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■ミステリの歴史■


7.1880年代の探偵小説

(1)日本――黒岩涙香の翻案探偵小説


 ガボリオーが生み出した長篇探偵小説は、本国のみならず、1860年代末からはロシアで、1870年代にはアメリカで、1880年代初めにはイギリスでブームをよんだ。その人気にあやかるかのように、あるいは揶揄するかのように、ロシアではチェーホフが「安全マッチ」『狩場の悲劇』を書き、アメリカではピンカートン探偵物語やダイム・ノヴェルの探偵物語が、またアンナ・カサリン・グリーンの『リーヴェンワース事件』などが発表された。イギリスではガボリオーを真似たファーガス・ヒュームの『二輪馬車の秘密』が空前のベストセラーとなり、探偵小説の人気を、あるいは潜在的な人気をうかがわせた。さらに1887年の暮れには、ついにシャーロック・ホームズが登場した。

 シャーロック・ホームズがはじめてその姿を現した翌月、すなわち1888年1月から、日本の新聞にある翻訳小説の連載がはじまった。訳者は黒岩涙香。この連載のきっかけは次のようなものであったらしい。

(黒岩涙香は)若い時分貧乏で、語学の勉強に輸入された廉価本をむやみに読んだ。「シーサイド・ライブラリー」や「ラヴェル・ライブラリー」などを渉猟して、面白いと思ったものを、知人の戯作者彩霞園柳香(雑賀氏)に聞かせた。原作は分からないが、双生児の兄弟が善人と悪人になって活躍する話で、「二葉草」と題し、「今日新聞」に載った。これが(明治)十八、九年のことだが、柳香の書いたものは当時の戯作の型にはまった書き方で、涙香の意に反した。  そこで自分自身で筆を執ることにしたのが「法庭の美人」である。(中島河太郎「推理小説通史」)

 1888年1月から今日新聞に連載がはじまった『法庭の美人』の原作は、ヒュー・コンウェイの『暗い日々』Dark Days 。日本での探偵小説の翻訳紹介は、ここから本格的にはじまることになった。黒岩涙香、このとき25歳である。

 ヒュー・コンウェイ Hugh Conway(1840-1885)(あちらのウィキペディアでは、1847年生れとなっている)は英国の作家で、 Dark Days は1884年に本名の F(rederick) J(ohn) Fargus で出版された後、1885年にヒュー・コンウェイ名義で出ている。つまり、ほぼリアルタイムで翻訳紹介された作品なのである。涙香の翻訳は厳密な翻訳ではなく、「原著を咀嚼して自由訳を施した」いわゆる翻案小説であった。涙香自身が同書の前文でこう語っている。

余は一たび読みて胸中に記憶する処に従い、自由に筆を執り自由に文字を駢べたなればなり、稿を起してより之を終わるまで一たびも原書を窺わざればなり、(中略)不当と云わば云え、僭越と譏(そし)らば譏れ、余は翻訳者を以て自任する者にあらざるなり(中島河太郎「推理小説通史」より孫引き)

 「推理小説通史」や伊藤秀雄の『明治の探偵小説』(1986)に載っている『法庭の美人』の粗筋を読むと、既婚女性との恋愛、重婚、発狂、無実の容疑者の裁判などでプロットが構成されているようだから、センセーション小説の流れにある作品とみていいようである。

 この作品が歓迎されたため、涙香は引き続き同種の読物の翻訳紹介を行なった。これが明治20年代(1887-96)の探偵小説ブームとなる。

 それ以前の明治10年代(1877-86)には毒婦・白波物が大衆の人気を得ていた。これは江戸期から続く戯作調のもので、教訓的な犯罪実話が多数を占めていたようである。また明治20年(1887)には、翻訳小説の中に、例えば次のような探偵小説も含まれるようになった。

 このような下地があったところに、涙香の翻案探偵小説が登場し、以下のような実に精力的な活動を開始したのである。(すべて新聞連載年)

 涙香はガボリオやデュ・ボアゴベの翻訳をフランス語からではなく、英語と通して行なっている。利用したのはアメリカの廉価版叢書《シーサイド・ライブラリー》が多かったようだ。ちょうどこの時期に、アメリカでのフランス製探偵小説の輸入は、ガボリオーからデュ・ボアゴベに移行している。

デュ・ボアゴベーの小説が、アメリカでさかんに翻訳出版されたのは1880年代から90年代にかけてであり、ニューヨークのマンロー社の《シーサイド・ライブラリー》版が多かった。つまり、日本で黒岩涙香がアメリカから小説本を取り寄せていた状況と、見事なまでに合致するのである。(長谷部史親「続・欧米推理小説翻訳史」)

 黒岩涙香の翻案探偵小説が大衆に受けたのは、もちろん、「海外もの」という目新しさや、犯罪をセンセーショナルに扱った内容もあっただろう。しかし、それだけではなかった。新しい時代の新しい大衆読物として、その文体も新鮮だった。

(涙香の翻案は)外国名もその儘では耳遠いので日本名化する工夫をこらした。それに文章が無駄のない、ひきしまった達意のものであった。彼の記述法は当時の読者に海外小説を移植するのに、もっとも効果的で、かつ大胆な創意を発揮したといえよう。  従来は毒婦・白波物に占められていた文壇が、涙香の目ざましい翻訳紹介に刺激されないはずがなかった。(中島河太郎「推理小説通史」)

 創作探偵小説に手を染めた作家に、須藤南翠(すどうなんすい)(1857-1920)がいる。須藤南翠は、ポーの翻訳も行なった饗庭篁村(あえばこうそん)と共に、明治20年前後の「小説壇の二巨星」で呼ばれていた。南翠はそれまで『茨木阿滝粉白絲』(1883)などの毒婦物を書いていたが、明治21年6月に『殺人犯』という小説を発表した。金貸し殺しの容疑者となった男の潔白を証明するため、容疑者の食客が素人探偵となる。しかし探偵は失敗し、容疑者の恋人だった被害者の娘の証言で、真相がわかる、という話らしい。南翠は引き続き、明治22年(1889)1月に『朧月夜』を発表した。こちらは、三人の悪党の騙しあいだという。

 さらに、明治22年(1889)9月には黒岩涙香が「無惨」という創作探偵小説を試みている。

 その内容は上中下の三篇に分れ、上篇は「疑団」と題し、事件の顛末と疑問の数々を、中篇は「忖度」と題し、事件の経過と推理を、下篇は「氷解」と題し、解決を述べている。この三部だては典型的な本格物の形式であって、彼の探偵小説理解のほどがいかに的確であったかが察せられる。(中島河太郎「推理小説通史」)

 黒岩涙香の活躍に刺激されたのか、明治22年(1889)6月には省庵居士(原抱一庵?)が報知新聞に、ウィルキー・コリンズの『月長石』を『月珠』の題名で連載をはじめている。(ただし未完)この後の探偵小説翻訳は、ファーガス・ヒュームの『二輪馬車の秘密』を『鬼車』として訳されたのが明治24年(1991)、ドイルのシャーロック・ホームズの本邦初紹介が明治27年(1894)1月と続く。

 ポーから45年遅れてはじまったわが国の探偵小説紹介であるが、コリンズ、ガボリオー、グリーン、デュ・ボアゴベまでの探偵小説史40年の受容が、驚くべし、たったの3年でなされてしまったのだ。1880年代という時点でのガボリオー、デュ・ボアゴベの普及は、アメリカ、イギリスと同時期である。しかも、この3年の間には、ホームズの短篇シリーズに先立つ謎解き興味の作品「無惨」も上梓された。ヒュームの翻訳紹介は発表5年後、ドイルのホームズは発表後わずかに2年半である。明治期のわが国の海外文化の受容の速さは、探偵小説においても例外ではなかった。そして、時間をかけて熟成されたのではなく、きわめて短期間に紹介がなされた故の歪み、すなわち少数のマニア的愛好者による理解と、大衆受けするものとの乖離は、さまざまな面でこの国の探偵小説の歴史に影響を及ぼすことになる。


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