦しみが、彼らを死に追い詰めた。許さん、梁さんも、単に生活苦の故に命を断ったのではないだろう。
 これらの死の重みを、噛み締めたい。


Bintang Besar vol.13
メンバーズエッセイ
これがあなたたちの国、わたしたちの「隣の国」

阿部 陽子(支える会メンバー)

 韓国のカレンダーは、8月15日が赤くなっている。民族が解放された記念日なのだから当然と言えば当然だが、3年前、初めてそのカレンダーを手にしたとき、新鮮さと同時に感じたある種のおののきを、私はずっと忘れることができないでいた。そのときにもうひとつ、3月1日が朱文字で書かれているのを見つけ、「この日に韓国へ行こう」と心に決めたのだった。それから3年目の今年、夢はようやく実現した。

2月27日、名古屋からの直行便でソウルまでは1時間と15分。ここは本当に「隣の」国なのだとため息が出る。ホテルは明洞(ミョンドン)の中心だった。地図を片手に明洞の繁華街をうろつくことからはじめることにした。ブティックが並び、道路の方まではみ出すように並べられている靴。流れるロックのリズム。ときどきテレビカメラのクルーが若者の足を止めてインタビューを試みている。まさに渋谷のセンター街である。
明洞から南大門の市場に抜ける途中に「新世界」デパートがある。これが日帝時代の…と写真をパチリ。私の韓国旅行はこうして始まった。

次ぐ28日、天安(チョナン)の独立記念館に向かう。ソウル駅からセマウル号で40分で天安だ。そこからバスに乗るのに一苦労。ガイドブックのカタカナハングルを読みながら、「トン ニップ キ ニョム グワン(独立記念館)」と繰り返すのだがわかってもらえず、とうとう「Can you speak English?」と聞かれる始末。ようやく42番のバスに乗ればいけるらしいことがわかった。
ホテルを8時半には出発したのに、独立記念館に到着したときには11時をまわってしまっていた。広大な土地に威容を放つ独立記念館。1980年代に新しく作られた記念館だ。館内は10ほどの建物に分かれていて、順番に韓国の歴史をみていけるようになっている。古代の遺跡の説明から始まっている記念館は、2番目の館の最後の方で日本の影がちらほら出てきた。3番目、4番目と進むうちに、日本軍の悪業の数々はどんどんエスカレートしていき、拷問シーンの蝋人形の場面でそれはピークに達する。蝋人形は、覗き窓からみるようになっている。壁ぎわについている20センチほどの段を一段昇ると、ちょうど目の高さに幅20センチくらいの覗き窓が左右に細長く続いている。蝋人形はその中にあった。壁ぎわをすすむと3つのシーンが見られるようになっている。最初のシーンでは逆さに吊るされた「捕虜?」が、鞭で打ち据えられ、焼きごてをあてられている。次はみかん箱ほどの小さな牢に、年老いた男が丸くちぢこまるように座っている。箱の左右からは鋭い針のようなものが何十本も内側の男に向かっている。日本兵はその隣で椅子に座り、片足を男が入っている箱のうえに乗せふんぞり返って煙草をふかしている。最後の場面には切られた首が下がっていた。
この「のぞき見る」という演出といい、中に表現されている場面の凄惨さといい、この蝋人形たちを見せられて日本人が嫌いにならない人がいるだろうか?
私も日本人が嫌いになり、まず、日本語のガイドブックをバッグにしまい、一緒に歩いていた友人とも言葉を交わすことをやめた。ここで私が日本人であることが「バレる」のは困ると反射的に体が動いた。
記念館には、社会科見学なのだろう、団体バスでやってきた小学生の群れがあった。この子たちはこの記念館を見てどう思うのだろう? 必ず日本人が嫌いになるだろう。そしてこの展示があるかぎり、何世代にもわたってこうした感情を再生産するのか? 私は憂鬱な気分で記念館を後にした。
私は仕事の関係で3年ほど広島に住んでいたことがある。仕事の関係上、被爆者の友人は数多いし、原爆記念館にはそれこそ数えきれないほど足を運んだ。しかし、ヒロシマの展示を見て「戦争はいやだ」と感じるが、「アメリカ人は嫌だ」とストレートに感じたことはない。この差は何なのだろう?
その理由のひとつは、原爆にアメリカ人個人の姿が出てこないからだろう。原爆は確かにアメリカ軍が落とした。その下の世界は一瞬に地獄絵となった。しかし、アメリカ人本人は出てこない。でも独立記念館で見た場面にはどれにも日本人が個人として見えた。おそらく彼らは本当に普通の父であり、子であり、夫であったろう。だからこそ憎いのだ。
もちろん理由はそれだけではあるまい。アメリカの、戦後にとった政策の巧みさ、日韓両国の民族性の違い、日本軍国主義時代の日本国内の統治の在り方も、関係があるだろう。
しかし、それでもなお、個人が及ぼした感情の歪みだから、個人個人として関係性を築き直すしかないと思ったのだった。

いよいよ、3月1日。午前9時、景徳宮(キョンボックン)へむかった。ここは李朝朝鮮の宮殿で、その門と宮殿を分断するように朝鮮総督府が建築されたのはご存知の通りである。戦後50年目の今年、旧朝鮮総督府は取り壊されることになっている。8月15日の光復節にシンボルの丸屋根だけを取り壊し、本格的な解体は11月に行なわれるという。この記念すべき年の3.1は、「今年取り壊しがありますよ」という意味の式典が行なわれていた。旧朝鮮総督府の中央部分には白い天幕が張られ、その前に舞台がしつらえられていた。舞台に向かって1000席ほどのパイプ椅子が並べられている。周囲には報道のカメラが詰め掛け、テレビ中継のセッティングもされていた。
舞台は宮廷舞踊や太鼓、サムルノリ(農楽)などが繰り広げられ、10時半頃になると正面の大通りから市民の行列が到着した。サムルノリなど朝鮮のリズムが大好きな私は、知っているリズムが始まるとからだが自然にステップを踏んだ。
行列をなして入場してきた市民は胸にリボンがついていて、人目でこの式典の招待客であることがわかる。ここで、様々な言葉が述べられたのだが、私はまったくハングルを解さないので何が行なわれているのかわからない。でも時々「イルボン(日本)」という単語は聞こえた。良い意味で言われているはずがないことだけは確かだった。

正午、パゴダ公園に向かった。公園の北側には3.1の追悼式の祭壇がすでに用意され、中央にはそれとは別に黒山の人だかりがあった。テレビカメラも来ている。人々の頭越しに背伸びをすると、どうやらこどもたちの劇が始まったところらしい。3.1のあの事件を演じているのだ。100人ほどの白装束のこどもたちが20数人ずつ、2列になって、うなだれ、広場をぐるぐるまわる。それぞれのチーム(?)の前には、白地に朱書きののぼりを掲げている。「内鮮一体」「創氏改名」……漢字だから私にも読める。つまり、日本に占領されて様々に虐げられ、うつむきながら歩く人民なのだ。その彼らを従わせるように張りぼて人形が登場する。こどもたちの背丈の3〜4倍の張りぼて人形で、手足を棒で下から操るようになっていて、先生と見られる大人2人が操作している。どうやら日帝の協力者を意味しているらしい。
すると突然、別のこどもの一群が群衆の間を抜けて輪の中に躍り出る。今度は白装束ではなく、背広を着てネクタイをしたり、僧侶の格好をしたりしたこどもたちだ。口々に「マンセー(万歳)」と叫び、うなだれて歩いていた隊列を乱し始める。日帝協力者の張りぼては一旦外に退き、今度は日本の警察の張りぼてとともに入場、その場を収めようとするように両手を上下に大きく振る。しかし、一度乱れた隊列は元には戻らない。
張りぼて二人は退場する。そしてとうとう日本軍を象徴する張りぼての登場である。他のふたつの張りぼてよりも一回り大きい。黒い軍服を着た張りぼては銃を乱射…こどもたちは「ダイ・イン」よろしく、地面に横たわって「死んだ」。
実際の3.1はこうして鎮圧されて終わりだったのだろうが、この劇はその後も続く。
倒れたこどもたちの間からぽつぽつと数人が立ち上がり代わる代わる独立宣言を読み上げる。
読みおわると全員が立ち上がって叫ぶ「マンセー、マンセー」。
その声に周囲で見ていた観客も両手をあげる「マンセー、マンセー」。
そのとき私は見た。本当にうれしそうに、心から両手をあげ、お腹の底からマンセーを叫んでいる老人たちの姿を。これを見た後しばらく、私は戦後補償に関する運動にかかわっていることが虚しく思えてきた。
「この人たちに何をすれば償うことになるの? お金? ダメに決まってる。それほど日本ってひどいことをしたのよ。私の生きている間はダメかもしれない…」
ため息が出た。

次の日、私は名古屋に帰ってきた。帰りの飛行機の中でぐるぐる頭のなかで考えたことだが、日本と韓国・朝鮮のそれぞれの人々が、わだかまりなく話ができる日がいつかくる、と夢見ること自体が不遜だったのかもしれない。わだかまりがあっていいではないか。過去があって現在があり、未来があるのだから。それよりも、何の知識もないまま、わだかまりがないものと勘違いしたままこれからの関係を築く方がよっぽど恐い。ここまで考えが及んだとき、戦後補償の市民運動に足をつっこんだときの初心に帰っている自分に気付いた。私はこれまで教育で教えられてこなかった「わだかまり」を知るために運動に関わるのだと、隣の国の歴史を隣の国の人の目線でみるために、それはとりもなおさず私のまわりにいる大好きな友達の目線でみるために。それは私自身の過去と未来のためなのだ、ということも…。わかって始めた関わりだったはずなのに、いつのまにか、戦後補償をすることで日韓のもつれた感情が解けるような気になっていた自分が恥ずかしい。そうやって、今、再び、心の平安とこれからも戦争・戦後を見つめ続けていこうという静かな覚悟が私の心に戻ってきた。
韓国にも、戦争体験の風化はあるだろう。こどもたちが劇をやるというのはその顕著な現れであると言っていい。それはヒロシマでも行なわれていることだからだ。でも、私は、日韓両国で、いいや世界中で風化が進もうとも、時間が風化させることができない最後の部分を見つけ、目を反らさずにいたい。戦争とか、差別とか、人権とか、もっといえば人間の本質はそこにあるような気がするからだ。



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