島のお医者さん

 じゃが芋とたまねぎのスープ、レタスとトマトのサラダ、茸とソーセージのバター炒め。先生のひとりぼっちの夕飯メニューです。ぜんぶ自分で作りました。
 お酒は飲みません。いつ何時急患があっても対応するためです。食後は届いたばかりの医学雑誌を読みます。すごい勢いで進歩する医学や薬学の世界におくれをとるわけには行きません。
 トントン、トン、誰かが戸をたたいています。
「はい、どなた?」
「先生、助けてください。赤ん坊が生れそうで、生れなくて…お願いです。来てください」
「そりゃ大変だ。行きましょう」
 翌朝、日の出と共に起きた先生は診療所兼住居のうらにある丘に登りました。目の下に海が広がります。先生は「とこしえに」と文字が彫ってある小さな石碑の前にひざまずきました。先生の手作りです。
「会えるまでもう少し待ってね」と先生はつぶやきました。
 ここに奥さんを葬ってからもう十年になります。ここで初めて奥さんに、いえ奥さんになった娘さんに出会ってから六十年以上になります。まだ研修医だった先生が、趣味にしていた海を渡る蝶の研究でこの島に来て、島小町と呼ばれていた娘さんに出会ったのです。先生は「ヤマユリのような人」が忘れられず、僻地医療を志願してこの島の診療所に赴任したのでした。
 トントン、トン、誰かが戸をたたいています。
「はい、どなた?」
「先生、助けてください。こどもが足の骨を折ってしまって…お願いです。来てください」
「そりゃ大変だ。行きましょう」
 島にたったひとりの医師はどんな病気も怪我も診なくてはなりません。一年中休み無しです。
 でも「あなたがいるから、いるだけで喜び」といつも言ってくれる奥さんとの日々。
 先生は幸せでした。
 その幸せをある日奪われて茫然自失の先生を立ち直らせたのは「先生がいるから、いてくれるだけで安心」と慕う島の人々でした。
 トントン、トン、誰かが戸をたたいています。
「はい、どなた?」
「先生、助けてください。こどもの熱が高くて…お願いです。来てください」
「そりゃ大変だ。行きましょう」
 ある日、先生は診療所の入り口に紙を貼り出しました。
『この診療所は今月末で閉じます。永い間ありがとうございました』
 驚いた島の人々が駆けつけ、口々にしゃべるのを制して先生は言いました。
「わたしは間もなく九十歳になります。卆壽です。もう老いました。皆さんにご迷惑を掛けることが起こらないうちに診療を卒業しようと考えました。この診療所には週一回医師が来てくれます。県がドクターヘリの制度を作ったので急患にはヘリコプターで対応できます」
 トントン、トン、誰かが戸をたたいています。
「はい、どなた?」
「先生、私、源やんです」
「おや、源さん、いま開けますよ」
 源やんが入ってきました。酒のビンをさげています。
「先生が酒を飲まないことは知ってますがね。もういいでしょう、卒業するんだから。せめて一杯でもやりましょうよ」
「そういうわけには…あと数日は診療するんですからね。このごろ毎晩のように急患もあるし…」
「そうですかい?あまりそういう話は聞かないが…」
「出産もあるし、こどもの怪我もあるし…」
「赤ん坊?こども?そりゃ変だな。島に妊婦はいなかったし、こどもがいなくなって学校も閉じるって話なのに毎晩のように急患なんて…変だな」
「見かけない顔でね、最近越してきたとか…。山の中や谷の奥に住んでてね。変といえば、だれもが頭をさげるだけで、都合が悪いと言って診療代を払わなかったなあ」 
 先生が島を去る日が来ました。息子の家族と暮らすためにフェリー乗り場に向かいます。その道すじには島の人々が総出で見送りに出ていました。そのうしろの山すそや森かげから乗り出すようにこちらを見ている小さな姿がありました。島の動物たちです。先生もそれに気付きました。
「そうか、お前たちだったんだな」
 

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