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■ミステリの歴史■


4.フランス 1840年代〜1860年

(2)ウージェーヌ・シューの『パリの秘密』


 十九世紀前半、とくに1830年代から50年代のフランスは、ヴィクトル・ユゴーに代表されるロマン主義の時代であった。ロマン主義とは、古典主義時代の規範や制約に抑えられていた人間の自我、感情、官能などの解放と復権を目的とした文学運動である。それまでの正しさや美しさの価値観にたいする逸脱と異議申し立てを主旨としている。当然、犯罪も主要なテーマとして取り上げられる。「この時代の文学は暴力や犯罪のテーマに魅せられていた。」(小倉孝誠『推理小説の源流』p38)そして、「犯罪の物語化を推しすすめるのに貢献したのが《新聞小説》である。」(同書p40)フランスの新聞小説(ロマン・フィユトン)は、1836年に創刊された大衆紙「プレス」に連載されたバルザックの『老嬢』からはじまり、1840年代になると、この新聞小説の人気が新聞の発行部数を左右するまでになる。

それらは必ずしも推理小説ではなく、ただセンセーションに重きをおいた、文学としても価値のないものが多く、作者のほうでも、前々から筋を組み立てておくというようなことはせず、行き当りばったりに、面白さを追っかけるだけだったから、構成に重きをおく推理小説とは、縁の遠いものだった。が、それにもかかわらず、連載小説の特質の一部――すなわち、劇的なサスペンス、センセーショナルな犯罪、犯罪者そのものにたいする興味、その犯罪者が狩り立てられ、法廷に運びこまれるまでの興味――そんなものは、その後も持ち続けられ、フランスで推理小説、ことに無批判な大衆に訴える推理小説が書かれる頃まで、ずっと息づいていた。(『推理小説の歴史』)

 当時の新聞小説のジャンルはおおむね以下のようなものであったという。

 代表的な書き手は、アレクサンドル・デュマ、ウージェーヌ・シュー、フレデリック・スーリエ、ポール・フェヴァルなどである。オノレ・ド・バルザックやジョルジュ・サンドなども加えてもいいかもしれない。これらの物語に共通するのは、

であった。最初のふたつは大衆の人気を得るためには当然として、最後の「社会批判を織り交ぜること」というのは、今では違和感があるかもしれない。しかし、同時の読者(と作者)にとっては、当然の要因であったようだ。

わが国では新聞小説すなわち大衆小説、そして大衆小説といえば非イデオロギー的な娯楽文学にすぎず、十九世紀が生みだしたサブ・カルチャーという認識が強い。そして大衆的な文学が一つの制度としてはっきり存在する日本と比較しながら、十九世紀半ばのパリと現代の東京がまるで同質の言説空間を共有しているかのように、時代錯誤的な議論を繰り広げる論者も少なくない。新聞小説はジャーナリズムと、出版資本主義と、読者層の拡大が相乗的に作用したところに生れたものというわけで、あたかも肥大した現代ジャーナリズムを予告した現象であるかのように語られる。

 しかし、それはあまりに偏頗な見解というものだ。新聞小説が大衆小説の大きな部分をしめていたのは否定できないとしても、その大衆性は娯楽性によってのみ支えられていたのではない。少なくともシューが活躍した七月王政期には、新聞小説はきわめて政治的で、イデオロギー的な実践であった。だからこそ、人々はそこに危険な萌芽を嗅ぎつけ、警戒の声を上げたのである。(『「パリの秘密」の社会史』p264-265)

理性に対する感情の復権、自然の賛美、感覚の解放、愛の称揚、幻想性といった側面もたしかにロマン主義の要素だが、しかしそれだけではない。おそらくそれらにもましてフランス・ロマン主義を特徴づけているのは、その政治性であり、イデオロギー性にほかならない。政治は、政治家にだけ任せておくにはあまりにも重大なことがらであった。この世代の文学者たちは小説家も、詩人も、歴史家も、哲学者もみな例外なく、近代社会を解読し、社会を読み解き、歴史の流れの原理を探究しようとした。国民を教化し、民衆の導き手になれる、いやなるべきだという矜持の念を隠さなかった。(同書p266)

 もちろん、「当時の読者が望んでいたのは快楽であって啓蒙ではなかった。」(『推理小説の源流』p45)だからこそ、「読者の関心をつなぎとめるためには、多くの劇的情況や驚くべき出来事の連鎖が必要」(同)であり、「センセーショナルで扇情的な刺激も求められる。」(同)しかし、そうしたセンセーショナルな題材と同じように、当時のフランスの民衆にとっては、「社会批判」も娯楽のひとつであったのではないだろうか。いや、「社会批判」そのものが、センセーショナルな題材だったのではないか。これは、ほぼ同時代(1830年代)のイギリスで書かれたニューゲイト・ノヴェルにも通じる構造かもしれない。

 社会現象となるほどのブームを巻き起こしたウージェーヌ・シューの『パリの秘密』は、1842年から翌年にかけて「ジュルナル・デ・デバ」に連載された新聞小説であるが、この小説も、パリの闇と犯罪、扇情的な暗黒の巷を描くことだけでなく、司法制度や社会構造からくる民衆の貧困と苦しみなどの社会批判もまた大きなテーマであった。

 ウージェーヌ・シュー(1804-1857)は医者の家系に生まれ、父は宮廷で高い地位についていた。シューの名付け親はナポレオン妃ジョゼフィーヌと彼女の先夫の子ウージェーヌ・ド・ボーアルネである。シュー自身も医者になる訓練をうけ、軍医として海外に旅したが、1830年の父の死と共に医者をやめる。遺産で生活しながら小説を発表し、ダンディな美男作家として社交界で浮名をながした。1930年代には海洋小説や風俗小説を書いてある程度の流行作家となっていたシューであるが、『パリの秘密』が空前の人気を博してからは、スター作家となる。

 同時は印税方式はまだなく、作家の報酬は原稿に対する一括払いがふつうだった。小説一作の原稿料は、作家の格により、少数のエリート作家(ユゴーやポール・ド・コック)から、群小の無名作家まで、いくつかのグループに分かれていた。しかし、エリート作家でも一作につき3000〜4000フランであった。「新聞小説の隆盛はこの作家のヒエラルキーに変化をもたらす。日々新聞に連載される小説は、読者の反応に過敏に反応する、いや反応せざるをえないジャンルだった。評判が良ければ、当初の予定期間を超えて連載は延び、」(『「パリの秘密」の社会史』p39)不評ならば、連載は打ち切られる。ウージェーヌ・シューの『パリの秘密』は爆発的な人気で長期連載となった。つづく『さまよえるユダヤ人』(1844-45)によって、シューは10万フラン(現在の日本円で1億円以上)を手にした。同じ頃、デュマは『三銃士』(1844)、『モンテ=クリスト伯』(1844-46)を相次いで発表し、「シューに比肩する成功を収める。『プレス』紙のライヴァル紙『シエークル』は、一年に10万行書くことを条件に、デュマに15万フランの原稿料を支払った。」(同書p39)

 当時の新聞は、発行地以外の町では原則として予約購読制で(ただし発行地、例えばパリでは一部買いも出来たらしい)、購読料は安くなったとはいえ、まだまだ高く、「購読者は主として都市のブルジョワ層であった。」(同書p40)1840年代後半で、『プレス』紙の発行部数は2万〜3万部である。もっとも、一家全員、作業場の全工員が回し読みをするし、貸本屋で読むことも出来たため、実際の読者数はその数倍だったようであるが。

 『パリの秘密』がどれくらいのベスト・セラーだったのかは、『メディア都市パリ』に掲載された「1840-50年代のフランスにおけるベストセラー一覧」が参考になる。1841年から1845年まででもっとも売れた書籍はラ・フォンテーヌの『寓話集』で、推定部数が88,000〜125,000冊となっている。上位6冊はすべて「民話集」「フランス史」「歴史教理問答」などだが、7位に32,000〜46,000冊で『パリの秘密』がはいっている。もちろん小説のトップだ。1845年から1850年までのベストセラーでも、小説のトップはデュマの『モンテ・クリスト伯』(24,000〜44,000冊で総合7位)にゆずったものの、『パリの秘密』が13位(22,000〜28,000冊)、『さまよえるユダヤ人』が14位(25,000冊)、『民衆の秘密』が15位(20,000冊)と以前人気は高い。

 『パリの秘密』は、主人公のロドルフことゲロルスタイン大公が労働者の姿に身をやつして、パリの犯罪者の街に出没する話を中心に進んでいく。彼の目的は生き別れになった娘を探し出すことなのだが、その過程で可憐な町の娘、侠気の元犯罪者、極悪非道の犯罪者、官能的な美女、慎ましい人妻、悪人に陥れられる青年などさまざまな人間たちがからんでくる。犯罪者の生態を描き、監獄の恐怖を描き、貴族やブルジョワの腐敗をあばき、まじめに働きながらも貧しいままの民衆の苦しみを訴える。ロドルフは悪人の手によって窮地に陥ることもあり、また可憐な乙女の危機を救うこともある。有能な臣下の手をかりつつ身分を隠して民衆を助ける高貴の人という構図は、日本の大衆ヒーロー、たとえば遠山の金さんや水戸黄門をも思い起こさせる。

発表された年代からいって、『パリの秘密』の主人公が十九世紀から二十世紀に至るまでの大衆小説のヒーローの諸条件を備えている最初の作中人物である、という事実はあらてめて強調しておきたい。デュマ、フェヴァル、ポンソン・デュ・テラール、ガボリオー、ルブランの主人公たちはみな、ロドルフの末裔なのである。(『「パリの秘密」の社会史』p255)

 ロドルフは正しい者には自らが経営する理想の農場に住まわせたり、貧しいものに無利子で資金を融通する「貧者の銀行」を創設する。このあたりが社会主義的思想をもとに当時の社会の矛盾を指摘したところなのだが、マルクスはこれを「現実的には有効性のない、単なる気休め、あるいは空想の産物」と断罪したという。

 ところで『パリの秘密』の第八部には、元手品師の強盗が監獄内でさまざまな珍しい事件を語るシーンがあるらしい。その中に、獰猛な猿を飼っていたならず者の物語がある。人真似をしたがるその猿は、ある日、床屋の真似をして飼い主の喉を剃刀で切り裂いたという。この挿話を読んだエドガー・アラン・ポーが、「これは「モルグ街の殺人」の翻案ではないかと疑ったのである。」(『「パリの秘密」の社会史』p156)『パリの秘密』のこの部分が連載されたのは1843年6月だというから、時間的には可能性はあるが、シューがポー作品を読んだという形跡はないようだ。(「モルグ街」の最初のフランス語訳は1846年だというから、もし読んだとすれば英語からということになるが。)

 『パリの秘密』につづく『さまよえるユダヤ人』は「ル・コンスティテュショネル」紙に連載され、同紙の売り上げは3000部から4万部になったという。(注1)これはイエズス会が新教徒マリウス・レヌポンの子孫たちを迫害する物語である。世界中に散ったレヌポンの子孫たちの生き残り七人は、巨大な額の遺産を受け取れるのだが、それには指定日に身分を証明するメダルをもってパリの屋敷に集まらなくてはならない。この遺産を横領しようとするイエズス会が、メダルを奪うため暴力や洗脳、悪魔的な術をつかってレヌポン一族を葬っていくという伝奇小説のような物語だ。

 この二作で人気の頂点を極めたシューであるが、その後は順調とはいかなかったようだ。政界に進出して失敗し、1851年12月のクーデターで政権をとったルイ・ナポレオンによって、国外追放の憂き目にある。イタリアに亡命したシューは、そこでいくつかの小説を発表するが、いずれも評判になることはなく、1857年8月に動脈瘤の破裂がもとで息をひきとった。

 『パリの秘密』がフランスの大衆小説にもたらしたものは、「犯罪と闇のパリ」というモチーフである。

 デュマ・ペール作『パリのモヒカン族』(1856)では、王政復古期のパリを舞台にカルボナリ党の陰謀と警視庁の活動が、暗黒小説的な雰囲気を色濃くただよわせながら展開していく。また、フランスにおける推理小説の創始者であるエミール・ガボリオーの一連の作品(1860年代末)は、夜闇のパリなしには書かれえなかった。コナン・ドイルのホームズ物が、霧に霞むロンドンという都市空間なしには語りえないように、フランスの推理小説はパリという空間なしには構築されなかったろう。それは二十世紀に入って、ジョルジュ・シムノンの作品がしばしばパリの下町の哀愁をただよわせていることにも、よく示されている。近代作家たちは、パリで展開する激しい野心と苦い挫折を、波瀾に富んだ愛と友情を、社会を揺るがす革命と反動を、闇の世界で行なわれる犯罪とその捜査を語ってやまなかった。シューの『パリの秘密』は、こうした大衆文学におけるパリの表象の起源に位置づけられる重要な作品であり、その後の大衆小説は『パリの秘密』が創始した物語の構図を変奏させていくことになる。(『「パリの秘密」の社会史』p182)

 それはフランス探偵小説の生成においても重要な役割をはたしている。

新聞小説がすべて犯罪小説というわけではないし、犯罪をテーマにする作品でも厳密な意味での「推理小説」ではない。しかし犯罪というテーマをつうじて、1840年代の新聞小説がその後フランス推理小説が発展するための母胎となったことは、あらためて確認しておくに値しよう。(『推理小説の源流』p46)

 『パリの秘密』ブームにより、似たような作品が数多く企画されたという。その中でも『ロンドンの秘密』(1843-1844)はヒット作となった。この作品を書いたのがポール・フェヴァル(1816-1887)。エミール・ガボリオーの師である。


(注1) 『「パリの秘密」の社会史』による数字。『メディア都市パリ』では、3500部から23000部に延びたことになっている。 (本文に戻る)


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