EU(欧州同盟)の劣化ウランへ向けた取り組みとセルビアの劣化ウラン

2007年7月

1、毒ガスとして知られるイペリットの名の元となったのはフランス国境に近いベルギーの小さな町、イーペルと聞いて首都ブリュッセルから列車で1時間半程の旅に出かけた。日本であれば世界遺産登録を申請すること間違いなしといった素敵な家並みと、見事な教会など立ち並ぶ広場に面した博物館で、戦場と集団墓地の場所を聞くと、受付嬢は「どこの?」と逆に問い返してきた。「第一次大戦の・・・」と言いかけると、地図を広げて「ここも、ここも、ここも」。町の周囲のいたる所が、前線であり、世界で始めて毒ガスが実践使用された現場だったのだ。その一つを訪ねると、雨上がりの雲間から漏れ出た陽射しに、白く並んだいくつもの墓標が輝いていた。ニュージーランドから派兵されてきた先住民族マオリの名前も並んでいる。そして確かに墓標には死因までは刻まれてはいない。しかし、彼らの多くの戦死が、毒ガスに因るものであったことは、その犠牲の無差別性から後に、その使用を禁止するジュネーブ条約が結ばれたことでもわかる。

2、EU議会でのロビー活動としての写真展 こうした苦い経験と、それを克服する人類の平和への意思を示して、さる3月、ベルギー議会の国防委員会は「劣化ウラン弾禁止法案」を、全会一致で可決した。これまで通常兵器としてきた劣化ウラン弾、や劣化ウランを用いた装甲の、ベルギー領内での製造、使用、貯蔵、売買、入手、供給、移送を、禁止するものだ。今後、国防委員会の決定は、その決定が全会一致であったため、本会議での審議は形式的に進められるという。「唯一の被曝国」と言葉だけで繰り返し、クラスター爆弾の禁止条約にすらも反対する日本政府との大きな違いも明らかになったというべきだろう。それはともかくとしても、ベルギーでの議決は今後の劣化ウラン兵器の国際的禁止へ大きな一歩となったのは間違いない。そのベルギーに本部を置く欧州議会のホールで私の写真展『ウラン兵器の人的被害』が開かれた。昨年、ヒロシマで開かれたICBUW(ウラン兵器禁止を求める国際連合)の大会で、私の写真を見たベルギーのメンバーが、欧州議会の欧州緑の党・自由連合に紹介して実現したもの。EU議会ビル3階大回廊の展示会場で開かれた5月14日のオープニングセレモニーにはオランダ選出のエルス・デ・グローエン議員やドイツ選出のアンゲリカ・ベール議員などが熱のこもったスピーチに、約100名の参加者が耳を傾けた。今後、写真展はヘルシンキ、ローマなどへの巡回が予定され、劣化ウラン禁止の波が欧州全体に広がっていることを実感した。

3、NATO軍が劣化ウラン汚染した現場 現在も劣化ウラン弾の除去を続けるセルビア共和国を、ベルギーの帰りに取材した。NATO軍が劣化ウラン弾を使用したボスニア戦争やコソボ戦争を、それぞれ95年、99年に取材しながら、劣化ウラン問題の視点からは取材できていなかったからだ。セルビア南部のマケドニアとの国境地帯の丘陵で、かつて模造の戦車があった場所で、NATO軍が打ち込んだ劣化ウラン弾を、セルビア環境省と共同して「ビンチャ核研究所」と軍とが除去作業に追われていた。6月には「全ての除去を終える」と現場では話すが、核研究所よれば、「NATOが提供した劣化ウランの使用箇所を示した地図」が、作業の元になっているという。つまり、他の場所が汚染されているか否かは、劣化ウラン弾を使ったこれ以上のNATOの協力が得られなければ不明なのだ。「現時点では、ガンなどの患者は出ていない」と言うし、汚染地域の水の水質調査などのモニタリングを続けるというが、劣化ウランの主成分のウラン238の放射能の半減期が45億年。今後のことは未知数ではないか。事実、取材地に隣接したコソボに派遣されたNATO軍の地上部隊に参加し、帰還後に異常なガンの発病によって死亡したイタリア兵の遺族は、劣化ウランによるものとイラリア政府を訴えた裁判で勝利しているのだから。

セルビア共和国での劣化ウラン弾の除去作業の現場