おじいちゃんの山



一郎はその山をおじいちゃんの山と呼んでいた。去年亡くなったおじいちゃんによく山に連れてもらったからだ。

一郎はそのふもとに住んでいた。冬には雪がたくさん降ったが、雪解けには野山に花がつぎつぎ咲き、木々が芽吹くとからだじゅうが新緑に染まるようだった。

その年の春遅く、山の装いの変わり目の季節のことだ。

一郎たちの村から遠くない山のおくを二頭のツキノワグマが歩いていた。

のどに三日月型の白い模様があるクマだ。前を行くのが母グマで、ついて歩くのが去年生れの子グマだった。クマの子ども時代は短い。母グマのからだの中で次の赤ん坊を宿す準備がすすみ、その子の父となるオスグマを探せという自然のささやきが強くなってきていた。生きる知恵はすべて教えた。今日こそ子グマをひとり立ちさせなければ。

この子グマに名前をつけておこう。そうだな、ベガにしよう。

やがて母グマとベガはキイチゴがたくさん熟しているのを見つけた。

ベガは大好きなキイチゴを大よろこびで食べ始めた。ベガが夢中で食べている間に、母グマはベガに見つからないようにそっと立ち去った。

やがてお腹がいっぱいになったベガは母グマがいないことに気づいた。たいへんだ、と探したが見つからない。でも、ベガは泣いたりしなかった。二、三日前から母グマのよそよそしい様子に気づいていたし、ベガ自身もひとりで自由にやってみたいという気分が高まっていたから。ベガは、母グマが越えてはいけないと教えた山の向こうへ行ってみることにした。きっとおいしい食べ物もたくさんあって、楽しいところに違いない。ベガはひとりで出発した。


その日、一郎は姉の花絵と一緒に山へキイチゴを摘みに出かけた。

たくさん集められたら、おかあさんにジャムにしてもらうつもりだった。ふたりは腰につけたクマよけの鈴を鳴らしながら山道を登っていった。キイチゴはたくさん見つかったから、ふたりはいい気分で山の頂き近くまで登った。

そのとき一郎は不思議な音を聞きつけた。花絵も気がついて何だろうと辺りを見回した。そして「わあっ」と叫んだ。一郎も見てびっくりした。何千というハチの群れが向こうの林から湧き出して空を舞った。一郎の聞いた不思議な音はハチの群れの羽音だったのだ。

「ミツバチの引越しだわ」と花絵が言った。

「引越しだって?どうして?」と一郎が聞いた。

「ミツバチの新しい女王が育ったのよ。すると古い女王は家来を連れて別の巣に移るの」

「じゃあこの近くにミツバチの巣があるんだね」

「きっとそうよ。探してみよう」

 ふたりはハチの群れが飛び出してきた林の中へ入って行った。やがて一郎はミツバチが出入りしているブナの木の大きな穴を見つけた。

「きっと、あの穴の中に巣があるんだよ。ハチミツがいっぱいあると思うよ」

喜んだ一郎が近づこうとするのを花絵が引きとめた。

「子どもだけでは無理よ。巣を守るためにハチがたくさん刺しにくるわ。明日おとうさんと一緒に来てハチミツをとってもらう方がいいわ」

「じゃあ、この木が見つけられるように周りに目印をつけておこう」

目印をつけながらふたりが戻ってゆくのを、巣の入り口で門番をつとめる一匹のハチが見ていた。このハチにも名前をつけておこう。そうだな、ニーナにしよう。

ニーナは、あの子たちがもう少し近づいたらやっつけなくちゃと思っていた。ふたりが行ってしまったのでほっとして門番を交代した。明日からニーナはミツ集めの係りに代わることになっていたのだ。

とんでもないことが起こったのは翌日の明け方まだ薄暗いうちだった。


ニーナは巣の入り口が騒がしいのに気づいた。興奮した門番の「敵が襲ってきた」という合図が巣の中に伝わった。働きバチたちは急いで入り口に向かった。そのあとに続いたニーナは、巣の入り口がたちまち破られるのを見た。ものすごい力が巣をこわし、真っ黒なものが押し入ってきた。ハチたちは黒い敵に立ち向かった。


ベガも興奮していた。大好物のミツバチの巣を見つけたのだ。

首を木の穴に突っ込んでかき回しなめ回した。とても大きな巣で、ミツやハチの子がたくさんあることが分かった。

ハチたちが怒って襲ってきたが、分厚い毛皮に守られたベガは平気だった。鼻の頭や目の周りを狙ってくるハチたちを払いのけながら、ベガはさらに顔を突っ込んだ。中はご馳走でいっぱいだった。ベガはミツもハチの子も巣ごともぐもぐ食べた。


ニーナは、敵に立ち向かう仲間たちの攻撃が役に立たないのを見て、ここは逃げるしかないと考えた。でないと、みんな死んでしまう。何よりも女王さまを助けなければ…。

ニーナは「みんな、女王さまを助けて逃げるのよ」と叫んだ。

ニーナの合図は巣の中に伝わった。女王を守るハチたちは逃げる用意をした。

ベガが一息つくために穴から顔を引き出したとたんに、巣の中のハチたちは、女王を連れていっせいに飛び出した。それを知ったハチたちはみんな逃げる群れに加わった。

「こっちの方よ。こちらへ飛ぶのよ」ニーナは群れを黒い敵から引き離した。


その日の午後、おとうさんと一緒に山の林にやってきた一郎は、目印をつけておいた木の穴の周りにハチがたくさん死んでいるのを見つけた。こわれた巣のかけらも散らばっていた。

穴をのぞいたおとうさんは「こりゃあクマにやられたんだ」と言った。「なにもかも食べられてしまっている」

「じゃあもうミツはないの?」

一郎が半泣きの声をだすのにかまわず、おとうさんは「ここにいては危ない。クマがまだこの辺りをうろついているかもしれないから」と一郎の手を引っ張って家に向かった。


「ぼくのミツバチの巣を横取りされたんだ」と一郎は口をとがらせた。

「そうかな。あれは一郎のものだったのかな」とおとうさんが言った。

「だって、ぼくが見つけたんだよ」

「見つけたら自分のものというわけにはいかないよ。森では強いものが勝つのだから」

「じゃあ、あのミツバチの巣はクマのものなの?」

「ミツバチの巣はミツバチのものだ。しかし、昔からミツバチの巣はクマに食べられていた。ミツバチが黒い色に興奮して襲ってくるのは、クマに対する警戒心が遺伝しているからだと言う人もいるほどだ。一郎は森のしくみのひとつを見たわけだよ」

それでも一郎はがまんできなかった。にくいクマをやっつけなくちゃ。

一郎はおとうさんと役場へ行って「クマが村の近くまで来ている」と訴えた。


一郎はおとうさんに聞いた。

「あの巣のミツバチはみんなクマに食べられたのかな?」

「いや、食べられたのはハチの子やミツだけだ。生き延びる知恵をもつハチたちは巣を捨てて逃げたろうよ。新しい巣を作るためにね」

「どこへ行ったのかなあ」

「ハチは数キロも飛べる。山からこの近くまで新しい巣づくりの場所を探しているさ」

「この近くにくるといいね。探してみよう」

「当てなしに探すのは難しいよ。一郎が自分で巣づくりさせてみるかい?」

「そんなことができるの?」

「できるさ。昔はおじいちゃんがミツバチを飼ってたんだ」

おとうさんは物置から一抱えもある箱を取り出してきた。箱の中にはミツをためる巣板が何枚も入っている。

「この箱にハチを集めて巣作りさせるんだ」

「どうしたらハチを集められるの?」

おとうさんは、おじいちゃんから引き継いで自分の部屋で大切に育てているランの鉢植えを持ち出してきた。

「これはランの一種でキンリョウヘンという花だが、ニホンミツバチはこれが大好きなんだ。ネコがマタタビを好むのと同じかな。箱のそばにこの花を置いておくとハチが寄ってくる。箱に気づいて中に入ってくれたらしめたものだ」

さっそく、巣箱を背負い鉢を抱えたおとうさんは一郎を連れて山へ向かった。

「いま役場の人たちがクマのワナを仕掛けに山の上のほうに登っているだろ?この巣箱はふもと近くに置くことにしよう。でも、クマが捕まるまでは、用心のためにこの箱へはひとりで近づかないこと。いいね」


その夜ベガは良い匂いにひかれて山の頂き近くのくぼみに下りてきた。

その匂いはどうも、あの大好物のハチミツらしい。そのほかにも果物の香りがする。その香りがいちだんと強くなったところで、ベガは倒れた太い木の幹を見つけた。幹の中が空洞になっている。匂いはその中からただよってくる。

近寄っていったベガは、ふと不安になった。なんだか変だ。ベガは倒れた幹の周りを一巡した。べつに危険はなさそうだ。

ベガが大人のクマだったら、それが倒れた木の幹ではないことに気づいたかもしれない。でも、ベガはまだ人間を知らなかった。この世の中にドラム缶があることなど知るはずがなかった。なにかおかしい、という気持ちを、大好きな食べ物の匂いが押しつぶした。

ベガは中をのぞいた。ドラム缶をふたつつないだ中は深かった。食べ物は奥のほうにある。がまんできなくなったベガは中へもぐりこんだ。そして、ハチミツやリンゴを入れた箱に首をつっこんだ。そのとたん、箱に取り付けられたワイヤーが引っ張られ入り口の鉄の板が落ちた。

「どううん」という音と一緒にベガはワナの中に閉じ込められてしまった。


働きバチたちは朝早くから飛び回った。早く新しい巣づくりの場所をみつけて女王さまを呼ばなくてはならない。あの真っ黒な恐ろしい敵が来ないところを見つけなくては。

ニーナも飛び回った。あちこち飛んで疲れたころ、ニーナはとても良い匂いがただよってくるのに気づいた。それはニーナをうっとりさせた。しらずしらずニーナは匂いのもとに引き寄せられた。

とうとうニーナはキンリョウヘンの鉢を見つけた。驚いたことにすでに大勢の仲間のハチたちが花にとりついている。ニーナも強い力に引かれて頭から花の中にもぐりこんだ。あまりの心地よさに我を忘れてニーナは花の奥へすすんだ。ミツはない。でもこの良い気分はなんだろう。どれだけ夢見ごこちに浸っていたかニーナにも分からない。頭の片すみにあった女王さまを呼ばなくてはという思いがつのって、花の外に出たニーナはそばに置かれた巣箱を見つけた。ニーナは箱の中にもぐりこんで調べてみた。

「ここならすてきな巣作りができそう」

ニーナが箱の外に出たとき、いち早く知らせにいった仲間に案内され、女王さまを守るハチたちも群れをつくって次々に飛んできつつあった。

「みんな早く来て。ここに新しい巣をつくるのよ」


「役場から知らせが来たよ。クマがワナにかかったらしい」

おとうさんの言葉は一郎をよろこばせた。

「やったね。そのクマはどうなるの?」

「お仕置きをするのさ」

「お仕置きって何?」

「懲らしめるのさ。二度とこの辺りへ来ないようにね。ひとり立ちしたばかりの子グマのようだ。よく懲らしめてここは恐いところだと覚えさせてから、ずっと奥の山に放す」

「山へ放すの?」

「そうさ。クマの命も大切にしなくちゃ。クマも人も安心して暮せるように、遠くへ引き離すんだよ。そうだ、山に追い払う前に一郎もどんなクマか見ておくかい?」


ベガはようやく目覚めつつあった。眠っていた間のことは何ひとつ覚えていない。

あのとき「どううん」と大きな音がして入り口がしまり、閉じ込められてベガは怒り狂った。いたるところに噛み付き引っかき大暴れしたが外に出られない。くたびれ果てたベガは朝早く生れてはじめて人の声を聞いた。

「いまはじっとして動かないが…」

「ワナの電源が切れてクマが捕まったと分かったのが夜半前だったから、一晩暴れて疲れたのだろう」

「まず眠らせないといけないな」

のぞき窓から麻酔薬を打たれたベガはたちまち眠ってしまったから、役場の人たちがベガを調べて、体重二十九㌕、体長七十二a、推定一歳半、オスと記録し、首に発信機をつけたことなど、何ひとつ知らなかった。

その間に檻に入れられたベガは車で遠い山奥に運ばれた。

ようやく自分をとりもどしたベガが始めに聞いたのは「おっ、目が覚めたようだ」という人の声だった。格子のむこうに初めて人間を見てベガはとまどった。そして、一番小さい人間がしゃべるのを聞いた。

「ハチミツを横取りしたのはこんなに小さいクマだったんだ。ぼくはもっと大きいクマだと思っていた。おなかが空いて食べ物を探しまわって、あのハチの巣を見つけたんだね」

一郎は檻の中の子グマが少しかわいそうになった。

「そう。このクマにとっては当たり前のことだ。悪いことをしたわけじゃない。けれど人間の村に近づきすぎた。だからお仕置きをするんだよ。人を恐れることを体に覚えこませるのさ。さあ、一郎は車にもどりなさい」

人間が何かをつかんだ手を伸ばしたので危険を感じたベガは全身でほえた。それにかまわず役場の人はベガに向かってクマ撃退スプレーを浴びせ掛けた。

次の瞬間、ベガは目が見えなくなり息が詰まった。赤唐辛子エキスのスプレーを浴びせられたのだ。思わず息を吸い込んだ鼻、のどが激しく痛んだ。何が起こったか見ようとして開いた目に激しい痛みが走った。ベガは怒りを忘れ、自分を忘れて、おんおん泣いた。全身から力が抜けてぐったりした。

どれだけの時間がすぎたのか、気がつくと檻の格子が開いていた。ベガの本能が急き立てた。早く逃げなければ。ベガはよろよろと立ち上がった。

「もう戻ってくるなよ。お前の居所はいつも分かっている。発信機が教えてくれるからな」という声を聞きながら、恐ろしい敵から逃がれるためにベガは森の中へ駆け込んだ。ベガの耳に小さい人間の叫ぶ声が聞こえた。

「早く大きくなれよ」


「ハチが入っているよ」

一郎が大声で叫んだ。おとうさんと巣箱の点検にきたのだ。

「うまく箱を見つけてくれたな。さあ、これからだよ。巣づくりは…」

「これからどうなるの?」

「女王バチが卵を産み、世話係がハチの子を育て、働きバチがせっせとミツを集め、すこしずつ巣ができ上がってゆくんだよ」

「ミツはとれる?」

「とれるとも。たくさんミツが欲しければハチを大事にすること、というのがおじいちゃんの教えだった」

「大切にするよ。ぼくのミツを集めてくれるんだものね」

「ぼくのミツってのはどうかな。ハチたちは自分たちのものだと言うよ」とおとうさんは言った。「ミツはハチに分けてもらうんだよ」

「そうか。ハチはぼくのためにミツを集めるんじゃないものね」

「ミツを集めるハチを友だちだと思えばいい。仲良くすればいいことがある」


ニーナはミツをたくさん抱えて巣に戻ってきた。新しい巣を早く作り上げたいとハチたちはせっせと働いていた。

「女王さまにたくさん産んでもらって、この巣を私たちの力で立派にしたい」

ニーナは自分がいつまでも働けないことを知っていた。ミツバチの一生はとても短いのだから。でもニーナは安心していた。ハチの子がたくさん育ち始めている。次の女王のためのゆりかごもできた。ニーナたちの仕事を新しい働きバチが次々に受け継いで、この巣は立派になって行くだろう。命が尽きるまで働くのがミツバチの誇りだ。ニーナはミツを倉庫係にわたすとまた飛び立って行った。

ニーナたちはこの数日新しく花を咲かせ始めた林へ集まり、たくさんミツを運んでいた。


ベガは元気になった。

でももう恐ろしい人間に出会うところへは行きたくなかった。

まずこの近くの様子を調べてみよう。やあここは前にかあさんと来たことがあるぞ。はじめてハチミツを食べたところだ。

あの時のように、またハチの巣を見つけようとベガは森の奥へ歩いていった。


山の緑が深まり青空の雲の白さが増した。

今日は初めてミツをとろうというので、一郎と花絵はおとうさんと共に山に向かった。

風に吹かれる高いこずえから小鳥の声が降ってくる。木々の間の草原には夏チョウが舞っていた。気の早いセミも鳴きはじめた。

一郎が言った。「おじいちゃんの山では、いろいろな生き物が育つんだね」

「そうだよ。ブナやミズナラなどの木々、クマの子やサルやハチの子など動物や昆虫…」

「そして人間の子もね」と花絵が言った。

「人間の子?」

「うふっ、一郎のことよ」

「そう、一郎がこの山に学ぶことはたくさんある。分けてもらうものもね。今日はハチミツを分けてもらうんだ。さあハチに刺されないようにネットをかぶって。用意はいいか?」

 ミツのつまった巣板を引き上げるおとうさんの手元を一郎は目を輝かせて見つめた。

「しまった。来るのが遅かった。少し匂うな」とおとうさんが言った。

「どうしたの?何が遅かったの?」

「栗のミツがまじってしまったんだ。栗の花が咲く前に来るべきだった。栗のミツは匂いがあるうえ、少し苦味があるからね」

「楽しみにしてたのになあ。でも仕方がないね。ハチはぼくたちのためにミツを集めたんじゃないもの。けれど食べられるんなら分けてもらおうよ。ぼくたち友だちだもの」

「そうだな。ハチの働きに感謝しながらね」

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