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■ミステリの歴史■


1.ポーにいたる道

(4)犯罪実話読物の系譜(承前)

――ヴィドックの『回想録』


 前回述べたように、英国の刑事の前身であるボウ・ストリート・ラナーズは、1820年代にはいくつかの著名な事件で手柄をたて、ある程度の社会的認知を得た。『リッチモンド』(1827) という彼らを主人公に設定した物語も登場した。

 しかし、1830年代から40年代にはやったニューゲイト・ノヴェルは、犯罪を犯罪者の側から描いており、犯罪者に同情を示すか犯罪者を英雄視している。この時期に犯罪捜査を主題にした物語はなく、警察官(賊捕り人)は、かりに登場したとしても、主人公を窮地に追いやる悪者であった。矛盾だらけといわれた英国刑法も1832年には大幅に改正され、また当時の警察機構も、ボウ・ストリート・ラナーズからロンドン警視庁へと移行しつつあったが、それでも、いまだ一般の庶民にとっては、警察官は味方というより敵と見なされていたということかもしれない。『リッチモンド』以降、尊敬される警察官の物語は、1850年代まで登場しない。

 フランスでも事情は同じである。フランスでは英国より早く、1800年に首都の治安維持を司るパリ警視庁が誕生したが、これは政治警察の役割もあわせもった組織だった。19世紀初頭には、警察官は「ほとんど犯罪者と異なることなく「賤民(バリア)」扱いされてい」(『推理小説の源流』p28)た。警察は前科者をスパイとして使い、犯罪者仲間の密告によって捜査を行っていたのである。そしてスパイ行為は、英国でもフランスでも、それが犯罪者を捕まえることにつながろうと、嫌悪されるべきものとみなされていた。1812年に市井の犯罪事件を捜査する部署として保安特捜班が創設される。この任務についたのが、犯罪者として名をはせていたウージェーヌ・フランソワ・ヴィドック(1775-1857) である。

 ヴィドックは1827年にこの職を辞したのち、『回想録』(1828-29) を発表する。『回想録』によると、ヴィドックの生涯は波乱にとみ、かついかがわしい。22歳で刑務所にいれられるが、脱獄と逮捕を繰り返したのち、当局の密偵となる。犯罪者の逮捕に貢献しつつ、警察部員に採用され、ついには保安特捜班の責任者にまでなった。彼は特捜班時代の多くの犯罪捜査について得意げに語り、また犯罪者社会や犯罪の手口についても多くを記した。ヴィドックの捜査方法は、犯罪世界の知識を利用し、変装して仲間に入り、手がかりを求めて根気よくパリの裏通りを調べて歩く。七年間で四千人の犯罪者逮捕に貢献した、と豪語している。

 『回想録』は事実ではなく、多くの虚言が入っている「創作」として読むベきであるといわれている。それでも(あるいはそれゆえに)、19世紀前半の欧米の犯罪物語にもっとも影響を与えたのは、このヴィドックと彼の『回想録』とみて間違いない。『娯楽としての殺人』に引用されているフランク・W・チャンドラーの言葉を孫引きすれば、

無頼漢小説から探偵小説にはっきり移り変わるには、ヴィドックなるものが「回想記」をだすことがぜひ必要だった。

 また、イーアン・ウーズビーはこう述べる。

この『回想録』は、最終的には探偵を賛美し、探偵にお追従を言うことになる伝統の発端となっているわけだが、書かれた時期は英仏の探偵が一般に敵意と疑惑の的になっていた頃である。フランスの警察は有能の名が響いてはいたが、腐敗して、政治スパイの巣であるという不名誉な、しかしどうやら正当な評判をかち得ていた。ヴィドックが警察の仕事を始めたとき、「私が属した部局は一般人の憎悪にさらされたいた」と彼自身が書いている。実際彼の回想録は、自己神格化であると同時に、自己の潔白証明の試みでもある。(『天の猟犬』p70)

 しかし、ジュリアン・シモンズはいう。

ヴィドックが同時代人を魅了し、時には賛美さえされたのは、法の番人というよりも、犯罪者だったからだ。(『ブラッディ・マーダー』p45)

 事実、ヴィドックの『回想録』は、出版された同じ年のうちに英訳されてイギリスにわたるのだが、その時には、「フランスのジョナサン・ワイルド」として評判になった。つまり、探偵というよりも、悪漢としての魅力が勝っていたのだ。

 ヴィドックを直接的にモデルにしたのは、彼と親交のあったバルザックで、人間喜劇のなかの『ゴリオ爺さん』(1835)、『幻滅』『浮かれ女盛衰記』(1847) に登場する怪人ヴォートラン(またの名前をジャック・コラン)の経歴は、ヴィドックと酷似している。また、ウージェーヌ・シューの新聞連載小説『パリの秘密』(1942) は、華やかな都会の裏側にある怪しげな犯罪世界を扇情味たっぷりに描いて大評判となった。さらに、デュマの『パリのモヒカン族』のジャッカル警部、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンとジャベール警部などの人物造形にも一役かっている。ガボリオのルコック探偵がもともと犯罪者であった(またはその素質をもっていた)というのも、ヴィドックのキャラクターを抜きにしては語れないだろう。

 1831年には『回想録』を読んだイギリスの巡査部長が、変装して急進派組織に潜入し、社会問題になるという事件までおこった。

 ミステリ・ファンならご存知のように、ポーは「モルグ街の殺人」のなかで、名探偵デュパンにヴィドックを批判させている。これは、名探偵のキャラクターを持ち上げるのにそれが適していた、つまりそれだけヴィドックの名前が名捜査官の代名詞としてひろく知れわたっていたことの証左であろう。

 現実的な犯罪世界の状況や隠語を一般人向けに面白おかしく描き、自らは「犯罪者にして名探偵」を演じる。ヴィドックは「変装して事件を捜査する探偵」や、「犯罪の巷を足で捜査する探偵」など、のちの名探偵キャラクターの原型のいくつかを作り上げた。彼が犯罪物語にもちこんだ流れのはるか先には、暗黒の巷を描いたものとしては暗黒小説や犯罪ノンフィクションが、捜査物語としては警察小説がある。「ヨーロッパやアメリカの推理小説の歴史を考える場合、ユーゼン・フランソア・ヴィドックの経歴と人柄からくる影響を、どんなに高く評価しても、いいすぎにはならないのである。」(A・E・マーチ『推理小説の歴史』)

*****

 1840年代になるとニューゲイト・ノヴェルは社会風紀を乱するものとして非難されはじめる。これは、犯罪者を肯定的に描いた物語が犯罪を誘発する、という現代でも時おりなされる議論の嚆矢といえるかもしれない。この論の是非はともかく、このことは逆にいうと、社会全体に安定と秩序が求められるようになり、犯罪を取り締まる者たちが英雄と見なされはじめたということである。

 この時期、イギリスで刑事たちの地位向上に一役かったのは、チャールズ・ディケンズである。この19世紀英国最大の人気作家は、ニューゲイト・ノヴェルとして槍玉にあがった『オリバー・トゥイスト』を書いてもいるが、また、誕生したばかりのロンドン警視庁の宣伝係でもあった。ジャーナリストとして刑事たちを取材し、1850年には「刑事のパーティ」「刑事警察の逸話三篇」という記事を発表した。個人的にも刑事たちと親しくし、彼らの夜回りに同行したルポ記事も書いている。こうした関心が『荒涼館』(1853) に登場するバケット警部へとつながる。このあたりのディケンズの関心を、北條文緒は『ニューゲイト・ノヴェル』の中で、以下のようにまとめている。

 ディケンスの何かを追いつめる情熱が、ほとんどの場合に、追われる者への同情を喚起することを思えば、ある点で対蹠的な性格をもつふたつのタイプの小説――探偵小説とニューゲイト・ノヴェル――の要素がその作品のなかに共存していることに不思議はないだろう。たまたま追う者が警部であり、追われる者が犯罪者であった場合に、前者への心理的加担が探偵小説へ、後者への同情がニューゲイト・ノヴェルへの傾斜を生んだと考えることができよう。『オリヴァー』が犯罪者にたいする憐れみをかき立てるとサッカレイは非難し、それ故にディケンズの作品もニューゲイト・ノヴェルの仲間入りをしたのだったが、同時に探偵小説の萌芽が彼の作品のなかにあることを見逃すことはできない。(p136)

 こうした社会背景をうけて、1849年から《チェインバーズ・エジンバラ・ジャーナル》(注1)『ある刑事の回想録』Recollections of a Detective Police-Officer なる作品の連載がはじまった。ウォーターズ "Waters" という匿名の「刑事」による回想録の形式をとった作品は、いくつかのエピソードをつなげながら1853年まで連載が続き、ニューヨークで1852年に(おそらく海賊版として)先に出版され、イギリスでは1856年に「イエローバック」という安っぽい装丁の単行本となった。(注2)

 『ある刑事の回想録』の作者は、じつはウィリアム・ラッセル(1807-1877) という三文作家兼ジャーナリストで、「刑事部の評判が高まりつつあることから、この物語を思いついたことは明らかであり、新しい民衆の好みで早いこと金儲けしようという根性が読みとれる。」(『天の猟犬』p89)その内容は、事件を足で捜査する「正義と人情のお手本としての探偵」(同p92-93)だったが、しかし、この作品はエラリー・クイーンが歴史的に重要な短篇集を選んだ「クイーンの定員」にも、ポーに継ぐ#2の作品として挙げられているように、探偵小説の発展史において重要な役割をもつ。これ以降、1860年代から世紀末にかけて、イギリスではこのような「刑事の回想録」が数多く出版されるのだが、それはもう少し後に考察したい。

 ロンドンやパリのような大都市にはびこった犯罪は人々の不安をかきたてたが、同時に犯罪事件や犯罪人は人々のセンセーショナルな興味を惹きつけてもいた。19世紀を通じて、英仏では警察機構が整えられていき、それにともなって犯罪そのものへの興味から犯罪を取り締まることへ関心は移っていき、1850年ごろになると警察官が社会秩序の回復の担い手と考えられるようになる。

 1841年は、このような移行時期である。この年は探偵小説の歴史にとって非常に重要な年となる。1月には、イギリスでディケンスが『バーナビイ・ラッジ』の連載を、フランスでバルザックが『暗黒事件』の連載を、それぞれ開始した。どちらも犯罪事件の解明を主題のひとつとした歴史物語である。そして4月、アメリカでエドガー・アラン・ポーが「モルグ街の殺人」を発表する。犯罪小説から探偵小説へ、歴史は動いたのだ。


(注1)《チェインバーズ・エジンバラ・ジャーナル》は、「ペニー週刊誌の先祖」(『娯楽としての殺人』)とされているが、英国で最初にポーの「盗まれた手紙」を抄録し、1879年にはコナン・ドイルの処女短篇「ササッサ谷の怪」を掲載しているから、探偵小説には浅からぬ縁がある。 (本文に戻る)

(注2)「イエローバック」は鉄道旅行者が車内で読むために作られた安価な本で、主に鉄道の駅の売店で売られた。「ペニー・ドレッドフル」と同様に、「褪色したページから、甦るイメージ―読み捨てられた書物の魅力」で実物が見られる。→ 「イエローバック」 (本文に戻る)


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■今回の主な参考資料


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