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■ミステリの歴史■


6.1870年代の探偵小説

(1)概観――イギリス、フランスそしてアメリカ


 エドガー・アラン・ポーが1840年代に生み出した「探偵小説」は、1850年代から60年代にガボリオ、ディケンズ、コリンズたちの手によって、さまざまに発展してきた。しかし、1860年代以降、シャーロック・ホームズが登場する1880年代末までは、多くのミステリ史で「空白期」とされている。この期間にミステリ史の流れを変えるような重要な作家や作品が出てこなかったというわけだ。そこで、1870年代に英米仏の「探偵小説」をめぐる情況がどのようなものであったかを、確認しておこう。

●イギリス

 1870年6月、チャールズ・ディケンズは最も探偵小説に近づいた作品『エドウィン・ドルードの謎』のラストを明かさぬまま、帰らぬ人となった。『エドウィン・ドルードの謎』は、謎のままに終わった。1860年代にいくつかの探偵小説的要素をもつ作品を書いたレ・ファニュは、法の手を逃れるために顔面形成手術を行なう悪役が登場する Checkmate (1871) を書いたものの、1873年にその生涯を終えた。

 『白衣の女』(1860)、『月長石』(1868)という傑作を書いたウィルキー・コリンズは、1870年代には9作の長篇を上梓している。しかし、そのうち探偵小説的なものは『法と淑女』(1875)と中編「奥様のお金」(1878)ぐらいであった。コリンズは1880年代にも書き続け、シャーロック・ホームズの登場直後の1889年に死ぬまで作品を発表し続けたが、次第に忘れられた作家となっていった。

 センセーション小説の女性作家たち、メアリー・エリザベス・ブラッドンやヘンリー・ウッド夫人も、1870年代にはまだ多くの作品を発表しているが、それらは探偵小説とはあまり関係のないものであった。

 イギリスの小説に登場する警察官の性格は、十九世紀中期から後期にかけて、次第に変化してきた。

この時代の小説は刑事・探偵の描写において、決定的とはいえないまでも重要な変化をもたらした。十九世紀半ばの小説では警官は尊敬と愛情をこめて書かれていたが、これがしだいに幻滅と皮肉が混じる調子で描かれるようになった。こうした傾向の発端は刑事部の歴史のうちに見いだすことができる。  十九世紀半ばに警察が大衆の信頼を得ることになったおもな原因は、従来の法執行体制を混迷させていた腐敗から大衆が自由になったことにある。しかし、1877年に公明正大という警察の評判は一挙にくずれた。刑事部の四人の刑事が何年にもわたって、二人のプロの取込詐欺師が経営する不正な賭博場に関係していたかどで中央刑事裁判所にかけられたからだ。(『天の猟犬』p172)

 こうした中で、現実世界の刑事部は1878年にC・I・D(犯罪捜査部)へと一新した。組織も再編され、構成員も800人になった。科学的な捜査も行なわれるようになっていった。しかし、大衆小説の世界では、まだ新しいタイプのヒーローは登場してこない。

 この頃からロバート・ルイス・スティーヴンスン(1850-1894)は小説を書き始め、1877年には『新アラビア夜話』(1882)に収録されることになるいくつかの短篇を発表している。

●フランス

 エミール・ガボリオは再びルコック・シリーズを書かぬまま、1873年に急逝。死後出版された短篇集『バチニョルの小男』(1876)には、いくつかの探偵小説が収録されている。

 犯罪をあつかったロマン・フィユトンの作家としては、アンリ・コーヴァン(1847-1899)、ウジェーヌ・シャベット(1827-1902)、フォルチュネ・デュ・ボアゴベ(1821-1991)らが続く。

 アンリ・コーヴァンの『マクシミリアン・エレール』 Maximilien Heller(1871)(注1)は、哲学者エレーヌが、無実の罪で捕えられた隣人を救うため事件を捜査する物語である。暗号の解読、死体解剖での砒素発見などがあり、エレーヌが変装して人里はなれた城館に乗り込んでいく。また、エレーヌは自らの推理法をこう述べる。

僕は既知から未知に進む。僕は事実だけを探り、犯罪の動機や誰が犯人かということには注意を払わない。どんなに矛盾しているように見えようと事実を集めていけば、あるとき、解答の光が閃くのだ。(『推理小説の源流』p161)

 語り手が医師であり、探偵役が阿片常用者であることなどから、ホームズ物語への影響も指摘されている。

 ウジェーヌ・シャベットは裁判記事を担当するジャーナリストでもあり、彼の書いた『犯罪の部屋』(1875)には密室殺人が扱われているらしい。

 この時期の犯罪読物の花形は、フォルチュネ・デュ・ボアゴベであろう。デュ・ボアゴベはガボリオより後に登場したが、年齢は一回りほど上である。パリで法律を学んだ後、1843年から47年までアフリカ駐留軍の財務部署で働いた。フランスに戻ってからは1861年まで役人として各地を歴任。1860年代後半から小説を書き始め、70年代から80年代に多くの作品を発表した。20年間にわたる作家活動で「約70点にも上る作品を上梓している」(長谷部史親『続・欧米推理小説翻訳史』)。にもかかわらず、「日本でこれほど有名なのに、欧米、とくに本国のフランスでは、一顧もされないほど忘れ去られてしまった。」(松村喜雄『怪盗対名探偵』)

 たしかに、フランスで書かれた探偵作家事典、リーベール・ドゥルーズの『世界ミステリー百科』(1991)を見てもデュ・ボアゴベの名はない。しかし、英米の探偵小説史には、小さくはあってもデュ・ボアゴベの名は登場する。『娯楽としての殺人』や『ブラッディ・マーダー』では、デュ・ボアゴベはガボリオの弟子であると紹介されているが、これはガボリオの生んだ名探偵を登場させた『晩年のルコック』 La Viellesse de Monsieur Lecoq(1875)(注2)を書いているためだろう。しかし、ガボリオとデュ・ボアゴベに主従関係はなかったようである。『推理小説の源流』では、「ガボリオのライヴァルであり」、「ガボリオに対する対抗意識から」ルコックの後日談を書いたとされている。この作品では、引退したルコックが息子の危機を救うために乗り出す。

もっとも、さすがの名探偵も寄る年波で、捜査の手際は危なっかしい。(中略)デュ・ボアゴベにはガボリオに見られる卓抜な分析能力や、師の名声を高めた警察機構の捜査手続きについての関心が見当たらぬ。デュ・ボアゴベは所詮、センセーショナリズムを狙う作家にすぎなかったのだ。(『ブラッディ・マーダー』)

 このほかに、『囚人大佐』 Le Forcat Colonel(1872)(黒岩涙香訳『執念』)や『オペラの犯罪』 Le Crime de l'Opera(1880)(黒岩涙香訳『劇場の犯罪』)などが代表作として挙げられている。(注3)

 本国では忘れ去られた作家であるデュ・ボアゴベが曲がりなりにも英米の探偵小説史に登場するのは、1870年代からはじまったガボリオの英訳に続いて、1880年代から90年代に多くの作品がイギリスとアメリカで翻訳紹介されたのと無縁ではないだろう。『続・欧米推理小説翻訳史』によれば、その数は60点以上に達するというから、同一作品の異題を考慮しても、デュ・ボアゴベの作品の大半が英訳されていることになる。さらにこの時期の英訳を通して、1890年代(明治20年代)からデュ・ボアゴベは日本でブームを巻き起こし、松村喜雄をして「日本でこれほど有名なのに」と言わしめる事態になるのだが、それはもう少しのちの話となる。

 この時期のフランスで探偵小説を書いたもう一人の作家が、ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)である。ヴェルヌは新聞連載も行なっているが、いわゆるフィユトン作家とはいえない。1850年代から創作活動を開始し、『気球に乗って五週間』(1863)がベストセラーとなり、人気作家としての地位を確立する。以後、《驚異の旅》シリーズと呼ばれる作品群を中心として多くの小説を発表、SFの始祖とも言われているのはご存知の通り。

 ヴェルヌが探偵小説的な作品を発表したのは、主に1870年代である。『八〇日間世界一周』(1873/1872連載)には、主人公一行を銀行強盗と思い追いかけるイギリス人刑事が登場し、最後には地球規模の壮大な時間トリックがある。『神秘の島』(1874)は、主人公たちが漂流した孤島で次々と奇怪な事件がおこる物語で、事件の背後にいた人物の意外性も充分にある。『皇帝の密使』(1876)はスパイ冒険小説である。『シナ人の苦悩』(別題『必死の逃亡者』)(1879)は主人公に襲い掛かる殺人者の魔の手(本人が気まぐれから自分を殺してくれと頼んだのだが)、『ジャンガダ』(1881)は暗号解読とそれに伴う犯人探しをあつかい、この二作などは「書かれた時代を考慮するなら、典型的な推理小説といっても差し支えない構成をとっている。」(『欧米推理小説翻訳史』)その後、20世紀になってからの最晩期にも、ヴェルヌは『キップ兄弟』(1902)や『リボニアの悲劇』(1904)など、数編の探偵小説的な作品を書いている。ヴェルヌと探偵小説の関連は、浅からぬものがある。

太平洋戦争前の日本では、文芸界の諸事情もあって、科学小説を探偵小説の変種と見る向きが支配的だった。それゆえヴェルヌの小説は、もともとミステリと近接していたはずである。しかしながらSFの独自性が浸透するにすれて、ヴェルヌはミステリとは完全に切り離して考えられるようになっていった。欧米のミステリ批評界でヴェルヌが取り沙汰される機会が少なかったことも、この傾向に拍車をかけたような気がする。だが現在の時点で、(中略)改めてヴェルヌとミステリの関係を模索してみるもの非常に面白いのではなかろうか。(『ミステリの辺境を歩く』長谷部史親)

 ともあれ、これがフランスの状況である。

●アメリカ

 1860年からはじまったダイム・ノヴェルは、1870年代にはいまだ開拓者もの、西部の英雄ものが主流を占めていた。しかし、この頃から「移民による急激な人口増とスラム化」(『ハードボイルド以前』)がはじまり、「日ましに増大するさまざまな犯罪の渦のなかで、人びとは(中略)彼らにもわかる血まみれの、生々しい言葉で詳細に語ってくれる新しい読物を期待していた。しかもその犯罪は、遠い西部の話ではなく、彼らのすぐ身のまわりで起こっている、新しいタイプの都市犯罪だった。」(同書)この時期に『バワリー探偵』(1870)や『探偵、オールド・スルース』(1872)が出たものの、単発で終わっている。

1870年代は、まだ都市型の探偵の登場には十年ほど早すぎたのだ。アメリカの探偵小説の歴史のなかで、1870年代の記念すべき年として記されているのは、

  • 1873年 ガボリオの『ルルージュ事件』のアメリカ版刊行
  • 1874年 ピンカートン事件簿の第一巻『速達便配達夫と探偵』の刊行
  • 1878年 アンナ・キャサリーン・グリーンの『リーヴェンワース事件』の刊行

 の三項目である。(『ハードボイルド以前』)

 この時期のアメリカの探偵小説史で重要なのは、エミール・ガボリオーの翻訳紹介であろう。

 ミステリ書誌 Crime Fiction IV で確認したところ、アメリカでのガボリオーの最初の翻訳は『オルシヴァルの犯罪』で、1871年に刊行されている。引き続き『ルルージュ事件』『他人の銭』『書類百十三号』などが続く。これらはハードカバーで出版されたようだが、1870年代末からダイム・ノヴェルの出版社であるマンロー社からペイパーバックで多くのガボリオ作品が刊行されはじめる。マンロー社は1880年代にデュ・ボアゴベの英訳を大量に刊行した《シーサイド・ライブラリー》の版元でもあり、これらもダイム・ノヴェルと呼んで差し支えないようである。

 ガボリオーの作品は、アメリカ探偵小説の二つの流れのどちらにも影響を与えている。

 The Oxford Companion to Crime & Mystery Writing の Dime Novel の項によると、ダイム・ノヴェル探偵小説に影響を与えた作品として、ガボリオーと「ガボリオーのアメリカの複製である私立探偵アラン・ピンカートン」の事件簿が挙げられている。つまり、ガボリオーの翻訳の影響で、ピンカートン事件簿が生れ、それらが1880年代のダイム・ノヴェル探偵小説のブームにつながる、という流れを読むことができる。

 そして、もうひとつの流れに、アンナ・カサリン・グリーンの『リーヴェンワース事件』が登場する。


(注1) 『怪盗対名探偵』によると、ミッシェル・ルブランは1866年の作品としているらしい。 (本文に戻る)

(注2) 黒岩涙香の『死美人』の原作でもある。 (本文に戻る)

(注3) 日本で最も有名なのは、黒岩涙香の『鉄仮面』(1892〜連載)の原作となった『サン・マール氏の二羽のつぐみ』 Les deux merles M. de Saint-Mars (1878) かもしれない。涙香『鉄仮面』の原作が判明するまでには、さまざまな紆余屈折があった。しかし、じつは涙香が用いたこの作品の英訳本の題名が The Iron Mask で、涙香はそのものズバリ、原題を忠実に訳したに過ぎなかった。(『続・欧米推理小説翻訳史』による) (本文に戻る)


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