開かずのオリ
「象のオリ」を日本政府が不法占拠

『週刊プレイボーイ』1996年5月に掲載

今再び『沖縄を返せ』の大合唱が島中に響き渡っている。かつて24年前にアメリカ かの日本復帰運動の中で歌われた歌の助詞「を」を「へ」へと一字変えて。すなわち

 かたき土を破りて民族のいかりにもゆる島 沖縄よ
  我らと我らの祖先が血と汗をもって守りそだてた 沖縄よ
  我らは叫ぶ 沖縄よ
 我らのものだ 沖縄は
 沖縄を返せ 沖縄へ返せ

当時、日本本土の人間も一緒になってウチナー(沖縄の人々)と共にアメリカに対して 本土復帰を要求する歌として歌った歌は、しかし今、その本土の日本政府に対して「沖 縄を返せ」と歌われる。
 米軍基地強制使用手続きの代理署名拒否を続ける大田昌秀沖縄県知事支えるこの歌声 は、この手続きの延長にある「公告縦覧」手続きの拒否を宣言する市町村長を三倍に増 やし、はっきりと米軍基地にノーをつきつけた。
 こうした中、四月一日午前〇時米軍楚辺通信所(通称「象のオリ」)内の知花昌一さ ん所有の土地の使用期限が切れた。今度は日本政府によるこの土地の不法占拠が始まっ たのである。
「日本政府は泥棒です。奇しくも五一年前のこの日、ここで殺された祖父の霊の冥福を 祈ろう三味線と酒を持って家族と来ましたが、彼らは祖父の土地入れようとしません。 」と悔しさをあらわにした。また土地の明け渡しを求めて那覇地裁に仮処分を申請では 「この裁判で、僕はかならず勝って大田知事の仇を討ちます。」と宣言。
 「あんなもの(象のオリ)があるから、この農道の舗装も許されん」と怒る老農夫の 声を代弁して歌声は広がる 沖縄を返せ! 沖縄へ返せ!


県民の一票・沖縄のNO!
県民投票取材メモより

『週刊プレイボーイ』1996年9月に掲載

96年8月28日
 大田沖縄県知事を「被告」とすし、橋本総理を原告とする米軍用地の収用に関する代 理署名拒否裁判の最高裁判決が下された。傍聴に出掛けると小雨混じりの微風に一坪反 戦地主の緑の旗が翻っている。30余名がはるばる沖縄から上京してきているという。 傍聴整理券を配っているが、これがコンピューターによる抽選券を兼ねているという。 「オウムで使っているやつです」と最高裁の係官。コンピューターの箱の中を覗いても 、シリコンのチップがあるだけなのだから、本当に公正に抽選されるのか解ったもんで はないと思うし、また器械に抽選されるというやり方が気に食わない。竹ひごのくじを 引くという主体的な行為がないから器械の方がエライということになってしまわないか 。などと思いながらも、数百人はいると思われる傍聴希望者と同様に整理券を手にして 待つことにした。そしてやっぱりというべきか、コンピューターは見事に私の番号を飛 ばして次の番号の整理券所持者の傍聴を認めた。
 さて、沖縄からの代表団を傍聴させるべく、そんために傍聴整理券を得ようと本当に 沢山の人が並んで束にして「抽選され」に臨み、やっと手に入れた傍聴券で法廷に入っ た人々が耳にした最高裁判決は「本件上告を棄却する。上告費用は上告人の負担とする 。」「閉廷します。」という、その間数秒だったという。一坪反戦地主関東ブロックの 上原さんが開廷まもなく「不当判決」の垂れ幕をもって出てきた。予想されていた判決 とはいえ、気持ちは治まらない人々は、そのまま路上抗議集会へと流れこんだ。

8月30日
 夕日に照らされながら那覇空港に飛行機は到着。湿気も手伝って、直ぐに汗が背中を 流れだす。東京が涼しかっただけに、むっとした熱気はあらめて異国を思わせる。市内 に向かうタクシーの運転手は県民投票に冷淡だ。閑散とした「自由貿易地区」を過ぎて 市内入り口の明治橋を渡っていると、ビルの壁面に巨大な広告「日本初に参加しよう。 9月8日(日)県民投票 沖縄県」が目の前に飛び込んできた。
 宿の主人に聞くと「このステッカーがどこにでも張ってありますよ。パチンコ屋の入 り口なんにも。」と「あなたの意思をJust Now」の標語が入ったステッカーを 指差した。県当局が作ったもののようだ。その後気付いたのだが、この種のスローガン が最初は区別がつかなかった。すなわち「9月8日は県民投票を」と「9月8日は賛成 〇の投票を」の違いが。
 これはそのまま「県民投票推進室」と「県民投票推進協議会」に対応したものなのだ が、こちらの名前も紛らわしい。すなわち行政は「投票」に参加を呼び掛けるのみで、 「機知の賛否」についいては触れてはならないらしい。これは普通の選挙時に選管が投 票を呼び掛けるのと同じで、選管が特定の候補者の宣伝をしないのと同じ。これに対し て「推進協議会」の方は「自治会館」に本部を置き、政党、労組、市民団体をもって構 成する民間だから、投票内容、すなわち「賛成に〇を」と言えるのであった。ちなみに 「あなたの意思をJust Now 9月8日は県民投票」の標語に虹のかかるロゴマ ークは「推進室」「推進協」もまったく同じであったのだが。

 8月31日
 朝からすさまじい暑さ。土曜閉庁でクーラーのかからない県庁ロビーでは「知事への 手紙」を男女数人が激の入った赤旗や寄せ書きと一緒に展示していた。どこの団体か問 うと「業者です」との答え。?……と思っていたが、展示主体が県当局なのだから、ま あそういうこともあるのかもしれない。ついで今後の予定を確認するために「推進室」 の広報を訪ねる、対応に出た方が差し出した名刺は「○○企画ネットワーク (株)○ ○○○沖縄第一営業部部長」の肩書き。エッエ?……。「頭と取り」に成功していると こういうこともできるのか、と「大人の世界」では「当然」のことかもしれないが、う ぶな私には”新鮮”な驚きであった。もっとも、税金を広告代理店に払うことが、果た してどうかはおおいに疑問が残るし、東京で聞いていた「ディアマンテスがテレビで県 民投票を呼び掛けている」のからくりが見えてきたようで、なんか気勢をそがれた感じ だ。それでも帰り掛けにロビーで見かけた「連帯。沖縄の県民投票に巻町の勝利米を贈 る。」と書かれた米俵が積まれていたのには笑みがこぼれたが。
 那覇市の投票運動の市民広場的な存在となった「パレットくもじ」というショッピン グとイベントビルの前は連日「賛成に〇投票」を呼び掛ける市民団体と「県民投票」を 呼び掛ける県や那覇市当局が模擬投票を行なったり、なぜか小笠原太鼓で激を飛ばした り、「基地に反対の者は『賛成に〇〇』を」という解りにくい投票についての相談窓口 を開いて、盛り上げを図っている。直射日光で気温は鰻昇りにもかかわらず、模擬投票 に道行く人たちが結構参加するのには、東京と沖縄の「文化」の違いというか、民度の 高さを感じた。また国際通りの中心では「平和をつくる琉球弧活動センター」の西尾牧 師や那覇市議選の補欠選挙で当選したばかりの島田正博市議など市民運動と自治労が「 賛成に〇を」のチラシ配りをしたが、このはけのいいことは本土マスメディアの”期待 ”を裏切る「関心の高さ」を実感したが、西尾牧師は「まだまだ、こんなものでは」と 気を引き締めていた。

  9月1日
 20万人余が詰め掛けるという「全島エイサー大会」がかつてのコザ、現沖縄市で行 なわれるというので出掛けてみた。この日もすさまじい日差し。一週間前まで北海道に 行っていたから余計に感じるのかもと思ったが、地元の人々も日傘をさしての見物であ るところを見るとそうでもないらしい。中部各地の「代表」が”競う”エイサーは、さ すが派手である。さて、開会あいさつに立った沖縄市長は「来る9月8日には県民投票 もあります。」と、さりげなく(?)宣伝したが、昨年10月21日の「県民大会」の 倍以上が埋める会場での効果はテレビのスポット広告並みには影響するのだろう。
 国際交流の団体のエイサーには白人、黒人が交じっている。基地反対と外人排斥はこ こでは一緒ではないのだなどと”納得”したが、”納得”がいかなかったのは、あの「 象のオリ」のある読谷村の楚辺の青年団の演じるエイサー。エイサーそのものは地域の 伝統や趣向がそれぞれあって甲乙など私にはわからないのだが、ただ驚いたのは、その 楚辺の青年団が演技のクライマックスで皆で開いた扇。白地に赤い、あの日の丸なので あった。知花昌一さんが焼き捨てた、その前に読谷高校の生徒たちがドブに捨てた、あ の日の丸である。後日、読谷で陶工の大宮さんにうかがったら、確かに日の丸で、いつ からかはわからないが復帰前から青年団は日の丸でエイサーを踊っていたという。時間 がなくて、それ以上はわからなかったが、「平和憲法の下の日本への復帰」運動が日の 丸を振っていたというのだから、青年団と日の丸は”異質”ではないのかもしれないが 、まだよくわからない体験の一つである。

 9月2日
 せっかくの「青い空、青い海」の沖縄である。「いや都市だけを見ていたら県民投票 はわからない。離島へ行くべし」などと言い訳を考えながら、一方で一年ぶりのダイビ ングを期待して慶良間列島の阿嘉島へ渡った。座間味村に属するが役所の出先はない。 幼稚園から小学校中学校までは同じ敷地にある人口3〜4百の寒村である。小学生18 名、中学生10名の学校はその日が2学期の始業式だが、授業もあるという。道理で静 かなわけだ。まだ真夏のような日差しでさすがに昼なかは農作業するものはいないよう だ。もっとも農業や漁業で生計を立てているものはいないという。海人(ウミンチュウ )もいるが自分で食べたり、自分のところの民宿客に出す分を獲るくらいだという。ダ イビングのメッカの慶良間諸島ではやはりなんらかの関係をダイビングに持つことで現 金収入を得ているようだ。小さな集落に18軒の民宿と1軒のホテルがあるのだから。 それで県民投票はどうなのか民宿のオバーに聞いてみた。「ここは行かない者はいない さー。選挙のときもそうだが、だれが行かないかすぐわかるし、呼びにくるんだから。 」だそうだ。(確かに後日新聞に発表された投票率によると74.4パーセント。ちな みに県平均は59.53であり、80パーセントを超えたところは、その日町村長選挙 と重なった恩納村、西原町、具志川村だけである。)よって、ここの投票は島ぐるみと なるのである。だが投票まで1週間をきったというのに公共掲示板にすら県民投票のポ スターも張られていない。果たして大丈夫かしらと思ってみたり、いやここでも「田舎 は差別されている」と”納得”したりさせられた。浜で出会ったオバーは「小学生のと きに初めて飛行機からの機銃で撃たれて、先生と山の中に隠れた」思い出を話してくれ た。そうここは51年前、沖縄本島に先立つ3月26日に米軍が上陸した島なのである 。「あっちにアメリカの船が見えて」とオバーが指差す方角に、いまはダイバーを乗せ た小さな船が夕日を浴びて港に戻ってくるのが見える。

 9月3日
 那覇市与儀公園では「推進協」の県民投票を成功させようとの呼び掛けで5000名 の集会が持たれた。労組や宗教団体の「動員」にもかかわらず、開会時点では淋しくな るほどの集まり具合。桑江さんの発言はいつもどおり迫力と説得力がある。知花昌一さ んもみえている。翌日不在者投票に行くとの確認をする。8日、知花昌一さんは、東京 の世田谷での集会に講演に行くことになっているのだ。推進協に参加する「市民、大学 人の会」のあいさつや大学生の決意表明もあるが、やはり圧倒的多数は「動員派」で、 それは共産党、社会党も含めて公明党までが大動員をかけたことを物語ってはいるが、 それ以上の広がりがいかに乏しいの証ともなっている。
 デモに移って「おもしろかった」のはちょうど部活が引けて下校途中の中学生たちが 、声かける大人の隊列に制服姿のまま入って、全行程とはいかないがともに歩いたこと だ。東京での孤立化したデモしか知らないからか、かってに「沖縄的」なものを感じた のだが、果たして正解か?。また沿道からデモ隊に激を飛ばすオジーや、声援するオバ ーがいたことも新鮮であった。

 9月4日
 今日、明日と2日間「高校生県民投票」が行なわれる。新学期始まって3日目である にもかかわらず5万数千人の高校生の内3万人以上が参加したことは驚異に値する。


苦悩する沖縄

『週刊プレイボーイ』1998年2月に掲載

問われるはずの橋本政権の基地のたらい回し策、無策の沖縄振興のツケはまたしても地 元住民に苦悩を強いた。

アメリカ海兵隊の海上ヘリ基地受け入れ拒否の意思を明らかにした名護市の住民投票 から1ヵ月半足らずの2月8日、名護市民は、市民の意思に反して「受け入れ表明」を 強行した前市長の辞任に伴う名護市長選挙で、前市長の助役だった岸本建男氏を当選さ せた。僅差とはいえ、「海上基地反対」一本に絞って市長選に臨んだ反対派は「まさか 」の結果に言葉もなかった。選挙期間中、大田昌秀沖縄県知事は公式に「普天間飛行場 移設に伴う海上ヘリ基地の受け入れを反対」を表明した。これに対して橋本首相はじめ 政府関係閣僚は一様に拒絶反応を示したが、地元は反対派はもちろんのこと、「賛成派 」も一様に知事の公式表明を歓迎した。これで「基地問題の決着はついた」と。当選し た岸本氏は告示以来「海上基地問題は大田知事の判断に従う」との公約してきたのだ。 また反対派は知事自らが応援に駆け付けたこともあり、知事表明は自分たちの選挙運動 の追い風となると読んだ。だが、選挙民は、沖縄で初めて基地を受け入れた地元とのレ ッテルを張られる可能性がなくなったと判断した。つまり自分たちは「北部振興策」を 訴える候補に一票を投じたのだと。しかし「政府はそうは取らない。たとえ市民投票で 海上ヘリ基地反対の市民の意思がはっきりしても、認めないのが今の日本政府なのだか ら」と基地予定地で反対運動を続ける地元民は警戒する。1%に満たない沖縄に75% もの米軍基地を押し付けてきた政府の責任も、怠ってきた北部振興策のツケも、結局は 地元民に押し付け、住民を二分する「苦渋の選択」を強要する日本の政治の構造にメス が入らない限り、沖縄の苦悩は続く。

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