「罪は被りなさい。補償は知りません」
ある朝鮮人行軍兵士の生涯と日本の戦後責任

『論座』1998年11月号(朝日新聞社)に掲載

「私は日本の法廷に立ったら堂々と述べますよ。」と話していた声が、今もオンドル の上にあぐらをかいた姿と共に甦る。残された最後の時間を、後に残る子供や孫のため に「日本の国策で負わされた責任」の意味を日本政府を相手に闘うことで問おうと言う 。
 「戦争に行って忠実に戦ったのに国籍まではずすのか。本人の意向も聞かず自分勝手 に日本の政治家たちが私の国籍を削除してから『あなたは罪は被りなさい。補償は知り ません』いうような態度をとっているじゃないですか。」という韓さんの言葉を私たち 日本人はどう聞くのか。

「日本国民」の朝鮮人
 中国の東北部、吉林省朝鮮人自治区にある琿春市は人口の過半を朝鮮語で生活する朝 鮮族が占めている。その琿春市の町外れに韓慶得さん、日本名清原輝夫さんは妻の李順 姫さん、そして息子夫婦に孫一人の5人家族で暮らしていた。
 韓さんは1919年(大正8年)に現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の北部 の感鏡北道慶源で「日本語を全く話せない」朝鮮人を両親に生まれた。しかし韓さんが 生まれる9年前に日本はすでに朝鮮半島を「併合」し、現在のソウルに朝鮮総督府を設 置して、植民地支配を固めつつあった。その結果、朝鮮人の韓さんは生れながらにして 日本国民となった。「天皇の赤子」として平等であるとの「皇民化教育」が施され、韓 さんも小学校から日本語を強制される。 
   「私が3年生のとき朝鮮語は廃止されましたね。学校においても子供同士お互いに話 すときも朝鮮語でしゃべれないですね。もう先生に見つかると1回に5円の罰金を取ら れたんですね。あの当時5円ですと、今の5000円くらいの価値があるでしょう。」  また戦時体制に突き進む日本は、必要な米を賄うため、朝鮮半島に大量の「供出」を し強いた。その結果農民の生活は悲惨をきわめた。
 「とにかく軍国主義の政治は厳しくてですね。私の家なんかは、小作農で、一年の収 穫量を半分をこちらがもらって、半分を地主に納めたんです。それに国家で供出量を割 り当ててくるんですよ。それが大変ですよ。その供出量の義務を完成しないと。家に食 うだけの糧抹があっても無くても、これだけは完成しなきゃならなかったですよ。です から義務の数字を完成すると、まったく家には食うものなんか無くなってしまうんです ね。」
 そうした中にあっても両親は韓さんの学力に期待して中学に進学させた。故郷には中 学がなかったから日本海側の羅南まで出ざるを得ず、学費に加えての下宿費用もばかに ならなかったようだ。それでも韓さんを中学にまで進学させたのは「将来は役所か企業 に勤めたい」という韓さんの希望と、出世を願う親心と重なりあったからだ。
 しかし家計は日毎に破綻していき、結局せっかく入った中学校での勉強を続けること は出来なくなってしまった。当時5年制の中学を、韓さんは3年で中退した。

第一期特別志願兵
 一方日本の関東軍はその頃、満州=中国東北部とソ連との国境、張皷峯でソ連領への 侵略を目指したが撃退される。「日本の在郷軍人から召集してきた年寄りの兵隊がうよ うよしておりました。」という朝鮮の状況の中、日本は特別志願兵制度を施行した。
 「誰一人として志願する者はおりませんでした。警察の管内の巡査は躍起となって適 任者を探すのです。何回も何回も警察に呼ばれて『お前志願しろ。いい生徒だったから 志願して日本の兵隊になると、これ以上の光栄なことはない』と。志願しないというと 非国民にされてひどい制裁を食らうのでした。それが怖くてとうとう私の口から『ハイ 、志願します』というような言葉が出ると警察当局から非常に歓迎を受けました。
 このような形で「志願」した者は、まず道知事の実施する選考試験を受けさせられる 。韓さんは感鏡北道の選考をパスした。そしてさらに朝鮮全土の各道の試験に合格した 「志願者」3500余名に京城(現在のソウル)の龍山の朝鮮軍司令官は身体検査他、 国語、日本史、地理の学科試験を受験させ、その結果404名を第一期「特別志願者」 として合格者にした。この中に韓さんは入った。
 当時ソウル郊外のにあった朝鮮総督府の陸軍志願兵者訓練所に入所した韓さんたちは 半年にわたって国語(日本語)歴史、数学を学んだ。「まるで中学校へでも再び来たよ うな思いで嬉しかった」と勉強を断念せざるを得なかった韓さんは言う。しかし一方で 「教育は主に真の日本人に作り上げる大和魂を吹き込む教育だった」と今は理解してい る。
 そして「皇軍化」の仕上げとして日本本土への「視察旅行」にも行った。宮城(皇居 )、「乃木大将の官邸」、東京日々新聞社、アサヒゴム、そして伊勢神宮の参詣、呉造 船、北九州の八幡製鉄所と見学。東京では代々木練兵場での天皇の「親閲式」に分列行 進で臨んでいる。「天皇陛下の顔を拝んだわけです。かすかに見えましたね、はっきり は見えませんけど。」後に中国でこのことも「自白」して災いした。「文化大革命当時 問題となって、私を叩きました。『普通の人間が日本の天皇にまで面会出来るか?お前 は日本の天皇にまで面会してきた奴だから悪い奴だ』と叩き始めたですよ。」
 いずれにしろ無事訓練所を終了した韓さんは鍾城に駐屯した朝鮮軍に入れられた。「 いよいよ初年兵として日本軍の第19師団の輜重兵隊19連隊入営せられるのでした。 朝鮮人としては歴史上初めて一つ星を付けた二等兵の軍服を着た日本軍人になるのでし た。」 「志願」する以前には逃げ回っていたところのある韓さんを、半年の軍事訓練 は兵隊となったことを誇りと思う「日本人」に変えたのである。「もう志願兵になった 私は、すっかり日本人になったつもりでしたね。」
 もっとも2ヵ月で直ぐ除隊を命じられた。「志願兵制度を普及徹底させる見せ掛る除 隊だった」と韓さんは理由を考えている。その後無給で警察に志願兵制度や、軍隊経験 を講演して回る仕事をさせられたからである。

警察官時代
 「帰休除隊」とは結局は必要がなくなれば放り出すことでもあり、韓さんは失業した 。だが「志願兵」になり、また地域の警察に「協力」したことは有利に働いた。家で農 作業の手伝いをするしかなかった韓さんのもとに警察官募集の通知が届いたのだ。
   「当時無職であるし、農村でまた百姓の仕事をするのがいやになって」いたから通知 を見たときは「これはしめたことだなと私も喜び勇んで、その試験を受けました。」
 試験に合格した韓さんは昭和15年3月羅南の警察官教習所に第40期生として入所 した。6ヵ月間の教習は警察官の服務要領が中心だったと韓さんは記憶する。「最後に 試験に3等の優等生の成績を修めて、その試験を受けました。」
 現在の韓さんの住まいには何冊もの中日辞典や、日本語の辞書や教科書、書籍が書架 にびっしりと並ぶ。80年代に入って中学で日本語教師として働き始めたからだが、と もかく若い頃から勉強熱心であったことは確かだ。
 教習終了と同時に韓さんは感鏡北道の茂山(ムサン)警察署に勤務に就く。巡回、戸 々調査などの外勤を3ヵ月続けた。ここでも「大和魂を発揮した」と韓さんはいう。
   「署長さんが200名も300名も群衆を集めて講演するときには、私を呼んで必ず 通訳をさせました。それで日本語も一段と上手になり、署長は経済係に就けました。」  インタビューの間、何度も「大和魂」を口にした韓さんの理解する「大和魂」は「何 でも仕事を最後まで真面目にやり通すこと」である。その意味では韓さんにとって「大 和魂」は戦争と直接結びつくものではなく、実践哲学である。
 「当時も本当に日本人になったつもりで真面目に働きました。それで警察署長からも 表彰状をもらったし、国民精神総動員総裁が感鏡北道知事閣下でからも模範警察官とし て表彰状をもらいました。」経済係として日本語の公文書を起案するまでに日本語に堪 能となり、上司に連れていってもらう寿司屋で日本の味を楽しむ程に日本人になってい った。
 「警察官になってから創氏改名制度が出てきて、それから名前を変えたわけです。だ から、今でも日本に行くと昔の戦友たちに会えると、韓ということ知らんですよ。清原 ということしか。『おい、清原さん補償はいくらもらった。』いうようなこと言うんで すね。」と笑う。補償問題は後で触れるが、現在も韓さんは清原さんと呼ばれることに 何の違和感も持たないと言う。「近所の人に日本人のお爺さんがまだ生きていると言わ れる。」と言って苦笑いするのだ。

インパール作戦に
 経済犯罪を取り締まる内勤の巡査として働くうちにも、日本の戦争は拡大の一途をた どった。伸び切った戦線を維持するのは国家総動員体制をもってしても困難を極め、ア ジア各地で日本は苦戦を強いられていく。その頃ビルマの第11軍司令官牟田口中将は インドのインパールを占領し、英軍を主力とする連合軍の「援蒋ルート」を断つという 名目でのインパール作戦の準備を始める。朝鮮人であろうとも日本国民である以上、韓 さんも戦争から逃れることは出来なかった。まして既に「第一期特別志願兵」であった のだから。
 「昭和18年ですね、私は朝出勤すると私の机の上に赤紙が置かれてお りました。胸驚きました。」「当時は応召も全部軍事秘密に付されるておりましたもの で、慶源にいる家族にも通知が出来ませんでした。」
 慌ただしく出兵した韓さんは一度北九州に関釜連絡船で渡った後、途中米軍の潜水艦 に追い掛けられ船団はバラバラになり一隻は魚雷で沈められがながらもシンガポールに 上陸した。熱帯に慣れない兵隊たちは生水を飲み、部隊に多くの腸チフス患者を出して 1ヵ月遅れで陸路をビルマに入った後、インパール作戦の前哨基地に送り込まれること となる。 「トンボのごとく飛んでくるのは皆、英軍機とか、アメリカ軍機ばかりでし た。私も本当に飛行機(友軍機)が恋しかったです。」
 牟田口司令官が航空戦力に疎かったというだけでなく、このとき既に日本軍は飛ばす べき飛行機を十分に持っていなかった。「制空権はほとんど敵に握られて日本にはない 。これでは戦えない。とにかく鼠のごとくですわ。夜が明けたら敵機が飛んできて空襲 するので、日本軍は頭も出すことが出来なかった。だからジャングルの中で木陰で昼寝 するしかない。夜、日が暮れるとそろそろ出動し始めた、そういうような鼠作戦だった ですね。それでは戦争は出来ないですね。」しかし「牟田口中将が司令官でしたが、と にかく『前進、前進』の命令ばかり」という現実に一兵卒の韓さん従うしかなかった。 韓さんの配属されたのはビルマ方面軍直属の独立自動車部隊で、軍需 物資を前線まで運んだゆえに、インパール作戦参加の他の部隊同様に多くの犠牲を出し た。
 「前線に出るときには兵力を積んだり軍需品を積んだり、糧抹を積んだり、弾薬を積 んだりしましたけど、下がるときは負傷兵ばかり積んで下がりましたね。もう目玉をや られた兵隊、腕をやられた兵隊もおれば。とにかく現地で臨時の仮処置をしただけで、 後の処置はほとんどしてないですね。二日も三日もたったものですから、臭い匂いが患 部から出るし、ウジがわいて包帯の隙間からうようよしてるような状態だったですね。 」
 また無謀な作戦と言われたゆえんとなる補給の計画のなさは、その補給部隊そのもの ものにすら餓えを強いた。「バナナの木を切ってその軟らかい芯が出たのを野菜として 食べたり、それからヨモギみたにな草をむしって食べたり、お粥なら上等品だったんで す。」 結局参加した3師団ともに壊滅的な打撃を受けて敗退することとなるインパー ル作戦は「転進命令」を出して中止された。しかし兵隊の困難はそれで終わるわけでは なかった。 「とにかくもう道路の脇には死体だらけだったですね。だからあの当時の 名前といいますと”白骨街道”と日本軍は呼んでいましたね。その白骨街道を通ったの も私でした。その中で私の部隊も飛行機にやられたり、飢え死にしたり、犠牲になりま した。」

敗戦
 日本軍のインパール作戦は中止されたが、ビルマでの戦争が終わったわけではない。 そして戦争の続くかぎり兵隊は前線へ送り込まれる。韓さんはまた中国との国境に近い シャン高原での輸送任務に就かされる。
 「今に思うにも、何回死ぬかわからんような瀬戸際の、あんなひどい空襲の中の戦闘 を生き長らえたということは不思議に思えるくらいです。」
 しかしともかく韓さんはマラリアに罹った以外は戦傷することもなく、無事に生き延 びることが出来た。そして現地で1945年8月15日の日本軍の敗戦を迎える。
 「戦争が終わったのを二〇日間も知りませんでした。ジャングルの中にとじ込んでお りましたが、敵機が飛んできては宣伝ビラを落とすのでした。拾って見ると、日本は無 条件降伏したから戦争止めて、後方に下がって武装解除しろと。でも中隊長が怒って『 そういう宣伝ビラを拾ってくる兵隊は処分する。軍法会議に回す』と言ったものですか ら、皆恐がって、デマではないかとばかり思っていました。」
 部隊は武装解除後、英軍の捕虜としてビルマのモールメンのゴム林の中に収容され、 道路建設や英軍の兵舎建設に翌年まで駆り出された。韓さんの記憶では46年6月23 日、そこからシンガポールに移送される船中で、日本軍の大佐から「召集解除」される 。しかし、召集が解除されても韓さんは「日本国民」であることにかわりはなかった。  しかし連合軍は韓さんたち朝鮮人をシンガポールの”コリアン・キャンプ」に一時収 容し、南方戦線から帰還する朝鮮人軍属たちと一緒にして釜山港に移送した。
 「新聞見るわけでも、放送聴くわけでもなかったから。情勢は全然わからなかったわ けです。『朝鮮は独立して日本の手先から離れて独立して、38度線を境にして以北に はソ連が進駐して共産が入っていると。38度線以南はアメリカ軍が進駐して、今、独 立の準備中であるが、お前たちどうするか』ていうようなこと言われ、私は第一線から 生き長らえて生還したもんですから、とにかく家族が恋しくて恋しくてたまらなかった わけです。だから私は『どうしても家に帰ります』というようなことを言ったわけです 。」

帰れぬ故郷
 しかし韓さんたちは38度線を越えたとたんにソ連軍にスパイの容疑をかけらる。取 り調べは一週間にわたったが無論韓さんからは何も出てこない。所持品検査でも韓さん はほとんど何も持っていなかった。そのとき着ていた日本軍の軍服ですらコリアン・キ ャンプで、あまりのみすぼらしさに同情する朝鮮人軍属にもらったものであった。しか しソ連軍の取り調べが終わっても解放されず、北朝鮮当局の警察に引き渡され、またこ こで一ヵ月にも及ぶ同様な取り調べを受けることとなる。
 朝鮮は日本の植民地支配から脱したとはいえ、南北の分断が固定化される方向に向か うとき、日本軍の軍服着た韓さんたちを暖かく迎える状況にはなかった。
 「家はこの(琿春市)対岸の慶源というところですが、私の家の方へ足を運んで戸を 叩いたら出てきたのは顔の知らない人でだったですね。『何じゃ』と言った。いや、こ の家の主人はおりませんかと聞いたら、『この家の主人は親日分子の家族だとして追放 されて、今はどこへ行ったかわからん』というようなことを言いよったんですね。」し かたなく近くの親戚の家を韓さんは訪ねた。「親戚の人もびっくりして『お前戦争に行 って、戦死したとばかり思っていたがのが帰ってきたか』と喜んでくれました。」しか し一方「親日分子の家族だということで財産は一切残らず筆一本、箸一本くれず没収し て、お前の家族は全部追放処分で追い出されてしまってどこへ行ったかわからんと言う し、召集前に結婚しました妻もショックでその場で死んでしまった」とその親戚は言う 。「お前もここに居るのは危ないから、とにかく逃れろというような耳打ちしてくれる もんですから、安住の地にはなりません。」
      現在でも中国との国境となっている豆満江は冬は凍結して歩いて渡ることが出来る。 夏でも河幅はさしてなく泳ぎが達者なら渡ることはたやすい。また渡った先の中国側に も大勢の朝鮮人(朝鮮族)が住んでいた。韓さんは故郷を捨てて中国への逃避行を決意 する。 「豆満江のほとりに着いて星の光にキラキラと水が流れるのを見付けたけれど も、その豆満江に飛び入る勇気がなかなか出ないんです。どこでボンと銃を撃ってくる かわからんです。ソ連兵が全部潜んで警戒していますしね。それに北朝鮮の警備兵がい るし」しかし「ときは刈り入れ時分ですから夜が明けると農民が畑に出てくる。農民に 捕まると警備隊に連れていかれて殺されるんですね。だからもうどうにでもなれと思っ て軍隊でならった匍匐前進で川のほとりの砂浜を進んで歩いた。何一つ、虫一匹動くこ ともないですね。それで豆満江に入ったらだんだん深くなって、着のみ着のまま入った 泳いだですね。」

戦後の苦難
 越境に成功し「自首」した韓さんを中国の八路軍=共産党軍は「正直者」として受け入れ中国の「国籍」を与え、生活するための土地まで提供した。しかし韓さんが日本の警察官や兵隊であった過去は「親日分子」の「出身成分」としては後々まで苦しめた。
 「当時、終戦直後で土地改革運動をやっていたんですね。地主、官僚主義の元満州国当時に手先として働いた者、官公吏ですね。全部捕まえまして政治闘争しおったんです ね。何百名の群衆集めて、『お前自首して白状しろ、白状しろ』と叩くんです。法律も何もありません。ただにこいつはこういう悪いことしたと工作隊が発表すると、群衆が そいつは叩き殺せとうような気勢を上げると、本当に叩き殺した。白状しろと言っても、わしは人殺しをしたわけでもないし人の物を盗んだこともないし、ただ日本の兵隊と して真面目に戦った。それが大きな罪ですね。そういうことしかしゃべれなかった。」
 人民公社時代になっても17年の間、冬になると同じ社員の家庭用燃料を確保するた めに近くの炭坑に入っての苛酷なノルマが課せられた採掘や零下20度にもなる地で凍結した糞尿の処理も「成分の悪い」韓さんに回された。「大和魂を発揮して頑張りまし たね。」と言う一方で、「筆舌に尽くせぬ苦労」とも韓さんは繰り返した。
 「それで文化大革命のときに、また二ヵ月牢屋に入れられて、昼は紅小兵(子供)が 石ころ投げるんです。そいで壁には『悪者の家』と書いてある。私の背中には『親日分子』とか『日本の手先』とかいうような悪いこと布に書いて針で縫い付けて、その服を 外に出るときはいつも着て出るように言われですね。そして私の子供たちも私の牢屋にいつも飯を運んでくれたですね。その時も『この悪者の子分め』と蹴飛ばされたり石こ ろを投げられたりしていじめられて。学校でも私の子供はいくら成績がよくても抜擢してくれない。義務教育の初級中学校はいいけれども高級中学校には上げてくれない。大 学にはもちろん入れてくれない。本当に子供たちまで被害を受けました。だから子供たちも言うには「どうしてお父さんはあんな悪いことしましたか」と。今になっても本当 に胸の痛い思いをしますし、子供たちに対して本当に申し訳ないと言います。」

中日友好、平和のために
 「34年に渡る、筆舌に尽くせぬ苦労」も、80年代に入り改革開放政策でやっとゆるみ、一般市民として認められた。その頃、琿春市に取り残されていた日本人残留孤児 が韓さんのところに相談にくるようになる。日本語を解さない日本人の孤児に援助の手を差し伸べたのが、日本人であることを拒否される朝鮮人だというのは歴史の皮肉だった。
 「戦争当時開拓農民として残された日本人がおりましたが、引き上げるときにどうもこうもないから中国人に拾われて育てられた孤児が50歳前後になっております。私は ひじょうに気の毒だと思って日本人と手紙のやりとりを私が世話をしてやったり。いろいろ日本人のためにも働いて、岐阜県の朝日村の村長さんからも感謝状をもらったこと もあります。『日本人のために貴方は精力出して、日中友好のために働いて感謝に堪えない』というような感謝状もらってます。」
 六月だというのにオンドルを焚く居間で嬉しそうに話す韓さんの傍らで奥さんは、夫婦して日本旅行に招待された折りの写真を懐かしげにめくっている。
 それでもインタビューの間中、韓さんは思い出したように繰り返した。「日本政府としては「罪は被りなさい。補償は致しません」というような姿勢をとってこれでいいで しょうか。過去の朝鮮や中国に侵略した、過去の侵略戦争があったことはひじょうに遺憾なことであったというようなこと言ってですね、これからは平和友好を保つというよ うなことを叫ぶ日本ですが、過去の過ちを是正せずして、戦後が終わったとか、平和を叫ぶとか、再び侵略戦争を起こさないとかいって、だれが信じることが出来るでしょう か。」
 警察官の給与もビルマでの生死をかけた兵役時代の俸給もすべて預けた軍事郵便貯金が、自分の預かりしらない国籍を理由に払い戻されない不条理に怒りがこ みあげるのだ。

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