人形武者たち

ことしの五月。久しぶりに武者人形を飾ってみた。三度の引越しに耐えてきた人形たちだが、子供が大きくなると出番がなかった。十数年ぶりの出陣である。

人形は三代分あるから数が多い。一番古いのは亡父のもので箱に「今上天皇」とある。大礼服で栗毛の馬に跨った明治天皇である。写真で見る通りの顔で立派な髭をたてている。ズボンは白で腰から裾まで金糸の縫い取りが走っている。天皇旗を持った徒歩の騎兵が対になっている。制服は肋骨飾りの黒服に真紅のズボン、黒長靴である。父は明治三十二年生まれだから、おそらくその年か前年に製作されたものだろう。ちょうど百年経っていることになる。作りは細部まで精巧だが、さすがに糊が劣化して天皇の髪の毛が抜け始めている。

次は私のもので、陣中で毛皮の上に床机を据えて腰を下ろした大将武者である。緋縅の鎧に竜を飾った兜を冠り、右手に軍配、左手に弓を持っている。所蔵の人形の中で一番大きく、血色のよい偉丈夫である。亡母の話では、母方の祖父が初節句のお祝いだと桃太郎人形を届けてきたが、父は気に入らず、吟味してこの人形を選んだのだという。その桃太郎人形も健在である。鎧の上に陣羽織を着て白馬に跨っているが、前髪立ちの幼顔である。父が選んだ人形と比べると気に入らなかった理由が分かる気がする。凝り性の父は、立ち姿と片膝ついた姿の家来を二体もとめて大将に合わせた。二体共に紫紺糸威しの鎧をつけ侍烏帽子を冠っている。セットではないから少し大小があるが、立ち姿のほうは満面朱を注いだ荒武者で錦旗を持っている。南北朝の武者といったところだろうか。片膝ついたほうは、白面の美男子で薙刀を小脇に抱えている。私は昭和十二年の生まれだから、この三体も六十年余り経っているのだが、繊維、金具、小道具にいたるまでほとんど傷みは無い。ただ、大将武者、荒武者の口の紅が少し剥げはじめている。

昭和十五年生まれの次弟のものは、白馬に跨った大将武者である。緋縅の鎧に竜の飾りのついた兜を被り、箙を背負っている。陣幕内から打って出る姿。ここにも父の思いがしのばれる。

末弟は昭和十八年生まれである。戦禍が広がり物資が欠乏し始めていた。もう武者人形は無かった、と母に聞いたことがある。だから末弟の人形は神武天皇である。材料も作りも他の人形に比べると粗末である。箱はベニヤ板でまことに貧相である。

いきさつは知らないが熊に跨った金太郎人形もある。人形のほかに、太刀、弓矢、陣太鼓、陣扇と采配、金塗り陣笠と乗馬鞭、錦旗、鯉幟(戸外用、座敷用)、家紋を書いた提灯一対などが揃っている。

息子が生まれたとき、もうこれ以上の人形は要らないと黒櫃に入った兜を買った。飾るときは櫃の上に置く。値段と相談だったから当然だろうが、作りは戦前のものよりは落ちる。とはいえ、この兜も早や三十年余を経た。人形と違ってひな壇には載らないから、どうしても仲間はずれになる。もっとも、当の息子はほとんど関心を持たなかった。モデルカーをバスケットいっぱいにしてどこへでも持ち歩き、やがて超合金のロボットや、ウルトラマン人形のほうに惹かれていった。

久しぶりに飾ったのだから、できるだけ見てもらおうと連絡したら、弟夫婦や長男夫婦がやってきた。懐かしんで眺めてくれて一族団欒ができて幸いだった。来られなかった娘夫婦に写真を送ったら、娘婿が「こんなに立派な武者人形とは思わなかった」と感心してくれたらしい。

と、いうところまではよかったが、これから先については私の思いと皆の意見は違った。

「これは一括して保存してもらったほうがいい。一体だけ引き取っても飾りようもないし…」と弟は言う。そのあとはどうする。「この人形たちはお父さんとともに滅びる運命だよ」と息子が言った。マンション住まいでは所蔵スペースが無い、というのが理由である。

 いずれももっともである。息子は「人形どころか、この家からして」と私たちの住まいを指して「最後はお母さんがリバースモーゲージ(財産活用サービス制度)を利用するしかないだろう?」という。自宅を担保にした在宅高齢者支援サービスで、利用者死亡時に担保物件で清算する制度である。妻が二世代同居を好まないことを承知した上の意見である。それはそれでいい。今の住まいは東京転勤を契機に私たち夫婦が購入したものだから、一代限りでいい。

引き継ぎたい私の生家は京都にある。いや、あった、と言うべきだろうか。次男だった父の結婚にあたって両親(私の祖父母)が本家の近くに建てて与えた居宅である。その家で私たち兄弟が生まれた。文字通りその家で産婆さんに取り上げてもらった。父が若死にしたから、国民学校二年生で私はその家を相続した。結婚してからも、転勤で離れるまで数年をその家で過ごした。長男と長女はその期間に生まれた。その後、生家はずっと人に貸していたが老朽化が進んだ。昭和二年の建築だから七十年余を経たわけである。借りていた人が出てからしばらくは空家で置いていた。

リタイア後に京都に戻ることも考えたが、そのままでは住めない。「修理は際限が無い。建て直すしかないでしょう」と棟梁が言った。居宅に建て替えるとすると資金の問題もあるし、首都圏に生活基盤を置く息子たちがいずれ持て余すだろう。先代から受け継いだものは次の世代に引き継ぎたい。これから先を考え、三年前に単身者用アパートに建て替えた。京の町屋の家並みを壊すのに気持ちの上の抵抗はあったが、すでに町内の東側の半ば以上が進出してきた大学のキャンパスに変わっていたから孤塁を守ることもあるまいと思った。それでも石灯篭、手水鉢、庭石や露地の敷石の一部など旧宅にあったものを少し敷地内に残したのは私の感傷である。これを収入のあがる資産として相続してくれればいい。償却が済めば跡地利用は次世代で考えてくれるだろう。

考えてみれば、引き継ぎたくてもままならないものは他にもあった。京都を引き払う際、亡母の嫁入り道具だった長持ちや衣装箪笥類の処置に困った。このときは大和高田に健在だった妻の祖母が「うちには空き部屋があるから」と助けの手を差し伸べてくれた。茶箪笥や段通など比較的かさの低いものは妻の実家に預けた。そのときは一安心したが、最早これらを引き取れる当てはない。息子の言う「この家の処分」のときにも大量の家財を整理しなくてはならないのだから。

島崎藤村の『家』に、橋本家へ嫁したお種が弟の三吉を案内する場面がある。「お種が案内したのは、奥座敷の横に建て増した納戸で、箪笥だの、鏡台だの、其他種々な道具が置並べてある」さらに姉は「暇のある時は、斯の家に伝はる陶器、漆器、香具の類などを出して来てみせた」「姉は今一つの窓をも開けて、そこにあるのは祖母さんが嫁に来た時の長持、ここにあるのは自分の長持、と弟に指して話し聞かせた」

その十二年後に、三吉は橋本の家を訪ねる。「『…まあ、俺と一緒に来て見よや』斯うお種は寂しさうに笑つて、庭伝ひに横手の勝手口の方へ弟を連れて行つた。…削り取つた傾斜、生々した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあつた。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かつた」

藤村は、時代の急転の中で苦闘しながら没落してゆく旧家の人々を描いた。三吉が「お雪何時だろうそろそろ夜が明けやしないか」と雨戸を一枚開けた時は「屋外はまだ暗かつた」が、『家』が書かれてから九十年経った今、夜はすっかり明けている。土台が朽ちてゆく家の中で守旧と革新の狭間に苦しんだ『家』の家族と異なり、崩壊して久しい家族制度のもとで現在の家族はそれぞれに個が確立されている。その一方、次世代に伝えたい種々は雲散霧消してゆく。

父の死後三人の息子を育て上げた母は初孫の顔を見て数ヶ月で急逝したから、妻が母と一緒に住んだのはちょうど一年間だけだが、わが家の習俗を最低限継承してくれた。たとえば、正月には、母にとって恐い姑だった祖母の肖像を描いた掛け軸の前で白味噌雑煮を祝う。旧盆には仏壇に献立の決まっているお膳を供える、など。息子の伴侶にもその一端を引き継いでほしい。彼女もわが家に来れば興味深く教えを受ける。しかし、異なる形態の住まい、違うライフスタイルの中に引き継げるものは多くは無い。しかも、慣わしは時とともに崩れてゆく。

三が日の朝を雑煮で過ごすのが難しくなり三日には普段のパン食になる。母が守り通した四日の水菜の雑煮、七日の七草粥、十五日の小豆粥の雑煮も消えて久しい。仕事をもつ妻が日替わりで献立の違う盆の膳を供えるのは無理で「一日だけで我慢してもらう」となったのは自然の成り行きである。

次の代になれば、葬式はともかく、周忌の法事など失念してしまうだろう。 『家』の三吉は、人手に渡った実家小泉屋敷跡を訪ねたおりに両親の墳に新しい墓石を建立するが、わが息子は住まいから五百`も離れた菩提寺にある墓を維持できるだろうか。その前に、マンションに引き取れない仏壇はわれわれ夫婦と共に消えるしかあるまい。

とはいえ、私の思い入れは個人の暮らしの周辺にとどまっている。家業が関わると継承への思いはさらに厳しい。時代の波に洗われて京都の伝統産業がいずれも衰退する中で、友禅染工場を営む妻の実家は着物需要の激減に抗するすべも無く四代目への継承を断念している。味醂醸造から味醂漬製造販売に転じた田中の本家は、大顧客だった室町繊維問屋街の衰微、若い世代の嗜好の変化、原材料の入手難など多くの問題に直面しながら、現状を維持して八代目へ継承するべく懸命の経営努力を続けている。

藤村没後半世紀余を経て、いままたそれぞれの家がおのおの問題を抱えながら新しい時代の夜明け前を迎えつつある。


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