フェアリーテイル


 その娘はいつも空を仰いでいた。

 顔いっぱいに陽を受けて目をキラキラさせていた。

 僕はいつもそれを見ていた。

「あなたって、いつも私のこと見てるでしょ。興味あるの?」

 ある日突然、彼女は僕に話しかけてきた。

「いや、あの、その…」

 僕は慌てたのなんの。

 「いいの。私はなな恵。あなたは?」

 「渡辺っていいます。渡辺譲治」

 「渡辺君ね。車は動かせる?」

 「はい。大丈夫です」

 「じゃあ、あさって手伝って。いい?私引っ越すの。一人分だからたいした荷物は無いわ」

 「じゃ、ワゴン車を借りてゆきます。どこへ行けばいいんですか?」

 「当日、メールします。あなたの携帯のアドレスを教えて頂戴」

 彼女は僕のアドレスを携帯に入力した。

「なな恵さんの番号教えてください」

「電話はダメ。嫌いなの」

「じゃ、メールアドレスを」

「私から連絡します」


 なな恵から、先日の引越し手伝いのお礼にハイティーをご馳走するというメールを貰った。
彼女のアパートへきた僕の気持ちは熟していた。

「先週母がニューヨークへ発って、ようやく落ち着いたわ。父は私も呼び寄せたの。
 私が日本に残ると言ったので母と揉めたのよ」

「そりゃそうだろう。娘ひとり残るんだもの」

「私が強引に引越して、一人暮らしの既成事実を作ったから母も諦めたのね。」

僕にチャンスをくれた彼女の決断に感謝した。陽光に包まれた気分だった。

「なな恵さんは親離れしたんだ。アメリカに住んでみたい子も多いのに…」

「私も、高校受験で日本に帰るまでは家族でニューヨークに住んでいたのよ」

「そうなのか。帰国子女なんだ。 じゃあお父さんはその後ずっとニューヨークで単身赴任だったんだね」

「そうじゃないの。ある事件で会社をやめた父は日本に帰って家族一緒の生活をしてたの」

「事件って?」

「聞いてくれる?

 バブル崩壊のあと。マンハッタンのビルを買って大きな損失を出した会社が、というよりその取引を仕切った担当常務が、責任を全部支店長の父に押し付けてバンクーバー駐在に左遷したの。高校受験のために母と私が日本に帰る直前だったわ。

 私たちのために父も一週間の休暇を申請した。ところが出発当日の昼過ぎに届いたファックスに、担当常務から急な指示があるから明日東京の始業時間に本社へ電話するようにとあったの。

 時差は十七時間よ。午後四時にならないと東京は翌日の九時にならない。飛行機の出発は三時半だったわ。幸いエアカナダは各座席にクレジットカードで掛けられる電話がついているから、飛行機が飛び立つと同時に父は電話を掛けたの。

 でも、繋がらない。乗務員に尋ねたら、距離が遠すぎると繋がらないことがある、というのね。

 父は掛けつづけたわ。番号を入れ終わって通話ボタンを押すとカウントされるから、後で数万円の請求がきたほどよ」

「で、繋がったの?」

「数時間経って日本との距離が縮まってからね。常務は連絡の遅れをなじり、大切な時期に休暇をとって商機を逃したと父の責任を追及したの。本社に駆けつけた父を待っていたのは解雇の通告よ。二度もつづけて会社に損害を与えたという理由でね。

常務は、父に弱みを握られていたから追放したかったのね」

「イジメだね。休暇を承認しておきながら」

「電話が繋がらないことを計算の上で嵌められたんだ、と父は無念そうだった」

「卑劣な奴が出世するって、聞いたことがあるけど…」

「それ以来、母と私は電話嫌いになってしまった」

「目的のためには手段を選ばずだ」

「そうね。結局父は、そんな仕打ちの会社を見限って日本で暮らすようになった。 でも、このままで終わりたくないって、また知己の多いニューヨークに戻ったわ。そうして始めた輸出入代行業が軌道に乗ったので、私たちを呼び寄せることになったわけ…。 いやだわ。どうしてこんな話になったのかしら。もう一杯紅茶はいかが?」

彼女のサービスなら何でもいい。紅茶を注いでもらいながら僕は幸せに浸った。

「ねえ、渡辺君。ものは相談だけれど、私の所でバイトをしてくれない?時給は千円ほどしか出せないけれど」

彼女が僕を頼りにしてくれているんだ、と思うと嬉しさがこみ上げた。

「もちろんするよ。もちろん。僕でよければ何でもするよ。時給なんか心配しないで。僕は何をすればいいの?」

「私のオンラインショップの手伝いよ。週三回、午後二、三時間でいいわ」

僕は有頂天になった。彼女と一緒にいる機会がそんなに増えるんだ。

「ぜひ手伝わせてもらうよ。ショップでは何を扱っているの?」

「趣味の輸入雑貨。買い付けは主としてニューヨークから。父と連絡しあって…」

仕事は単純だった。商品がニューヨークから届くと、荷を開き、分類して商品棚に整理する。

彼女のノート型パソコンで購入申し込みをチェックし、オークションでは入札の推移を見て落札者を決定する。

商品を発送し、入金を確認のうえ顧客リストに載せる。

その間に、彼女は卓上型のマックに向かってホームページの制作に全力を注いでいた。新商品や新しい企画を紹介するページのでき栄えが売れ行きを左右するから当然だった。

二人だけの部屋で僕は期待感にあふれた。

「僕は人生を運命にまかせてもいいな」

「変な人。若いうちは自分を試さなきゃ」

「なな恵ちゃんと出合って親しくなれるなんてシナリオは、自分では書けないもの」

「先のことは分からないけれど、現実に直面して機敏に対応してゆくのよ」

ふたりで育てる果実が少しずつふくらんでいる、と僕は感じた。

収穫にはまだ早いが、ちょっと触れてみたい。

そばによって、さりげなく彼女の耳元に「少しは休憩したら?」と囁いたりした。

タイミングがいいと「疲れたの?お茶淹れようか」と返事が返ってくる。

彼女の気持も寄り添ってきたと思った。

しかし、たそがれ時になるとなな恵はことさらよそよそしくなった。

仕事が一段落したところでワインを飲もうよと、イタリアワインを買っていったが「ここは禁酒禁煙よ」と拒否された。

なんとかムードを盛り上げて抱き寄せようとCDを選んで持って行ったが、前奏が始まっただけで「やめて。そういう曲嫌いなの」と硬い一言が返ってきた。

誕生日を探り出してバラを買っていったが「折角だから一輪だけ戴くわ。花瓶が無いから持ち帰って」とそっけなかった。

もう少しで果実に手が届くと思うと、冷たくされるほど僕の思いは募った。気がつけばいつも彼女のことを考えていた。

半年余りが過ぎた小雨の夕方­―

今日こそはと思いをこめて画面に向かっている彼女の肩を背後から抱いた。

呼びかける声が上ずっているのが自分でも分かった。

一瞬身を硬くした彼女は僕の正面に向き直り、口をきっと結び睨むように見つめてから低い声で言った。

「勘違いしないで」

「あっ…」僕は狼狽した。「いや、その、言いたいのは、在庫が少なくなっているけれどニューヨークからの荷が着かないな、と…」

「いいのよ。もう発注してないもの。近いうちにショップを閉めるから」

「えっ、どうして?うまく行っているのに」

「私、ベネチアへ行くの」

「えっ、どうして」

僕は自分にほとほと愛想がつきた。少しは気の利いたことが言えないのか。

「ガラス工芸の修行をするのよ。前からデザインの仕事が好きで、自分に向いていることが分かってたの。身を立てるのはデザインで、と決めたの」

「だけど、突然ベネチアだなんて…」

「突然じゃあないわ。イタリアにいた頃は小学生だったけれど、ベネチアのガラス細工を見て魔法のようだと思った記憶は今でも鮮やかだわ。それを輸入して売っているだけではつまらない。自分で作品を作りたいのよ」

「でも、修行たって、どこで…。何年もかかるだろう?お金や言葉だって…」

「問い合わせていた工場から受け入れOKの連絡を貰ったわ。日本に残ってその返事を待っていたの。何度かやりとりして条件も具体的に詰めた。あなたに来てもらって仕事を減らした分イタリア語の勉強に専念して、少しは上達したし…。当座の資金は大学の授業料代わりに父に出して貰うわ。渡辺君だってまだ親がかりでしょ?」

僕は自分の迂闊さに唖然とした。彼女の身辺にいて何も気づかず、いつキスできるか、抱けるのはいつかと気もそぞろだった。その間に、彼女は目的に向かって一筋道を進んでいた。

僕は間抜けだ。幻想の果実に手を伸ばしていたのだ。全身から力が抜けた。


「なな恵さんはもう引き払いましたよ」と管理人は言った。「ひょっとして、あなたは渡辺さん?尋ねてもらって良かった。手紙を預かってますよ」

小型の白い封筒には「渡辺君へ」と表書きがあった。入っていた便箋は一枚だけ。

「渡辺君。いろいろありがとう。あなたのやさしさを利用してごめんなさい。お詫びのしるしにこれから使う携帯のメールアドレスを知らせておきます。よかったらアクセスして。なな恵」

僕は喪失感に圧倒された。

いつも空を仰いでいた彼女はかぐや姫だったんだと思い当たったが、慰めにはならなかった。

           落穂館目次へ     TOPに戻る