二風谷ダムの底のチプサンケ

『社会新報』1996年8月に掲載

絶えていたアイヌ民族のチプサンケ(舟下ろしの儀式)を復活させて二十七回目。今 年も二風谷で「例年どおり」行なうという。この機会にアイヌ民族の暮らしも拝見した いと、八月二十日のチプサンケを挟んで約一週間、日高支庁沙流郡平取町の二風谷に滞 在させて頂いた。初めて訪れた私を暖かく迎えてくれた人々との出会いの中で感じたこ とをレポートする。

 今年の北海道の気象は”異常”だという。梅雨のないはずの六月から雨が降り続き、 夏らしい夏のないままに秋の気配が訪れていた。それでも私が訪れたお盆明けの数日は 青空を拝むこともでき、なんとか稲穂にも実が入りそうだと二風谷の人々も一息ついて いた。 さてここ一〇年来、よくその名を耳にする二風谷は苫小牧から歌で知られた襟 裳岬に至る海岸線に注ぐ沙流川(サル)を河口から二〇キロほど入った中流域の小さな 集落である。人口の七割強をアイヌ民族が占める。北海道でも有数のアイヌコタン地区 だ。
 国道237号線は夏休みの行楽シーズン中とあってか、キャンプ用品を満載したRV 車や大型バイクがひっきりなしに通り過ぎていた。しかしそれもチプサンケが過ぎる頃 は急に減ってしまう。集落の中心に店を構える木彫やアイヌ模様の刺し子製品等を並べ る民芸品店に立ち寄る観光客もまばらになってしまった。
 緑色の屋根の二風谷ダムと銀色に反射するその管理棟、そしてダムの付随事業で建設 された平取町立二風谷アイヌ文化博物館のガラス張りとコンクリート剥出しの壁は”現 代的”なだけにかえって周囲の淋しさを浮きたたせいた。
 札幌から帯広を経て道東地域へ抜ける新しく国道274号線が開通してから、二風谷 を通過する観光客ががたっと減ってしまったという。ガランとした土産物屋や食堂の前 の駐車場がやけに広く感じ、寒村の趣が漂っていた。
 「札幌辺りに卸している人もいるようですが、”馬”の彫り物以外は手間賃が出ませ んからね。冬は彫るのを休んで日当の仕事に出てる人もいますよ。」とチセ(アイヌ式 の家)で工芸品を売っている青年が教えてくれた。外にはまた冷たい雨が降りだした。
 この二風谷で農業を営む家は片手で数えられる程しかいない。そのほとんどは牧場と 稲作で、野菜はわずかだ。二風谷だけの統計がないので平取町全体で概観してみると牛 は飼育頭数、生産高共に順調に伸びているが、馬も飼育頭数は伸びているのだが、やは りギャンブル性は否めないのか生産所得は横這いだ。米は稲の作付け面積は増えている のに生産所得は上がっていない。作付け面積は減らしても集約的な栽培が出来る野菜だ けがぐんと生産所得を伸ばしている。「ニシパの恋人」と銘打った平取トマトやメロン 、びらとり長芋など工夫を重ねた結果だろう。それでも農家一戸当りの農業所得は三〇 〇万円そこそこ。一人当りでは二〇〇万円に満たないのが現状だ。私が泊めて頂いた宿 の主人も父親の代に離農したいう。専業農家数が横這いなのに一種、二種共に兼業農家 が減り続けているのは一定のまとまった土地が確保出来なければ農業をやっていけない ということだろう。
 それだけが原因というわけではないだろうが平取町は人口流出が今も止まらない過疎 地帯だ。一九六〇年一万三〇〇〇人弱いた町の人口はこの二五年に半減してしまった。  第三次産業従事者が微増している中で第一次産業、第二次産業従事者だけが激減して いる産業構造を重ね合わせるとき、この平取町の”普通”の過疎の実態が浮かび上がっ くる。地元には仕事がないのだ。
 こうした状況のなか十数年前、地域振興という名の「沙流川総合開発計画」が決まり 、その一貫として二風谷ダムの建設が始まった。そして今年四月からはいよいよ貯水が 開始されていた。その結果ダムの湖底にアイヌ民族の「聖地」も沈められることとなっ てしまったのだが。
 「現代のアイヌは日本人と同じように普通の生活をしています。」とアイヌ民族の社民党参議院議員、萱野茂さん(最近『萱野茂のアイヌ語辞典』<三 省堂、一万円>を上梓したばかり)がいうように過疎化の中で、ここに二風谷に暮らす アイヌの人々も「開発か聖地か」を迫られてきたことを物語っている。
しかし八月初め、その二風谷でチプサンケ(舟下ろしの儀式)が例年どおり行なわれるという話が新 聞に掲載された。萱野茂さんの申し入れに対して、北海道開発局は二十日の開催日に向 けてダムの水を抜くという”異例”の措置をとるという。
 十七日、初めて訪れた二風谷ではすでにダムの水抜きが行なわれていた。アイヌ語名 でシシリムカ(辺りを詰まらせる川)=沙流川(砂が流れる川)の名のとおり水の中か ら浮かび上がった河原は、この四ヵ月に溜まった泥に埋もれていた。かつて鮭の上った という川の畔には腐臭すら漂う。ダムはサクラマスを保護する目的で「二風谷式」を名 付ける新方式の魚道が設置されている。だが果たしてこの臭い漂う川を魚は上るのだろ うかと思わせる光景だ。
 十八日、朝から開発局は重機を河原に入れて溜まった泥の除去作業に入った。その向 こうには、かつてのアイヌの人々が耕した田畑から水没前に砂利を掘り出した跡が溜め 池のように濁り水を湛えていた。作業を進める建設業の人と話をしていると私の郷里の 静岡の大井川の上流まで仕事で行っていたという。そこまで行かなければ仕事が取れな い時代になっているのだろうか。もっとも私自身も郷里に仕事がなく東京に出、その結 果沙流川を遡ってきているのだが。
 十九日、水位はほぼ貯水前に戻り、川に流れが見えてきた。チプサンケの祈り儀式を 執り行う所まで丸木舟を四キロ上流から流すため、水の流れが必要だった。それでも儀 式会場は泥にぬかるみ、さらに砂利を入れる必要があったのだが。
 二十日、チプサンケ当日は朝から晴れ上がり、観光客を含めてこれを祝う人々を喜ば せた。「萱野茂二風谷アイヌ資料館」前の縁結びの石で、トゥキパスイ(捧酒箸)でア イヌの神に酒を捧げることから一連の儀式は始まった。その後会場をポロチセに移しチ プサンケの無事を祈ってカムイノミの神事が執り行なわれ、続いていよいよチプ=丸木 舟を上流に運び、湖底から「再生」した「聖地」まで沙流川の流れに任せて下らせた。  本来チプサンケは舟を新造した際に行なわれるという。だが現金収入が要求される現 代、もう沙流川に浮かべて漁をする舟は造られない。いや以前から鮭漁そのものが禁止 されてきた。よって「アイヌ資料館」と「アイヌ文化博物館」に展示保存されている舟 が使われた。「アイヌ語教室」等で、外国語を習うようにして自らの「母語」を学ばね ばならぬ状況に追い込まれてきたアイヌの人々にとって、チプサンケも恒例の行事化し 、民族の証として継承する中でアイヌ民族としての誇りを醸成してきたのではないだろ うか。
 「追い込まれてきた」と書いたのは、今だ「北海道旧土人保護法」などの差別的な法 律によって制度的にも自立が阻まれてきた歴史があるからだ。
 去る四月「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」の報告書が内閣官房長官に提 出され「アイヌ新法」の制定が現実的な課題となってきた。この報告そのものは萱野茂 さん他多くのアイヌ民族の人々が指摘するように充分というには程遠い。だがチプサン ケに現われるアイヌ「民族として独自性」を否定することは出来なかったし、「旧土人 保護法」の廃止を提言しなければならなかったが、「アイヌ新法」制定に向けた課題は まだまだ残る。しかし後戻り出来ない所にきていることは事実だ。よりよき「アイヌ新 法」の一日も早い制定が望まれる。
 ともかく今年もチプサンケは無事終了し「聖地」は再び二風谷ダムの底沈んだ。また 降りだした雨の中、泥を流しながら湖を広げるシシリムカを眺めながら「開発か聖地か 」の択一しかなかったのか、ないのかと気分は重かった。

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