半世紀にわたる難民生活
故郷を追われたパレスチナ人の現在

『母の友』1998年10月号(福音館書店)に掲載

イスラエル建国からちょうど50年目の5月14日。「イスラエル」と地図上に記される前にパレスチナと呼ばれていた土地を追われた人々が暮らすレバノンの難民キャンプに立っていた。あと2年で20世紀も終わるという今、その20世紀の半分を難民として暮らすとはどういうことなのか自分の目で見ておきたかったからだ。

半世紀を迎えた難民キャンプで
 いつもなら雲ひとつなく晴れ渡る夏の空が広がるはずのこの季節だが、今年は異常気象という。ときどき雨粒が落ちてくる低く垂れこめた雲の下、水溜まりを避けながら行き交う人々。野菜や果物、魚や卵、そして衣料品や雑貨が高くつまれた荷車を並べ、声を張り上げて新鮮さや廉価を売り物にするサブラ地区市場の男たち。朝から水パイプをくゆらし、苦みの効いたトルココーヒーをすする隠居した爺さんたち。靴墨と椅子代わりの空缶を抱えた靴磨きの少年がその間を巡って客を探す。パン屋からは香ばしさが辺りに漂う。何度か通ったシャティーラ難民キャンプの日々の暮らしぶりはこれまでと変わらない。しかし一見のどかな風景は、ここが難民キャンプゆえに別の意味を持つ。難民となって50年の今日と51年目に入る明日の風景が似たようなものでならば、彼らはこれからも難民であり続けるかもしれないから。それは彼らにとってとても「平和」とは呼べるものない。 「私はヤーファで1920年に生まれた」というハーフェルさんや「カリール村の出で64歳になる」ナーエブさん。「サファッド生まれの90歳。オスマントルコ時代もイギリスの委任統治時代も知っている」というシェリーフさんたちキャンプの人々が言う町や村の名前は今はない。日本の地図にイスラエルと記されるパレスチナから物理的にも消されていまったからだ。しかし「郷里に帰る」という彼らには、50年の歳月で家はテントからコンクリートになったが、難民キャンプはやはり仮の住まいなのだ。

パレスチナ人の半世紀
 それではなぜ彼らパレスチナ人が現在も難民キャンプに暮らすことになってしまった のか。少し振り返ってみたい。問題は19世紀後半ヨーロッパやロシアでのユダヤ教徒 (ユダヤ人)に対するいわれのない差別から始まった。そして迫害を受ける中でユダヤ 教徒は自分たちの拠って立つ旧約聖書がいう「約束の地に帰ろう」という宗教=民族運 動の形をとった政治運動を起こす。シオニズムと呼ばれるこの運動は100年前の18 97年、スイスで世界シオニスト会議を開き、5千年前に神からユダヤ教徒に与えられ たパレスチナの地に「帰ろう」と決議した。
  しかしその頃パレスチナに住んでいたアラブ人住民は、自分たちの将来に関わる決議 が勝手になされているなど知るよしもなく、イスラム教徒もキリスト教徒も、そしてア ラブ人のユダヤ教徒も平和裡に共存していた。
 だがパレスチナを統治するオスマン帝国に取って替わろうつするイギリスの植民地主 義とシオニズム運動は結びつき力を増していった。第一次世界大戦が始まると1917 年にはイギリス外相バルフォアに「パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを建設 することを支持する」と書簡を送らせるまでになった(バルフォア宣言)。もっともイ ギリスはその一方でオスマン帝国との戦争を有利にする目的でアラブ側と、オスマン帝 国に勝てば独立国家建設を約束すると言って味方につけた(フセイン・マクマホン書簡 )。もっともイギリスは裏でイギリス、フランスでロシアでこの地域を分割統治しよう という秘密協定を結んでいた(サイクス・ピコ協定)。こうしたイギリス三枚舌政策が 、今日まで続くパレスチナ問題を生み出していったと言える。ヨーロッパの植民地主義 や反ユダヤ主義の結果の結果であるパレスチナ問題は決して「パレスチナの問題」では なっかった。パレスチナの住民に関わりのないところで相談され決定されたことなのだ から。
 しかしその後「アンネの日記」やアウシュビッツに象徴されるナチスによるユダヤ人 虐殺は、パレスチナへのユダヤ人移民を加速させ、地元住民との軋轢も頻発するように なった。当時パレスチナを国際連盟の委任という形で支配していたイギリスは第2次世 界大戦後、統治を放棄して設立間もない国連に委ねた。その結果、国連はアラブ人の半 数しか人口がなく、また現実には6%の土地しか所有していないユダヤ人にパレスチナ の56%の土地を与えるという分割案を決議した。当然ユダヤ人側は受け入れ、一方先 祖伝来の土地を奪われることとなるアラブ側は拒否した。そして独立に備えて武力行使 にでるユダヤ人と、村を守ろうとするアラブとの争いは激化し避難民が発生し始めた。
 ついに1948年5月14日イスラエル建国がすると、これを認めないアラブ側との 間に第1次中東戦争が起こる。そして統一のとれないアラブ軍には敗北しイスラエルは 国連決議の1.5倍もの「領土」を手に入れた。その結果130万人強のアラブ人の内 70万とも100万とも言われる難民が発生した。危険が去ったら帰るつもりで掛けた 家の鍵を持って出た難民の群れの中にハーフェルさんやナーエブさん、シェリーフさん もいた。そして彼らの家は主人の帰りを待つことなくイスラエルに破壊され、村も消え た。

難民の将来
 93年にアラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長と故ラビン、イスラエル首相 との間で「オスロ合意=パレスチナの暫定自治に関する原則宣言」が結ばれた。一般的 に和平合意と呼ばれているが、現在のところパレスチナ側が自治区として与えられたの はガザ地区とヨルダン川西岸地区のたった6%にすぎない。またパレスチナ側が将来の 首都に予定する東エルサレムはイスラエルは手放すつもりはない。難民たちが描く和平 とはあまりにかけ離れた現実。そして、ハーフェルさんやナーエブさんたちのように「 48年難民と呼ばれる」イスラエルに組み込まれた地域からの難民たちには「故郷への 帰還」はますます遠退いた感すらある。ヤーファの町もカリール村やサファッド村も「 パレスチナ自治地区」に予定すら入っていないからだ。国連決議で保証されたはずの「 難民の帰還の権利」は空手形に終わる可能性すらある。
 「たとえ西岸とガザ地区にアラファト共和国ができても、そこは私の故郷ではないか ら帰りようがない」とPLOの選択を批判する画家、モッサラームさんは今日も故郷の 思い出を描き続ける。「パレスチナに帰る希望は今も持っています。私が帰れなくとも 、私の子供が。いや、500年かかっても私たちはパレスチナへ帰ります。」と言うカ ーセムさんはNGOの責任者として戦争で親を失った子供や貧しい家庭の子供の援助活 動に走り回っている。それは半世紀がたとうとも変わぬパレスチナ難民の日常でもある 。

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