パレスチナで聞いた三つの話

『世界から』1991年春号に掲載

聖地?エルサレムで
 城壁に囲まれたエルサレム旧市街の安宿は地階が飲み屋になっていた。のんべいの私 には好都合というより、やはり毒だったのだが、安旅行者の身分ではめったにお目にか かれないアラブの酒場だと、言い訳を考えたりしながら結局は足が向いてしまう。輸入 物しかないウイスキーは高くて手が出ない。そこで安くて旨くて強いアラブの酒アラク を、ボリュウムいっぱいにした艶っぽいアラブ音楽の充満する地下室で髭もじゃのお兄 さん達と酌み交わすこととなる。
 安いといっても我々金満国家日本から来たから言えるのかもしれない、と言うのも宿 代金が500円の所で、酒代が一杯250円はやはり安いとは言えない気もするからだ 。さてその酒場はアラブ人達が夜な夜な何やら大声で議論してたり、テープに合わせて 歌っていたりするわけだが、そこにときどき、パトロール途中の「国境警備警察」の兵 隊達が武装のままでどかどかと入ってきたりして、驚いたりするのだが、ビールを一杯 呑みながら、他の客と冗談を言っては、まあ平穏に出ていく。我が宿の管理人兼、酒場 のマスター氏は「彼らはドルーズさ」と安心しろとでも言いたげに耳打ちする。ドルー ズというのはパレスチナ、シリア、レバノンの山岳地帯に宗教共同体を、守りながら暮 してきた人々だが、イスラエルに組み込まれたドルーズはイスラエルに忠誠を誓ってい るという。それでもパレスチナ人のマスターはユダヤ人よりましと感じているのかもし れない。普段は人の善い彼も、彼の相棒も政治の話はしないが占領地での闘いや、これ への弾圧が新聞に載るとユダヤ人を罵っていた。
 ある夜、私の隣で酔っ払った男は、酒が入るにしたがってぼそぼそと話始めた。「私 は知らないんだ、知らないんだと言ったのです。手錠をはめられ、目隠しをされて、指 の骨をおられましたが、しかし私は、何も知らないんだと言ったのです。そうです、ア ンサール3でです(「政治犯」専用監獄)。私は人民を愛しているから。人民は一つな のです。たとえ何処のグループに属しなくとも、我が人民を愛しているのです。」彼の 手首は手錠瘤が残り、右手の人差し指はねじれていた。

占領下ガザ地区で
 ジャーナリストを案内したと言うだけで逮捕理由になると言うので、ともかく一人で 歩いてみようと、ガザ市の乗り合いタクシーに乗り込むとさっそく同乗の青年が「とも かくついてこい」と案内を買って出てくれる。といっても彼自身は英語が出来ないから とキャンプ内の万屋につれていく。インティファーダで午後二時に店を閉める直前に入 ると、店番をしていた青年は、ちょと待っててくれといいながら鉄の扉を閉めた。まる で準備していたかのように「何から話しましょう」と流暢な英語で聞いてきた。話が本 題に入ろうとすると、誰か扉を叩く音、まずいかなと思っていると、可愛らしい子供が 小銭を握り締めながら何か注文していいる。ストだからと追い返すわけでもなく、品を 揃えて渡している。愛想もないが、田舎の兄ちゃんといった青年が訴える「インティフ ァーダが始まる前に二十年間の占領があったのです。占領下にあることがどう言うこと かわかりますか。監獄にいるのと変らないのです。占領軍の兵士は罵詈雑言を吐き、人 々を殴り、あるいは銃で撃ち、家を破壊してきたのです。シャロンの「鉄拳政策」は占 領下のパレスチナ人の社会や生活そのものを破壊しようとしたのです。イスラエルは平 和を口にします。イスラエルの子供たちが庭で遊んでいる一方で、パレスチナの子供を 母親を祖父を、殴り、撃ちながらです。どうして信じられますか。PLOは認めない、 パレスチナ独立は認めない。占領地からの撤退しないと言う「平和」を口にするだけで す。新しい監獄を開き、毎日大勢のパレスチナ人を殺し、土地から追い出して何処が平 和ですか。パレスチナ国家が樹立されるまで蜂起は終わりませんよ、あるいは最後の子 供がいなくなるまでね。」
 話を終えて外に出てみるとまばゆいばかりの地中海の青い空。それを横切る電線には イスラエル軍の撃った催涙ガス弾と共にパレスチナの小旗が潮風にはためいていた。

レバノンのキャンプで
 パレスチナ訪問から一月ごレバノンとイスラエルの「国境」を今度は北から望む位置 にあるレバノン最南端のキャンプ・ラシャディエに私はいた。キャンプの外には耕地が 広がり、のどかな田舎そのものといった風情の景色の中に人々が夕涼みをしていた。 「1948年以前はアッカでもハイファでもティベリアでも多くのユダヤ人の友がいた よ。ユダヤ人と結婚していた者もいたしね。私たちはそのユダヤ人と共に暮したいのだ よ。もちろんシオニズムは認められないがね。
 インティファーダ?西岸とガザだけで闘われているのではないよ。全てのパレスチナ 人がインティファーダを行なっているのだ。36年以来ずっと続けてきたのさ。政治的 、経済的な山や谷もあったがね。
 我々は全パレスチナの解放を望んでいるのだ。PLOを私が支持するのも彼らがまだ 闘い続けいるからだよ。闘い続ける限り支持するよ。」再建の鎚音が響く中、老人は極 自然に語った。

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