「中越沖地震」の現場

2007年7月

地震の発生発生後4日目の7月19日の朝、車で柏崎に入った。長岡から北陸自動車道に入ると、直ぐに前方の車がスピードを落とした。前日に復旧したとはいえ、いまだ道路のいたるところに亀裂が入り、大きな段差を残していたのだ。そこを柏崎に向かう救援車両が列をなす。午前8時を過ぎたばかりだが渋滞が始まっていた。柏崎インターチェンジは緊急車両のみの通過が許されるとのことで、手前に西山で高速を降りた。道路の亀裂、陥没が無数にあり、波打っているように思われる場所も散見される。既に倒壊した家屋が重い屋根瓦の下に伏せているのが、見られた。国道116号を10分も南下すると、東京電力柏崎刈羽原子力発電所への誘導路。この道もアスファルトが波打ち、大きな亀裂も入る。橋が浮き上がったのか、その前後の道が沈んだのか、いずれにしても大きな段差を超えなければならない。辛うじて車の底を擦らないで通過できたが、復旧はこれからだ。JR越後線の橋を越えると直ぐに原発の入り口。地元紙の『新潟日報』の取材班が、入り口ゲートをVTRなどで撮影していると、ガードマンが飛んできて、撮影禁止だと言う。理由を告げることもない。それでいて、新聞社の腕章まで巻いている記者に氏名を教えろという。ゲートの電光掲示板には「テロ対策特別警戒中」のテロップが流れている。まだ、周辺では停電が続いているというのに・・・。そして、原発が、放出する(した)放射能こそが市民にとっての最大の「テロ」であろうに。

原発に沿って日本海沿岸を南北に走る国道352号線を南下する。快晴でぐんぐんと水銀柱を上げる強い日差しの下で、震災後の家の片付けや、補修に汗を流す人々が見られる。その傍らに白いヘルメットをかぶった2~3人一組の応急危険度判定士の方々が、詳細な住宅地図を片手に、汗を拭いながら一軒一軒、「危険」を示す赤紙、「要注意」の黄色、そして、「調査済」つまりはとりあえずの安全を表す緑の紙を貼っている。その隣で、不安と戸惑いの表情で、しかしなすすべもなく家の主人が新潟県内の加茂市から支援に駆けつけた市職員である応急危険度判定士の判定を見守る。結果は、「この建築物に立ち入ることは危険です。立ち入る場合は専門家に相談し、応急措置を行った後にしてください。」と印刷された「危険」の赤紙。しかし、手書きの注には「屋根瓦の落下のおそれあり。木塀の転倒の危険あり。ブロック塀傾倒」と書かれて、即刻に家屋が倒壊するというものではないようだ。しかし、庭隣の新しい車庫での避難生活が続きそうだ。

柏崎市内中心部に向かうに従って、カーキ色の自衛隊車両が多数見られる。大半は大きな大型トラックの後ろに小さな1000リットル入り水タンクを牽引している。そのアンバランスが姿が目に付く。その横では昨日までの雨がウソのような快晴で、波打ち、ねじれ、盛り上がり、マンホールが飛び出した道路の復旧を急ぐ作業員も大勢見える。また埃立つ道路を行き来する車の多くが、小さなユンボ(パワーショベル)を積んだり、高所作業用のバケット車だったり、それぞれ切断された上下水道の復旧を、停電の続く電線の補修に走り回っているのだ。同様にガス会社の駐車場は県内各地から工事車両が集結しては、現場に向かって出て行く。被災地の風景は、テレビや新聞が伝えるストップモーションのような映像や写真ではなく、ともかくも生活のできる状態への復旧に向けて、誰もが忙しく動き出しているのだった。しかし、何故か、自衛隊の救援だけがクローズアップされる。

5トン積みの給水車で浄水を市民プラザにピストン輸送しているのは県内の三条市水道局の職員たち。この日の午前8時には給水を開始していた。「私たちだけではないですよ。浜松(静岡県)、名古屋市などからも応援に来ています」と、忙しい手を休めることもなく説明してくれた。彼らによると、給水作業の分担は、自衛隊が避難所、そして自治体の支援がその他の公共施設に入っている。どうりで連日、テレビ中継をする柏崎小学校の避難所前に1トンのタンクを5台並べる「救援の自衛隊」だけが、報道されるわけだ。風呂の支援も、揚陸艦「くにさき」のシャワーを被災市民に開放しての支援が強調されたが、すでに、柏崎近隣の市町村の温泉や、海水浴場のシャワーなどが被災市民には無料で開放されるという市民レベル、自治体レベルでの助け合いの実態は全国には知られているのだろうか。こうした情報は、阪神淡路大震災を契機に地元で設立されたFM局、FMピッカラが、地震以降の特別番組編成での生活情報として24時間流し続けている。

今回、理学博士で東洋大学教授の活断層の専門家である渡辺満久氏の調査に同行させてもらった。渡辺博士は柏崎の古い航空写真を持参していた。地表に現れた活断層の痕跡と、今回の地震の被害状況を照らして、被災の原因を探り、災害対策に役立てようとしている。もちろん、「想定外の地震に見舞われた」という柏崎刈羽原発の立地問題にも鋭い視線を向ける。「私たちはずっと以前から、柏崎原発は地震に見舞われると言ってきたのです。想定外ではなかったのです」と。渡辺博士たちは、原発の下を走る活断層の存在を早くから指摘した。しかし、東京電力、そして「現在、わが国の原子力発電所は考えられるどのような地震が起きたときでも、設備が壊れて放射性物質が周辺環境に放出される事態に至ることのないよう、土木、建築、機械、地質、地震学など、幅広い分野の技術をもとに、厳重な耐震設計が行われています。」とHPで宣伝しながら、「設備が壊れて放射性物質が周辺環境に放出される事態に至」った東京電力の、「設置予定地のボーリング調査・周辺の地質調査・過去の文献調査などと行い、直下に地震の原因となる活断層がないことを確認しています。」というのは、虚構だと断言した。「30キロもある断層を、東京電力は7~8キロと、バラバラにして短くすることで、地震の規模の小さく見せかけていたのです」と。そして、それを見抜けなかった国の責任が一番重いと渡辺博士は言う。真夏を思わせる焼け付くような陽射しの下を地面の亀裂、コンクリートの崩壊、建物の倒壊などを一つ一つチェックしながら、それを地図上に落とすという地道な作業を路地から路地を回って一日続けた。

「ここはいい方です。テレビや新聞で報道されたので、支援物資が豊富に入ってきているので、食べ物は足りています。でも、いまだにおにぎりだけという避難所もあるのです」とボランティア作業の采配を振るっていた青年は、中学生に指示を出すと、足早に次の避難所に向かった。残ったのは、柏崎市立第一中学校の生徒たち10名ほど。その中には、この柏崎小学校の体育館に避難している子どももいた。中学1年生の女子生徒は「家は無事だったけれど、隣の家が潰れてきそうで、まだ帰れない」という。湯気の立つすいとんを汗を拭って、お椀に注ぐ炊き出しを手伝っていた。炊き出しに並んだ被災者の女性は「ありがたいことです。こんな子どもたちが元気に手伝うのを見ているだけでも、元気が出ます」と目を細めた。

また、荷物でごった返す配給所で、「家でですか?。手伝いしたことはないッス」と、苦笑いしながら、列を作って並ぶ被災者たちにペットボトルのミネラルウォーターを配る作業を続けるのは中学2年生の男子生徒たち。誰かに言われてやっているのではない。「友だちと誘い合って」ボランティアを始めて3日目という。「ありがとう、といわれたときが、一番嬉しいです」。その隣では、別の男子生徒が、入り口近くに自転車を乗りつけた友人に、「おい、そこに停めると、皆が荷物運びの邪魔になるじゃない」と注意する。教員が近くにいるわけでもない。翌朝、7時半に再訪すると、「6時50分から来てまーす」と笑顔で迎ええてくれた中学一年の女子生徒も今日で4日目。ここに避難している友人と、支援で届いたお菓子を大きなダンボールに移しかえると、300名余が避難生活する体育館に運び込んで、幼い子どもたちに配って回る。お菓子をもらった幼児を抱えた女性は「この子たちを見ていると、自分も何とかお手伝いしなければと思います。でも自分の子どもがまだ、目を離せないのでね。申し訳ないです。この中学生たちは、ホントありがたいですね」ここではすでに被災者自ら立ち上がろうとしていた。