撫順戦犯管理所と平頂山

『社会新報』に掲載

 「前事不忘 後事之師」

 1931年9月18日、関東軍は「奉天」(現瀋陽)郊外の柳条湖近くで満鉄を爆破し、これを中国側による者とする謀略によって、「満州事変」を開始した。それからちょうど69年目の今年、9月18日、同地に建つ「”九・一八”歴史博物館」前の広場には、あの日の屈辱を忘れまいと人々が集まってきた。そしてよる一〇時、町中で人々はその決意を新たにするように車のクラクションを一斉にならしていた。
 日本人が侵略の歴史を一方的に忘れようとも、ここには忘れようとして忘れられない人々が今もいる。「奪いつくし、殺しつくし、焼きつくし」された人々は、今も侵略戦争の責任者たる日本政府からの誠意ある謝罪すら受けていないからだ。97年に「博物館」を訪れた当時の橋本首相は「私たちは歴史を忘れてはならない。歴史から学ぶことは出来ても、歴史を変えることは出来ない」と言ったという。しかし、現在の日本の状況を見て中国の人々がはたしてその言葉を信じるだろうか。しかもそこにもやはり謝罪の言葉はなかった。中国の「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)とのことわざに倣ったのろうが、次はもっとうまく侵略するぞという意味で「学ぼう」とでも言うのだろうか。このわずか2週間前に、首都では「北朝鮮や中国に見せつける」と音頭をとる知事による「軍事演習」ばりの自衛隊により示威行動を行うよう日本なのだから。

   戦争責任、戦後責任

 その5日前の9月13日から、日本軍が中国各地に捨ててきた化学兵器の回収の試みが黒竜江省・北安市で始まった。『悪魔の飽食』で知られた731部隊等が開発し、実戦にも使用した生物、化学兵器を、敗戦時に日本軍は秘密裏に遺棄してきた。日本政府も毒ガスが国際法違反である事を知っていたゆえに、戦後も日本は、その存在すら否認し続けてきたてきたのだ。しかし97年に発行した化学兵器禁止条約の発行によって2007年までに日本の責任によって無害化し廃棄処分しなければならなくなった。その数は日本政府の推定でも約67万発を下らず、処理費用は1兆円とも言われる。今回の処理費用だけでも10億円。それでたった500発が回収できるかどうかという。回収であって処理ではない。処理技術は、めどすらついていないのだ。日本人が忘れようとすればしっぺ返しを食うことの典型的なケースである。いや、その日本軍遺棄毒ガスによって今も中国の人々に新たな犠牲者が出ていることも忘れてはならない。
 しかし日本人の中にも「前事不忘」を志す人々がいる。例えば先の遺棄毒ガスの被害者や強制連行被害者、あるいは元「従軍慰安婦」たちの日本政府への賠償請求訴訟の支援を続ける「中国人戦争被害者の要求を支える会」(以下、支える会)の人々もその一人だ。
 その「支える会」の紹介で「平頂山事件」の生き残りで、日本政府を相手取って裁判の原告でもある莫徳勝さんや楊宝山さんにお会いした。

   住民虐殺事件の地

 1932年9月16日、関東軍独立守備隊第二大隊の一個中隊が、撫順炭鉱に隣接する平頂山村をトラック数台で急襲し、包囲。約400世帯の約3000人の村人を皆殺しにした。かろうじて虐殺を逃れた者は数十名と言われる。その生き残りの一人楊宝山さんは当時10歳。炭鉱で働く父と、母親、そして弟の4人家族だった。「日本の兵隊が来て、写真をとるから」と、崖下 に住民は集められたという。現在、その崖下には1970年頃中国政府が建てた遺骨館が建っている。事件の翌日に日本兵がガソリンを掛けて焼き払い、ダイナマイトで崖を崩して証拠隠滅を謀った遺体を掘り起こし、その上に建てたものだ。
 「その日」からちょうど68年が過ぎた。今では子どもたちも独立し孫までいる楊さんは「もう最近は涙が出ることもなくなりましたが」というが、当時のことは鮮明に脳裏に焼き付いている。「写真機だと思っていたものは、日本兵がその黒い覆いを取ると機関銃でした。」そして突然の一斉射撃。最初の一撃では楊さんの一家は無事だった。しかし伏せいた一家にも第二射撃が。それでも楊さんも、庇って抱えてくれた母親も奇跡的に助かった。しかし時間をおいて襲ってきた機関銃の掃射は死んだ振りをし て生き延びた人々を逃しはしなかった。楊さんも脇腹に銃弾を受けたが幸運にも一命を取り留めた。その銃弾が体から出てきたのはずっと後年だったと楊さんは今も残る傷跡を見せてくれた。家を辞すとき楊さんが日本語で「さよなら」と言い、微笑んだのは、たとえ日本政府は責任を曖昧にし続けようとも、日本政府相手の裁判闘争を支える弁護士や支援の人々との間に築いた信頼関係の上に日本人を見ているからだろう。

   戦犯管理所を再訪する元「戦犯」

 9月16日、その楊さんや莫さんが暮らす撫順市を日本人元「戦犯」が再訪した。自らの戦争犯罪、加害の実体を証言することで戦争反対を訴え、また「日本鬼子から人間生まれ変わらせてくれた」中国との友好を進めてきた「中国帰還者連絡会」(以下「中帰連」)の会員20名の一人として「撫順戦犯管理所開設50周年記念大会」に招待されたのだ。
 「おい、撫順城駅に着いて、戦犯管理所に移送されたときのこと覚えてるか。」と山岡さんは渡部さんに問いかけた。「ずらっと人民解放軍が道路脇に並んで。そのときはこっちはまだ軍国主義やったから、ああ中国の兵隊がワシらを怖がっていると。そしたら違うやん。その頃はまだ中国の一般大衆がすごく怒っていて、石の一つも投げてやろうと思っていた。だからワシらを護衛してたんや。」しかし、渡部さんにとって撫順は1956年に不起訴処分となって釈放、帰国以来44年ぶり。バスの車窓から見る市内の変わり様に戸惑うばかりだ。バスが現在は陳列館となっている元管理所に着いても一瞬「エ、ここが?」と一瞬わからなかった。
 しかしその直後、突然流れ出した涙。ここは渡部さんにとっても侵略戦争に参加した自分の罪に重さに気づき、「死ぬんだと自分では決定し」たにもかかわらず、自分の罪を許し「毛主席や周恩来首相が私たちの命を救って下さった」、その再生の地である。「ここでの6年間で、真理というものが人間性であるという事を知りました。」というのだ。
また元731部隊の隊員だった篠塚さんも「人間性を取り戻せたのも、ここで勉強の機会を与えられたからですね。それまでは人を殺すのが仕事でしたから。善悪の自覚もなかったわけですから。」と当時を振り返り、自分の言葉を噛みしめる。
 1950年、ソ連から移管されてきた969名の元「戦犯」たちは、中国側の人道的な取り扱いと、寛大さによって、誰もが初めて自分の犯した罪の大きさを自覚する。それでも自分の犯罪行為を公にする「認罪」は大変な試練だったという。しかし管理所の職員も日本兵によって殺された親族がいるのだ。それでも「戦犯」の食事の方が職員よりもいいという待遇に、あまりの悔しさで自分の体を叩く者、あるいは「この政策は間違っている」と反抗する者も初めはいたという。元所長だった金源さんも「今だから言えるが、初めは納得出来なかった」と言う。それでも周恩来首相の「20年後にわかる」と、「一人の死者も出すな。戦犯といえども人間として接しろ」との指導は、「戦犯」の「認罪」を助ける「恩人」にまで高め揚げた。そして両者の関係を敵対から、今日の日の「友人」になったのである。
 「贖罪の道を歩むのが任務と考えていますし、戦争というものを激しく憎み、これとの闘いを今後とも続けていきます。」渡部さんの強く自分を責めるような物言いに、思わず中国の若い女性記者は「軍国主義のせいで先生の責任ではありません。」と慰めるように言った。しかし元将校は即座に遮った。「それは違います。私がやったんです。私がやらなければ中国の人は死ななかったんです。それはいくら年月がたっても。自分は実行者です。その責任があるんです。」その激しさはその記者を帯びさせるほどのだ。
 「これは謝って済む問題ではないんですね。」冷静に中国人記者に答えていた元下士官の鈴木さんも「25歳くらいの母親と赤ん坊をその家と一緒に焼き殺してしまったんです。いくら大隊長の命令だからと言って、責任転嫁はできないんです。私が実行者だからです。」話すと流れでる涙を止めることができず、「申し訳ない」と言うなり絶句してしまった。
 しかし、この言葉にならない謝罪の「言葉」の中にこそ、真実があるのだろう。だからこそ元「戦犯」のその犯罪の犠牲者でもある管理所職員とは信頼を結ぶことが出来たのである。「認罪」、侵略戦争の責任を問い続けようとすることこそ「前事不忘 後事之師」(前の経験を忘れず、後の教訓とする)ではないのか。
 約1000人いた会員もその半数以上が他界し、76歳が一番若い会員という中帰連について事務局長の高橋鉄郎さんは「私たちの活動はあと数年続けられるかどうか。」と言う。元「戦犯」のみが正会員であるから正確には後継者とは言わないのだろうが、その志しは引き継がねばなるまい。いやそれはつぎの世代の「戦後責任」というだけではない、国境を越えて友情を育む可能性すらあることをあらためて実感した。

写真

HOME