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■ミステリの歴史■


5.アメリカ 1850年代〜1860年代

(2)ダイム・ノヴェルの誕生とピンカートン探偵社の設立

――男たちの行く道


 ダイム・ノヴェル Dime Novel という名称は、1860年6月にビードル兄弟が刊行が開始した《ビードルズ・ダイム・ノヴェル》 Beadle's Dime Novel という叢書名に拠っている。10セント(ダイム)で買えるためにダイム・ノヴェルと名づけられたこの廉価本は、100ページほどの小型の紙表紙本(4×6インチ)で、悪質な紙を使い、表紙には単色の(1897年からはカラーの)派手派手しい絵がつけられていた。その記念すべき第1作は、『マラエスカ/白人ハンターのインディアン妻』 Malaeska; The Indian Wife of the White Hunter で、作者のアン・S・スティーヴンスはかつて《グレアムズ・マガジン》の編集者としても名を連ねていた女性である。

 ダイム・ノヴェルと呼ばれるものには、時期により主に次のような四つの出版形態があった。

 大判のパンフレット・スタイルは1880年代から登場し、これによって《ビードルズ・ダイム・ノヴェル》以前からあった読物新聞 story paper との区別があいまいになり、読物新聞や新聞サイズの週刊刊行物なども「ダイム・ノヴェル」の総称で呼ばれるようになったようだ。もともとのダイム・ノヴェルは大人向けであったが、1890年代には読者の中心は少年となり、世紀の変わり目から登場した《パルプ・マガジン》と世代交代するように消えていった。J・ランドルフ・コックスは、ストリート&スミス社の《ニック・カーター・ストーリーズ》が月二発行のパルプ・マガジン《ディテクティヴ・ストーリイ・マガジン》に代わった1915年を、ダイム・ノヴェル終了の年としている。(注1)

 このような廉価な大衆娯楽読物には、これまで見てきたように、イギリスの「ペニー・ドレッドブル」(1840年代〜)や「イエローバック」本(1850年代〜)、フランスの《プチ・ジュルナル》のような大衆新聞(1860年代〜)などがある。これら各国の大衆読物の出版形態や内容、また読者層を同一に扱っていいものかどうか、現在のわたしには判断できないが、登場時期から言うとアメリカの「ダイム・ノヴェル」の誕生はけっしては遅くはない。

 アメリカ初の長編探偵小説と呼ばれる The Dead Letter の作者シーリイ・レジスターも、本名は Mrs. M(etta) V(ictoria Fuller) Victor といって、夫はダイム・ノヴェルの中心的存在だったビードル・アンド・アダムズ社の編集者であった。The Dead Letter もビードル社から出版されているし、このほかにもダイム・ノヴェルに幅広い作品を書いていた作家だという。(『探偵小説と多元文化社会』第三章)

 ダイム・ノヴェルの誕生する前にアメリカにあった週刊の読物新聞としては、ロバート・ボナーの《ニューヨーク・レッジャー》紙やストリート&スミス社の《ニューヨーク・ウィークリー》紙などがあった。ボナーの《ニューヨーク・レッジャー》は「大衆をたのしませることを唯一最大の目標として編集され、血なまぐさい猟奇的な犯罪事件に尾ひれをつけた記事や、メロドラマティックな新聞小説をごちゃまぜに掲載していた。」(『ハードボイルド以前』)1859年に、ディケンズの犯罪もの「追いつめられて」が5000ドルの稿料で書き下ろされたのも同紙である。また、『クリフトンの呪い』で人気作家となったE・D・E・N・サウスワースは、そののち道徳的に問題があるということで《サタディ・イヴニング・ポスト》から掲載を停止されるのであるが、そのサウスワースを登用してもいる。《ニューヨーク・レッジャー》の対抗馬《ニューヨーク・ウィークリー》は、『嵐と陽光』の人気作家メアリ・J・ホームズを売り物にしていた。

 ボナーは「酒ものまず、煙草もたしなまず、教会では執事をつとめ、唯一の楽しみは競走馬の飼育(但し、絶対に賭けることはしなかった)という、神の道に生きた男」(佐藤宏子『アメリカの家庭小説』p95)であり、「見識ある女性が自分の娘に読んで聞かせられないようなものは一行だって『レジャー』には載せたことはない」(『アメリカ大衆小説の誕生』p125)ことを公言していた。センセーショナルな記事や読物も、教訓的な意味合いを持って書かれていた。少なくとも、建前はそうであった。そして、1850年代には、これらは前回ふれた「家庭小説」が中心であった。また、ボナーの言葉にもあるように、中産階級の女性たちを読者に想定していた。

 これに対し、初期のダイム・ノヴェルは開拓者ものや西部ものが中心であった。「ダイムノヴェルを中、上流階級の人たちが読まなかったという証拠はない。しかし、このダイムノヴェルが下層階級の人々を照準に書かれた読み物」(『探偵小説と多元文化社会』第三章)であることは確かである。価格が安いことと、ポケット・サイズのためどこへでも持っていけて読めるという携帯性から、南北戦争(1861-1865)を背景に、「戦場の無教養な兵士たちによろこんで迎え入れられ」(『ハードボイルド以前』)、たちまち数百万部を売る巨大市場に成長した。

 開拓者ものや西部ものは、歴史読み物として書かれたのではない。アメリカの同時代ドラマとして書かれた。

ダイム・ノヴェルズが、それまでの読物週刊誌に差をつけた最大の特徴は、そこにアメリカン・ヒーローの原型が登場したことだろう。そして都会人にとっては、同時代のことでありながら、遥かな異国ほど遠かった西部が、ぐっと身近なものとして迫ってきたのである。自分たちの国アメリカを舞台にして、しかもアメリカ人のヒーローが活躍する物語がついに登場したのだ。(『ハードボイルド以前』p34)

 もちろん、ダイム・ノヴェルも表面上は教訓的に書かれている。「まず愛国心を刺激し、規律を重んじ、きわめて素朴な形での個人主義をほのめかし」(『ハードボイルド以前』)ながら、「文学性よりもアクションとメロドラマティックな会話を重視して、つぎつぎと書かれていった」(前書)。1869年には、ストリート&スミス社の《ニューヨーク・ウィークリー》にも西部の英雄バッファーロー・ビルが登場する。

 こうした物語が、ジェイムズ・フェニモア・クーパーに代表される「開拓者物語」の極端な大衆化であることは間違いないだろう。『開拓者たち』(1823)、『モヒカン族の最後』(1826)などの「革脚絆物語」五部作は、1841年、ポーが「モルグ街の殺人」を発表した年に完結したばかりだった。アメリカの原野を舞台に、「白人スカウトの波瀾と冒険に魅した生涯が雄大に物語」(前書)られるこのシリーズは、ヨーロッパでも評判を呼び、デュマなどの作品にも影響を与えている。そして、ガボリオが作品のなかで、「クーパーの小説に登場する未開人たちがアメリカの森のなかで敵を追いかけるように、刑事たちは合法性という薮のなかに法律書を手に、犯罪を追及する」と述べているように、探偵小説の生成にもけっして無関係ではなかった。セイヤーズも「犯罪オムニバス/序文」で、「一般に認めていられないことではあるが」と前置きしつつも、「推理小説の作者たちの上に強力に作用していたにちがいない、いま一つの文学的影響力」として、クーパーの諸作を挙げている。

クーパーは、インディアンが忍耐強く巧みに足跡をたどって獲物に近づいたり、折れた小枝、こけむした木の幹、一枚の落ち葉ものがさず調べ上げるありさまを、東西両半球の少年たちの前にくりひろげて喜ばせた。子供はみなアンカス酋長やチンガチグークになりたかった。小説家たちは創作の面でクーパーに追随したり模倣したりすることに甘んじないで、森林地帯の追跡者の物語を自分たちの国の環境に移植することによって、よりよい方法を見出した。1860年代になると、少年時代にクーパーを読んだ世代の人びとが、作者として読者として、自国の荒野で犯罪者の足跡をたどるようになった。(「犯罪オムニバス/序文」)

 しかし、クーパーを生んだ国は、まだ自国に本物の荒野が残されていた。「少年時代にクーパーを読んだ世代の人びと」が1860年代に求めたのは、同じような開拓者の物語であり、都市の犯罪を狩る探偵の物語ではなかった。

 J・ランドルフ・コックスによれば、最初のダイム・ノヴェル探偵小説は「仮出獄の男」 The Ticket of Leave Man (1865) で、ボストンの読物新聞《フラッグ・オン・アワ・ユニオン》に掲載された(注2)。これは、英国のトム・テイラーの同名劇を基にした連続もので、「刑事の回想録」のときにも触れた作品である。続いてジョージ・マンロー社の《ファイアサイド・コンパニオン》叢書に、ケンウォード・フィリップ作『バワリー探偵』 The Bowery Detective が1870年に、ハーラン・ペイジ・ハルシー作『探偵オールド・スルース』 Old Sleuth, the Detective が1872年に登場。これ以後、1880年代から探偵ものが多くを占めるようになった。また、初期のダイム・ノヴェルのなかに、ガボリオやデュ・ボアゴベの翻訳本があったことも見のがせない。しかし、いずれにしろアメリカの探偵小説史の中でダイム・ノヴェルが重要になるは、もう少し後のこととなる。

 じつは1850年代から60代には、現実の世界で重要な出来事がおこっている。ピンカートン探偵社の設立である。

 アラン・ピンカートン(1819-1884)はスコットランド人の警官の息子として生れ、1842年にアメリカに移住。副保安官を経て、1850年に私立探偵社を設立した。当初の主要な仕事は鉄道会社の護衛であったが、1861年にリンカーン暗殺を未然に防ぎ(注3)、南北戦争中は諜報活動に従事している。

 イギリスでは素人探偵が、フランスでは警察官が大衆読物の探偵役として主流になっていくが、アメリカでそれにあたるのは私立探偵である。都市犯罪をあばく者として、次代の大衆ヒーローとなるべき職業は、しかしこの時期はまだ、労働運動を弾圧する権力の手先として、現実世界で暗躍していたのだ。


(注1) Encyclopedia Mysteriosa による。なお、この本だけでなく、ペンズラー&スタインブラナー編の Encyclopedia of Mystery & Detection でも、ローズマリイ・ハーバート編の The Oxford Companion to Crime & Mystery Writing でも、Dime Novel の項を書いたのはJ・ランドルフ・コックスである。 (本文に戻る)

(注2) オルコットが「仮面の陰に」などいくつかのスリラーを発表したのも、この読物新聞である。 (本文に戻る)

(注3) ちなみに、1865年、リンカーンが本当に暗殺された時に観劇していたのは、「仮出獄の男」の作者として何度か名前のあがっているトム・テイラーの喜劇だった。 (本文に戻る)


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