『藤村』再考


島崎藤村の雅号「藤村」の由来を巡ってはすでに数多の論究がある。しかし、事柄の性格上、絶対唯一の正解は存在しないから、なお再考して一説を加える余地があろう。

 これまでの研究で、島崎春樹が初めて藤村の筆名を用いたのは明治二十七年二月の「野末ものがたり」(『文学界』)であり、それまでに真人から始まって、無名氏、n•n、島の春、古藤庵無声、古藤庵、無声、藤生などの筆名が用いられたことが明らかにされている2

 ここには二つの類型が見られる。一つは無名、n.n(名無し?)、無声の無系列であり、他は古藤庵、藤生(→藤村)の藤系列である。

 無系列の命名については「櫻の実が熟する時」第十一章の主人公捨吉宛ての岡見の手紙にある「声のない哀しみを湛へた君の此頃…」の一節をあわせて「<無声>はまさにこの雅号が成立する時期の藤村自身の表現なのである。だから、その<無声>と初期の<無名氏>とがつながるとすれば、<無名氏>もまた単なる匿名の手段ではなく、もっと自己否定的、あるいは自棄的な色彩を帯びて藤村の青春を雅号が映し出していることになる」との指摘3がある。
 藤村が自己の青春の一齣を素材に書いた「無言の人」(『趣味』明治45.6)も考え合わせれば、この説に一層説得力が加わる。

 藤系列の命名については、李白や杜子美の詩を愛読していた藤村が杜子美の詩に古藤の字を見つけて採ったという説4もあるが、「古藤庵または藤村は(藤村の想い人で他家に嫁して早世した)『佐藤輔子』の藤に由来するというのが今日の定説である」と断定する著作5があるので、ここであえて「定説」に異を唱えることは避けよう。

 藤に異論なしとすれば、藤村が私淑した芭蕉の旧雅号桃青から藤声、藤生が派生したとするのも自然である。ただ、この定説は藤についてであって「村」に触れていない。「村」の由来については未だに定説はない。
「村」に関する論考も多くはなく、僅かに、藤村が傾倒していた北村透谷にちなみ「村透」を倒置して「透村」としたのが発想の土台だとする説6もあるが、憶測の域を出ない。
 大和路の旅で藤の盛りの村を通り、芭蕉の「草臥れて宿かる頃や藤の花」の句を思い出して藤村の号を得たと言う説7も、可否を論じるには根拠が曖昧である。
「村」の由来についての手がかりを求めるうちに、一つの記述に出会った。「村は蕪村からの連想ではないか」という指摘8である。ただ、その筆者はこの指摘について一切敷衍せず、この一行以外に何も語っていない。そこに私は興味をひかれた。
 いったい藤村に蕪村との接点はあるだろうか。

 藤村が芭蕉に心酔していたことに議論の余地はない。「春」「櫻の実の熟する時」「新生」の主人公岸本捨吉の名前が芭蕉の「野ざらし紀行」の一節に因むことは夙に解明されている。
「櫻の実…」で関西漂泊の旅に出る捨吉の道筋は、藤村が無声の雅号で書いた「かたつむり」(『文学界』明治26.3)の内容と一致する。その道筋は「野ざらし紀行」をなぞるものであった9。その「かたつむり」に「ただ藤の花の声なきを愛し…」というくだりがあるところから、無と藤の二系列と思われた雅号が実は同根で芭蕉に繋がっていることが分かる。

芭蕉没後二十三年目に生まれた蕪村は「やせ枯れた『さび』の美意識によって統一された元禄蕉風とは異質の、浪漫的•叙情的な中興俳諧」を発展させた人であり、「ストイックな芭蕉に対して、蕪村は高踏的なエピキュリアンであった」という評10がある。
 ますます藤村との繋がりが否定されそうな蕪村だが、そうであればこそ藤村の共感を得るところがあったのではないかと私は考え始めた。
「得たきものはしゐて得るがよし」(「新花摘」)という蕪村の欲望肯定の根底に自我の肯定があり、肉体の肯定があった。蕪村はまた、世間並みに妻を迎え娘をもうけ家族を養うために売り絵を描きつづけた。この世俗の暮らしは藤村の実生活に通じる。
 藤村が芭蕉のストイックに依ったのは、「自己の家系にまつわる陰惨な血の伝統」を知り「自己のうちを流れる暗い情念を自覚」して、「青年時代から意思的に一歩一歩を踏んで、モラリスト風に自己を形成してきた」11からであろう。しかし、その背後にはむしろ蕪村的な生身の藤村が息づいていた。
 それを指摘した人もある。「藤村は、芭蕉の本領といはれてゐる寂栞などといふものは殆ど持つてゐなかつた。…私は、芭蕉と藤村とは何から何まで全く違ふ、と思ふのである」
12という評もあれば、「藤村は純粋な一本気の人で、しかも非常に助平な人だと思う」13という藤村の二面性をつく発言もあり、蕪村に通じる回路が認められる。
 違う側面からの接点として、藤村と蕪村の境遇には通底するところがある。

摂津国毛馬村に生まれた谷口蕪村は、終生出自を明かさなかったから、家柄、父母の姓名、幼名など一切が不明である。しかし、これまでの研究は、諸種の資料から帰納して谷口家が庄屋級の豪農であったとしている。蕪村の成育期享保年間は江戸時代の経済大変動期に当たった。淀川低地蔬菜栽培圏に属する毛馬村は大阪商品貨幣経済の興隆に巻き込まれ、大商人と結託して流通経路を掌握した新興実力者が古くからの庄屋層を押しのけて村落を支配し始めた。因習に従い頭の切り替えが出来ない世襲庄屋の多くが没落した。
 享保十七年は西日本を大飢饉が襲った年である。餓死者百万人といわれるこの飢饉の最中に離村した蕪村は単身江戸へ向かった14。十七歳であった。地位、家産、肉親を失い、おそらくは不名誉を負って、大阪ではなく遠い江戸に赴いたのである。出自を語れない事情がこの辺りにある。
 蕪村の雅号は、陶淵明の「帰去来の辞」の

帰去来兮(かえりなんいざ)田園将蕪胡不帰(でんえんまさにあれんとすなんぞかえらざる)

に因るとされている15
 だとしても蕪村の脳裏には故郷の荒蕪地のイメージがあったろう。

 もはやそこに帰ることはない。難波から毛馬に帰る薮入り娘に仮託した「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」は、まさに帰る家郷の消滅した蕪村のやるかたない懐旧の情に他ならない。藤村も若くして故郷を離れ、時代の変転による生家の没落、肉親との離別、故郷の変貌を体験し流離の思いに身を浸した。蕪村への共感があった可能性を否定できない。

そこで、作品に芭蕉的な思いを仮託する作家藤村が、わが生身の蕪村的な生き方を篭めて雅号を選んだと仮定しよう。
 藤村が蕪村に因む雅号を考えたとすれば、当然、蕪村命名の淵源に思いを馳せたろう。
 陶淵明は四十一歳の冬、十三年間の役人生活に見切りをつけ、最後の官職彭沢県の県令を辞して郷里に帰った。その時に作ったのが「帰去来辞」だが、その翌年四十二歳の作といわれる詩に「帰園田居五首」がある。其の一は

(わか)きより俗に適うの(しらべ)なく、

 (せい)(も)と邱(きゅうざん)を愛せしに、

 誤って塵網のうち)に落ち、

 一たび去りてより十三年」

と帰去来の経緯を歌った後、家郷の有様を描写する。

 「方宅は十余畝、

  草屋は八九間、

  楡柳は後の(ひさし)(おお)い、

  桃李堂前に羅(つらな)る。

  曖曖(あいあい)たり遠人の村、

  依依(いい)たり墟里(きょり)の煙」

前半四行の意味は明らかであろう。後段二行は「ぼんやり見えるのは遠くにある村里。そこには人なつかしげに煙がたちのぼっている」16
 なわち、陶淵明が帰ってきたのは蕪(あ)れた村ではなく「桃李羅堂前 曖曖遠人村」という桃の村だったのである。
 漢詩に通じた藤村は、入門書にすら紹介される「帰園田居五首」について知悉していたと考えるのが自然である。とすると、蕪村から→桃村への転移は容易である。
 さらに、桃青(芭蕉)の雅号が白い(李白)に遠く及ばない青い桃(桃青)からきているという辺りから、陶淵明あるいは蕪村には及ばないと桃を音の通じる藤へ転移(先述の藤の考証を援用)させる。こうして蕪村→から藤村の仮定は、蕪村→から桃村、そして→藤村への転移として証明される。
 蕪村が出自を明かさなかったように、藤村も雅号の成り立ちを語ることはなかった。
 もっぱら芭蕉的なものを演出する作品と相容れない側面があったからだが、蕪村に由来するこの雅号を採用することによって島崎藤村は全人的なバランスを維持したのだ、と私は考える。

 であればこそ岸本捨吉の姪との過誤を描いた「新生」は、自己の芭蕉的なもの(捨吉)と蕪村的なもの(藤村)とを一体化させた、島崎藤村の到達点を示す記念碑的作品だということが出来るのである。

注記

少年時代の蔵書の署名(勝本清一郎「若き藤村の愛蔵書」『日本古書通信』昭和22.12

2 他に枇杷坊、葡萄園主人、六窓居士などが知られるが、出現頻度が少ないため、ここでは触れない。

3 和田謹吾「藤村的なるもの」(日本の近代文学4『島崎藤村』有精堂1983

4 井荻草坊主人(『日本古書通信』昭和38.4)は出典を明示していない。
  無声についても、漢詩に出典を求める説がある。関良一「藤村詩と先行詩歌」(『山形大紀要』昭和27.3)では、
  杜甫「過津口」の「甕余不尽酒 膝有無声琴」を無声の典拠にしている。

  私ならば同「春夜喜雨」の「随風潜入夜 潤物細無声」の方を採りたい。

5 瀬沼茂樹「評伝島崎藤村」昭和56.10筑摩書房

6 関良一「『藤村詩集』解説」昭和46.7講談社文庫

   7 村松梢風「近代作家伝」上巻1953新潮社

   8 和田謹吾前掲論文

9 「野ざらし紀行」の富士川の条の捨て子の話に岸本捨吉の名が由来するという研究がある(関良一前掲解説)。

 「岸本捨吉は川のほとりの捨て子という意味で、…藤村自身の孤児意識ないし流離の憂いの名辞化だと私は思う」。

藤村の「故人」(『女学生』明治25.8)には、夏を過ごした鎌倉扇が谷で「つづれに包まれたる捨子」を見つけたと自己  の体験を語り、富士川の条の「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」の句が引用されている。

  10 暉峻康隆「『蕪村集』解説」1978.4岩波書店
  
  11 瀬沼茂樹「『島崎藤村集』解説」昭和28.8 筑摩書房

  12 宇野浩二「芭蕉と藤村」(『俳句研究』昭和18.12

  13 佐藤春夫「対談『島崎藤村を語る』」昭和32.12現代日本文学全集月報 筑摩書房
  
  14 享保期の経済変動と毛馬村の関係については瀬木伸一「蕪村 画俳二道」1990.8美術公論社に依った。

  15 佐川章「作家のペンネーム辞典」1990創拓社
  
 16
この訳は吉川幸次郎「中国文学入門」昭和26.10弘文堂。

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