おにい、すこいぞ
「おじいさま。ゆうびんです」
「やあ、シュウチャンありがとう」
「なんのお手紙かなあ」
「ちょっと待ってよ。・・・ほほう。これはねえ、おじいさまがむかし通った学校がなくなるから、校舎にお別れ同窓会をしましょう、というお知らせなんだ」
「学校がなくなるの?」
「そうだって。廃校っていうんだけれど、子どもが少なくなって学校がいらなくなるんだねえ。困ったもんだ。どんどん子どもが減ったら日本はどうなるのかなあ」
「シュウチャンがいますよ、おじいさま」
「そうかシュウチャンがいれば安心だなあ」
* *
マサオが国民学校に入学したのは昭和十八年(1943)四月のことでした。
そのころの日本はアメリカやイギリスと戦争をしていて、小学校は国民学校と名前をかえていたのです。
もうすでに戦争の情勢は日本不利でした。しかし、それは国民にはつたえられず、「欲しがりません、勝つまでは」という標語のとおりに、しだいに不自由になる暮らしをみんながまんしていました。 マサオが入学したのは京都の街の真ん中にある成徳校です。
象牙色の三階建て校舎にはツタがからまり入学式には新緑が萌え始めていました。
校庭の片側には木レンガをしきつめた青桐の並木道が白砂の運動場へつづいています。音楽室には小型のグランドピアノがすえられていて、「お馬の親子は仲良しこよし・・・」と歌ったのをマサオはおぼえています。
入学前に文字を全部おぼえていたマサオには国語の教科書の第一ページ「アカイアカイ、アサヒアサヒ」なんてやさしいものでした。
マサオの住む京都は平穏でしたが、各地の大都市にはアメリカ軍機による空襲が始まっていました。爆撃でこわれた檻からトラやライオンやゾウが逃げ出すのをおそれて、動物園では毒薬で猛獣を始末していました。マサオ一年生の十二月には、文部省が縁故疎開促進を発表します。
縁故疎開というのは、都会から遠い地方に住む親戚や知り合いに子どもたちをあずけることです。子どもを安全な場所に移して、大人たちだけで空襲にそなえるのです。地方に知り合いがない家の子どもたちは、集団疎開に参加しました。田舎のお寺などに、先生が子どもたちをまとめて移り住むのです。
マサオが二年生になった春、おとうさんは町内会長にえらばれました。 回覧板の送り出し、もう自由に買えなくなっていた食料品の配給、空襲にそなえた消防訓練、出征兵士の壮行会など、戦争中の町内会長にはたくさん仕事がありました。役所から指定された工場の仕事をつづけながらおとうさんは一生けんめい町内のために働きました。
まもなく一年が過ぎようとする冬の夜、消防訓練でずぶぬれになったおとうさんは風邪をひき高い熱をだしました。熱は引かず「急性肺炎をおこしている」と往診のお医者さんはいいました。一週間たった夜ふけ、たくさんの人の話し声でマサオは目をさましました。「なんやろう」と思っていると、おかあさんがきて「いっしょにおいで」といいました。
おとうさんの寝床のまわりには何人もの人がいました。おかあさんは、おはしの先で小さな脱脂綿をつまみ、水でぬらしてマサオの手に持たせました。
「これでおとうさんの口を濡らしてあげて」
唇を濡らしてもおとうさんが静かにしているのをマサオは見つめました。
「もうええから、またおやすみ」
とおかあさんがいいました。
おとうさんの葬式から二カ月たたないうちにマサオは三年生になりました。
京都にも爆弾がおちた話がつたわりました。大きな火事にはならず、どのあたりに落ちたのかマサオにはわかりませんでした。でも、各地の空襲は激しくなり疎開強化がすすめられていました。
ある日、先生がいいました。
「集団疎開に参加するかどうか、お家の人と相談してくること」
三年生以上が疎開の対象でした。おかあさんはいいました。
「おとうさんが死なはったばっかりやし、四人でいっしょに暮らそう。行かんといて」
マサオには二人の弟がいました。上のヒロハルが来年学校、下のヤスヒロはようやく歩き始めたばかりです。マサオにはまだ長男の自覚はありませんでした。
「ぼくは疎開に行きたいねん」
なぜそんなに行きたかったのか、あとになって考えてもわかりません。家をはなれて、おかあさんのいないところでの暮らしがどういうものか、わかっていたはずがありません。なのに、マサオは行きたかったのです。
「ぼくは疎開に行く」
京都から日本海沿岸にそって門司へ向かう鉄道があります。山陰本線です。京都から数えて八駅目が「馬堀」です。いまこの沿線は嵯峨野線という名で呼ばれ、住宅もふえて京都への通勤圏になっていますが、そのころは田んぼの広がる田舎でした。
馬堀駅から歩いて二十分、南桑田郡篠村の如意寺がマサオたちの疎開先でした。
本堂とそれにつづく広間が子どもたちの住まいになりました。広間の奥が先生の部屋です。子どもは二十人もいたでしょうか。ふとんを並べて寝たのですから、本堂の広さを考えると十四、五人だったかもしれません。三年生は少なく、上級生がいばっていました。
朝は、ふとんを片づけて和尚さんといっしょに般若心経をとなえます。それから朝食です。
学校は、畑の中を四十分も歩いて通いました。木造二階建ての古びた校舎でした。黒土のままの広い運動場がありました。一度にたくさんの転校生を迎えた地元の先生も子どもたちも最初はまごついたことでしょう。
「町の子はへんな訛りで読むねえ」
と、マサオに教科書を読ませた先生がいいました。先生のほうがよほどへんな訛りなのに、とマサオは思いました。町の子との生活習慣の違いはいさかいのタネになりました。マサオは、クラスを仕切っている大柄な子とささいなことで取っ組み合いのけんかをしたことがあります。それがよかったのか、そのあとはお互いが理解しあえたようでした。
いちばんの問題は食べものでした。疎開の子どもたちの食べものの配給がどうなっていたのかわかりません。それなりの手当てはあったのでしょうが、食卓は乏しいものでした。近くを流れる鵜の川の土手でつんできた野蒜が夕食のおかずになりました。
いつもおなかを空かせていたマサオは、学校の帰りに畑のえんどう豆をとって食べてみたこともあります。生のえんどう豆が甘くておいしいと思えました。
学校に持ってゆく弁当は大豆入りごはんでした。米が乏しいので大豆で量をふやしたものです。たくさんの大豆が入ったごはんは口当たりが良くないうえ、長く噛みつづけなくてはなりません。マサオの弁当を見て「その豆ごはんは好きじゃない」と隣の席の子がいいました。その子の弁当は白米ごはんでした。
如意寺の部屋の自分の荷物にエビオスかわかもとのビンを隠している子がいました。ときどきポリポリかじっています。マサオはそれがうらやましくてなりませんでした。その薬の名前を知らないマサオはおかあさんに手紙を書きました。《ポリポリかじれる薬をおくってください》
日ざしが強くなって夏が近づくころ、家族の面会がありました。
大勢のおとうさん、おかあさんがそろって如意寺にやってきました。マサオのおかあさんもいました。ヤスヒロを背中にくくりつけ、ヒロハルの手をひいています。マサオはなんだかはずかしくて下を向いていました。
「どうした?何か困ったことあるの?」
おかあさんはマサオの顔をのぞきこみました。マサオはにやっとしました。
「元気そう。よかった」
おかあさんは京都の様子をいろいろ話してくれました。マサオはうんうんとうなずいて聞くばかりでした。お昼になっておかあさんは弁当を開きました。小さなむぎめしのお握りにシイタケと高野どうふの煮つけだけでしたが、おかあちゃんと食べるとおいしい、とマサオは思いました。
「今日はゆっくりしていられへん」
とおかあさんはいいました。
帰りの切符がないのだそうです。そのころは列車の便が少なくていつも満員。切符も取り合いでした。指定席券ではありません。乗車券そのものが手に入らなかったのです。
「老の坂のトンネルを抜けて歩いて帰るのやて。切符のない人はみんないっしょなんや」
弁当を片付けたあと「歩く人は出発しまっせ」と急かされたおかあさんがいいました。
「ポリポリかじれる薬のこと薬局で聞いてみたけど、わからん、そんなもんないていわれた。堪忍してや。その代わりにはならんけど、家に大事に取ってあったものを持って来たんで、ちょびっとずつ舐めたらええわ」
おかあさんが手渡してくれたのはハチミツのビンでした。
「わあ、すごい」
マサオはすっかりうれしくなり、笑顔でおかあさんを見送りました。そのときのマサオには、歩いて帰るというのがどれだけ大変なことかわかりませんでした。
ずっとあとになって、マサオは地図を調べてみたことがあります。
篠村から国道九号線を東南へたどって行き老の坂のトンネルを抜けると大枝沓掛に出ます。いま西京区に入っている沓掛には市立芸大もありバスも通じているでしょうが、当時は人里はなれた光仁天皇陵、大枝神社があるばかりで乗り物はまったくなかったでしょう。
篠村から沓掛までが登り下りで十キロb、沓掛から阪急線桂駅までさらに五キロbはあります。ヤスヒロを背負ったおかあさんが歩いて行ったことを思い、まだ一年生にもならないヒロハルが必死でついていった様子を思い浮かべると、しぜんに涙があふれました。
おかあさんが帰ってしまうと急にさびしくなりました。おかあちゃんのハチミツを大切にしようとマサオは思いました。
「ね、それなに?」
とつぜん声をかけられてマサオはおどろきました。
「あ、ノブオちゃんか。びっくりした」
おなじ三年生のノブオは五人兄弟の真ん中。「おとうさんが行けていうた」と、いちばんに疎開参加をきめた子です。五年生の兄も如意寺にいます。この日の面会にはだれも来なかったようで、マサオ一家の様子を遠くからじっと見ていました。
「ちょっと見せてえな」
「これはあかん」
「なんや、けち。盗ったるは」
ノブオはさっとビンをひったくりました。運動会でいつも一等賞をもらうノブオのすばしっこさにマサオはついてゆけません。
「あかん。だいじなもんや。かえして」
にげるノブオをマサオが追いかけ、まわりの子どもたちが何ごとかと集まってきました。
「何してんのや、ノブオ」
「あ、にいちゃん。マサオがこんなもんもらいよったんや」
「なんやこれ。ハチミツって書いてあるぞ」
ハチミツ、ハチミツ、そのことばは子どもたちの間に小波のようにひろがりました。
「ハチミツやて。ちょっと見せてみい」
六年生が手をだしました。
「ほんまや。ハチミツて書いたある。こら、ええなあ。ちょっと中身を調べなあかんな」
にんまりした六年生はビンのふたに手をかけました。マサオは泣きだしました。おかあちゃんのハチミツがみんなに食べられてしまう。なんとかして、先生なんとかして。
「先生、オオモリ先生」
マサオが大声で泣き叫んだので、先生が部屋からでてきました。いつもきちんと国民服をきている丸刈りあたまのオオモリ先生は、大きな目をぎょろりとさせてただ一言。
「しずかにせんか!」
子どもたちはしゅんとなりました。
「なに泣いてんのや、マサオ」
「おかあさんが持ってきてくれた・・・」
マサオがいいかけると、六年生がさっと前にでました。
「これです。先生。マサオがこれを持ってたんで注意してたんです」
「ちょっと見せてみい。なんやて、これは、ハチミツやないか。めずらしいもんやな」
「そうです。先生。この非常時に、こんなぜいたくなもんをマサオひとりだけ食べるのはいかんのとちゃいますか」
うしろのほうで「いかん」「すこい」という声がしました。
ビンを見ていた先生がいいました。
「ふん。たしかに、これはぜいたく品やな」
だれかが小さな声で「ぜいたくは敵だ」といいました。それを聞いた二、三人が「そや」「そや」とはやしたてました。
「よし、これは先生があずかる」
と、大きな声でオオモリ先生がさわぎをしめくくりました。
マサオは思いました。
《せっかくおかあちゃんが持ってきてくれたハチミツやのに、一口も食べられへん。そやけど、みんなに食べられてしまうよりはましや。先生があずかってくれたから安心や》
夏の間ずっと、マサオは腕や足の湿疹になやまされました。蚊やノミにさされたあとを引っかくとそこが治らずにできものになるのです。両足のヒザから下は一面できものだらけになりました。ほかにも同じようにできものだらけの子がいましたから、夏休み前の学校帰りにはいっしょにお医者さんによりましたが、ちっとも良くなりませんでした。
のちに、それは栄養不足が原因だったのだと聞きましたが、そのときわかっていても、どうにもならなかったでしょう。
夏空のはるかに高い青さの中を白い大きな飛行機が列をつくって通り過ぎるのを見ていたマサオは、それがB29という敵機だと聞きました。はじめて見る敵でした。でも、それははじめの終わりでした。夏休みのうちに戦争が終ったからです。マサオは、みんなの話で日本が負けたのだと知りました。戦争に負けるとはどういうことか、まだそれを理解する年齢に達していなかったマサオは、これでハチミツがもどってくるかなあと思いました。
九月にはいると集団疎開が終わることになりました。京都は他の都市のようにひどい空襲を受けなかったので、子どもたちの家も学校ももとのままでした。
「もうすぐ家に帰れるよ」
と、和尚さんがいいました。きっと、子どもたちがいなくなるのでほっとしたのでしょう。
出発の朝、おみやげにもらったサツマイモを肩掛けかばんにいれて、子どもたちが集まり始めても、先生から何もいってきません。マサオはもうがまんできなくなり先生をさがして声をかけました。
「オオモリ先生、もう疎開も終わりやし、あれかえしてほしい」
「なんや?あれって?」
「ほら、先生にあずかってもろたハチミツ」
「ハチミツ?」
先生の目が宙を見つめます。
「ほら、ビンにはいったハチミツ。先生があずかるっていって・・・」
「ああ、あれね。あれはねえ・・もうない」
「えっ!ないって!どうして。先生があずかるって・・・」
「そうやけど・・・、そうや、あれはなあ、もう使うてしもうたんや」
「そんな・・・、どうして・・・」
「あれはね、砂糖のかわりに煮物の味つけに使うてもろたんや。知らんかったやろけど、おまえも食べたんや。自分も食べたんやから、あきらめろ。さあ、集合、集合」
先生はマサオを残して行ってしまいました。
その日の夕方、集団疎開の子どもたちは成徳校に帰ってきました。
「運動場が白いなあ」
だれかが大きな声でいいました。白砂をしきつめた運動場が夕日に輝いています。一学期間見慣れた黒土の運動場はもう遠くなりました。整列した子どもたちの足元の砂の白さが疎開終了を告げているようでした。出迎えの親たちも校庭に集まっていました。うれしい再会です。もういっしょに帰れるのです。
「帰ったらおイモの天ぷら作るさかい」
おかさんがいいました。
「ぼく、おイモの天ぷら大すきや」
「そら、よかった。ほんまは、マサオの好きなホットケーキを作りたかったんや。けど、砂糖もシロップもハチミツもないし・・・」
「ハチミツ持ってきてくれたもんね」
「あれ、よかった?心配になってねえ」
「心配って?」
「ひとりだけハチミツを持ってたら、叱られんやろか苛められんやろかと気になって・」
「そんなん心配せんでもよかったのに。うまいこと隠しといて、ちょっとずつ舐めた。ちょうどなくなったとこで帰れたんや」
だまってついて来たヒロハルがいいました。
「おにい。ハチミツひとりで舐めたんか。そんなんすこいやん」
おかあさんに手をひかれたヤスヒロもいました。
「すこい、すこい」
「そうか。わるかったなあ。これからはなんでも分けてあげるさかい堪忍してな」
* *
おじいさまは手紙をたたみました。
シュウチャンをひざにのせたままで、久しぶりに京都へ行こうと考えています。
《同窓会に出て、あのツタのからまる校舎に別れをつげたら、つぎの日は馬堀まで足をのばして如意寺をさがしてみよう。そのあとで、いい機会だから歩いて老の坂をこえてみたい。そうだ、ハチミツを持って行かなきゃ。老の坂を遠くにのぞむ桂坂・西念寺の両親の墓にそなえよう。沓掛から桂までは歩かなくてはな。そこから西念寺までタクシーをつかっても許してもらえるだろう。ヤスヒロを誘ってみるか。幼かったあいつはなにも覚えていないだろうけれど》
おじいさまは、両親の墓とならぶヒロハルの墓を思いうかべました。日本経済の高度成長期に南米コロンビアへ送電線建設工事の渉外役で出張中に飛行機事故にあったのです。
《企業戦士というのか、あれも一種の戦死だったな。いまや残ったのは二人だけ。でも、ヤスヒロはまだ現役だから休暇がとれないかもしれん。まあ、話だけでもしてみるか》
おじいさまは電話をかけることにました。