ブータンの民主化と難民問題

『週刊金曜日』に掲載

ブータン王国内には現在インド、バングラディシュ、スイス、そしてモルジブの4ヶ 国しか大使館が置かれていない。よって、国内の情報はほとんど外に漏れてこない。た とえば人口にしても国際的に言われている60万人とブータン政府のいう140万と倍 以上の開きがあるのが現状だ。だが、一〇数万の人々がブータンを離れざるを得なかっ たこと。そして彼らが今も難民暮しを強いられている現実があることは確かだ。でも残 念なことに国際社会の的関心は低く解決には程遠い。

難民流出の背景
 ブータンで何がいったい起こっているのだろうか。85年の国籍法の改正、88年の国勢 調査、89年には市民権証明書の提出義務と、提出出来ない者の出国勧告が出された。そ して民主化を求める大衆デモが発生すると軍による発砲を含む大弾圧が始まった。その 結果「毎日三〇〇人から五〇〇人」(アムネスティー報告)という大量の難民が流れ出 た。一般的には国王の出身民族のドルクバ民族の少数派転落への危機感がベースにある と説明されてきている。だが民主化運動を弾圧する中でネパール系ブータン人へ迫害が 発生していることも見逃せない。たとえばアムネスティーの釈放要求リストの筆頭ある 政治家テク・ナット・リザル氏の場合。同氏は10名から成る国王の諮問委員会のメン バーであり有力な国会議員であった。同時に援助問題の政府の公式の調査委員会の委員 長でもあった同氏は、ブータン王国の国庫に入るべき日本のODAを含めた海外から援 助が国王一家や有力政治家の懐に入っていることを問題にしてきたが逆に「国家反逆罪 」で逮捕されてしまった。その後同氏は一時釈放されるが終始監視される状況下で政治 活動が出来ないため、ネパールに亡命。ところがそこから今度は誘拐されてブータンに 連れ戻されて現在刑務所に囚われている。協力者たちも次々と逮捕されるに及んだ。こ うした状況下で90年ブータン南部で民主化を求める大衆デモが組織化された。ところ が政府の弾圧は民主化運動に対してだけでなく南部に暮らすネパール系住民の国外追放 へと弾圧をエスカレートさせた。こうした状況下、亡命先のネパールで「クルドバ国民 会議」党を結成して民主化に取り組むクルドバ民族の政治家もいる。難民問題が民族問 題ではないと言われる所以である。

整然と並ぶブータン難民小屋
 ネパールの首都カトマンドゥから遠く離れたインドとの国境に接する辺りに8つのブ ータン難民キャンプが散在する。一〇万人近く(その他数万人のブータン難民がインド 国内いる)を収容するためUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)がネパール内に設 置したものだ。そのうち4つを駆け足で回った。亜熱帯のジャングルを切り開いて設営 されたキャンプ地に整然と竹製の難民小屋の群れが並ぶ。給水施設や下水もしっかりし 、路地にはチリ一つない清潔さだ。しかしその一方で「活気」は感じられなかった。難 民たちは祖国では北海道とほぼ同面積の国土に60万人しか暮らしていなかったから、こ この過剰な人口はそれだけでストレスの原因となる。さらに難民となる前に受けた心の 傷が尾を引いているのだと、案内の人権活動家は説明する。私が会った“老人”は人民 選出の国会議員(国王任命の議員もいる)を18年間務めたが、その後拷問よる障害で 言語障害に陥っていた。そして海外の援助団体による女性の識字学級では、夫を殺され たり家族をなくしたり、さらにブータンの兵隊や警官に強姦されたりした人々がお互い に支え会ってこころの傷を癒していた。

日本のブータン援助は果たして……
 ところでブータンに対するインドに次ぐ援助国であるわが国の外務省は昨年の『わが 国の政府開発援助=ODA白書』で、ブータンについて「現国王は前国王が布いた近代 化、民主化路線を推進する一方、国家開発計画に意欲的に取り組み国民一般の信望は厚 く政情は安定してる」と述べている。そしてこうした理解の上に毎年数億円の無償援助 を実施している。だが難民たちはこうした援助が難民を生み出す構造を支えるだけでな く、政府高官の懐に消えたり、特権階級を潤すことはあっても国民末端にはけっしてと どかないと批判している。ビルマの軍事政権や東チモールの占領を続けるインドネシア に対する日本の援助問題がここにもあると難民は言う。

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