妻の骨折


   

僅かの傾斜ちょっとした段差が大敵だった。いったん両足を踏ん張ってバランスを調整し、全重量を片足に矯めて他方を振り下ろす、その一歩一歩にエネルギーを消耗した。どこまで体力がもつか。気力を奮い起こして下る。突然背中の妻が言った。

「あの道を運転して来るのは無理かなあ」何のこと?問い質してようやく理解した。「リフト沿いに付いていた道か?あれはオフロード車でないと…」と答えて、気がついた。妻は対策を考えていたのだ。

ぼくは動転して「なんとか麓の車まで…」という思いに執着していた。そうだ。救援を呼べばいい。

「携帯は持ってるよね」

「昨夜使ったら圏外なので部屋に残した」

見通しの良いここからなら通じるだろうに。無ければ自力で下るしかない。覚悟して再び背負い上げる。まだ日は高いが暗くなる前にどこまで下れるか。

妻の鞠絵が足を滑べらせたのは頂上から下り始めて僅かな地点だった。勢いよく突き出された足が運悪く岩の裂け目に挟まった。

「あっ、骨が折れたかも…」という鞠絵の悲痛な声よりも先に微かに聞いた鈍い音が耳に残っていた。

起き上がったものの鞠絵の右下肢は萎えてしまい、座り込んだ帽子に赤とんぼがとまった。眼下の裏磐梯の景観はわれわれにはもう意味を持たなかった。

ちょっとした段差が下れなくて一息入れていると上のほうから足音が聞こえてきた。誰か来る。現われたのは頂上に一組だけいたグループだった。中年にはまだ間がありそうな先頭のリーダーにぼくは言った。

「家内が骨折しました。下のホテルに連絡をお願いできませんか」

「分かりました」とその人は携帯電話を取り出してボタンを押し「繋がりますよ」と手渡してくれた。応対したフロントに事情を告げ、最上部リフトの終点まで迎えに来て欲しいと頼んだ。

お礼を言って携帯電話を返すと思いがけない言葉が返ってきた。「じゃあ、あとは私たちで…」運びましょうというのである。

「そんな、申し訳ないこと。私が背負いますから」

「いや、私の方が若いから。大丈夫ですよ」

簡潔に仲間に指示して自分のザックを預けリーダーは鞠絵を背負い上げた。その態度と所作には訓練の成果を感じさせるものがあった。明らかにぼくより余裕のある筋力で小さい段差をこなした。

傾斜のある箇所は仲間のストックの支えを足場に下った。やや大きな段差では傷者を下ろさざるを得なかったが、交替の声を断ってリーダーは背負い続けた。時々揺すり上げて背負い直すたびに傷者に声をかける気遣いも忘れなかった。

リフト小屋の屋根が見え始めてからも相当の時間を要した。途中でひとりが腰に巻いていたコルセットを副え木代わりに鞠絵の足に巻きつけキネシオテープで止めてくれた。

携帯電話が鳴った。「作業道が尽きるリフト終点に着いたが会えない」という現在位置の確認だった。ぼくたちが見ていたのはリフト終点から上部に設置されたロープトウの小屋の屋根だった。連絡にひとりが先行した。

ホテルが手配してくれた救護員が登ってきた。「担架は?」という問いに「スノーボートしかないので…」という答え。「代わります」と救護員が背負ってくれたが、雪上救護しかしていないことは見ていて分かった。

登る途中で竜胆の群落を見つけた地点までゲレンデ上部を四駆が登って来ていた。ホテルマンが後部ドアを上げて鞠絵を収容してくれた。お世話になった方々にお礼を言って名前などを尋ねたが「いやあ。明日にでも副ええ木だけ返してくだされば…」

「救急車を手配しましたから」という言葉通りに救急隊がホテル玄関に待機していた。ゲレンデから作業道へ大揺れで下った四駆を救急車に乗り換える。ホテルマンが「必要な物があればお部屋から持ってきますが…」と言ってくれた。何も思いつかず「いや特に無い…」と答えたが、あとで悔やむことになった。その遣り取りを聞いた鞠絵が言った。「登山口からの車の回送を頼んでおいて」。

猪苗代のクリニックで痛み止めを打ってもらいX線撮影をして、右足踝の上部一五aの脛骨が大小とも折れていることがわかった。

仮措置が終って鞠絵が言った。「いまから帰れば深夜には家につくかなあ」午後四時である。ここで入院という事態になることを鞠絵はおそれていた。早く帰宅したいのだろう。夜のドライブを覚悟した。長い一日になる。

だが、そう簡単には済まなかった。ここではこれ以上の措置が出来ないからと中央病院へ転送されることになって治療費を支払う。旅先で保険証が無い。一旦は全額自己負担である。鞠絵のバッグの財布には五万円しか入っていなかった。妻と一緒の時にはぼくは財布を持ち歩かない。まして今日は山歩きである。お金が要るとは考えなかった。ホテルマンのアドバイスはこれだったと気がついたが後の祭り。再び乗った救急車の中で必要経費を胸算用した。残金では賄えそうにない。

中央病院で改めてX線撮影があった。「洒落たクリニックは若い綺麗な看護婦さんを揃えていたけれど、ここは実質本位ね」と鞠絵が囁いた。その余裕に驚いたが期せずして応急措置も出来ないクリニックの批判になっていた。中年の看護婦さんたちはとても親身で親切だった。整形外科の専門医がギプスを巻き「これを治療を受ける病院に」とX線写真のコピーと担当医殿宛ての封書を呉れた。「痛み止めは飲み薬と座薬を処方しますが、即効性があるのは座薬の方ですから」

松葉杖を借り看護婦さんの案内でトイレに行った鞠絵が戻ってきて言った。「ここはカード払いが出来るって。お金足りないでしょ?」

もう六時をまわって病院内もひっそりしてきた。看護婦さんがぼくに言った。「じゃあ、会計の方へ案内しますから一緒にどうぞ。奥さんはここでお待ちになれば?」時間外で半分シャッターを下ろした会計窓口で支払い手続きをする間、不案内なぼくのために看護婦さんはタクシーまで呼んでくれた。そこへ杖の音をさせて鞠絵が来た。「私のカードしか無いのでしょ?サインしなきゃ」

タクシーに乗る前に鞠絵が言った。

「夕食を部屋に運ぶよう頼んでみて」

「食欲あるんだ。よかった」

「何も食べないままで出発出来ないでしょ」

ホテルに状況を話して夕食の件も依頼し今夜中に出発したいと告げた。

会津若松市内からホテルまで一時間を要した。車中で考え込んでいた鞠絵が言った。「出発は明日の朝がいい。どこに居ても痛いのは同じ。早く出れば昼過ぎには着くでしょう?土曜日でも一時までならS医院の診察時間に間に合うから。夜は避けたほうがいい。運転を交替できないし、峠越えもあるし」

ホテルが用意してくれた車椅子を断り松葉杖で部屋に戻った鞠絵は、ルームサービスにしてもらった夕食をかなり良く食べたのち、旧知のS医師の自宅に電話して明日の診察を依頼した。クリニックで打った痛み止めの効力が切れる前に座薬を使ったほうがいいとぼくは言った。「そんなもの使い方が分からん」鞠絵が初めて見せた弱みだった。

翌朝、借用したコルセットに救援のお礼状を添えてフロントに預け、夜明けを待って出発した。精算時に優待券を貰った。「こんな物を呉れたよ」と苦笑しながら鞠絵に見せると「これはいい。このつぎに使えるわ」と言った。懲りていない様子が長旅の始まりに分かって頼もしかった。

国道経由で猪苗代から磐越道にのり郡山ジャンクションから東北道に入った。夜行長距離便のトラック以外は走っていない。高速走行で蓮田SAへ直行した。身障者用トイレで用を足し川口から首都高に入った。

渋滞が始まる。九時をまわると鞠絵は電話を掛け始めた。留守番の娘に事情を告げ「いいの、あなたは予定通り出掛けて。居てくれたからって痛みが無くなるわけでなし」。

自宅で開いている学習塾の助手には「足が利かなくなったので急で悪いけれど月曜日に準備にきて欲しい」と連絡した。「火曜日は予定通り。一回も休みません」。

湾岸線は空いていたので十一時には横浜の南の端にある自宅に帰りついた。

一息入れてからS医院に向かう。「S先生はきっと手術はなさらない」という鞠絵の予想通り「これはスキーの骨折と同じ折れ方だ」という解説つきで患部の状況をX線画面で見ながら、膝上から爪先を残して甲までを覆うギプスが巻かれた。診断は「八週間」だった。

二階の寝室には上れないのでリビングのソファをベッド代わりにした。一人の方がいいというので、用事があればと内線電話を枕もとに置いたが電話は鳴らなかった。

考えてみれば鳴るはずは無かった。結婚してからリタイアまでの三十三年間、めったな事ではぼくの職場に電話を掛けなかった鞠絵である。子供たちは三人とも勤務から帰宅すると生まれていた。隣家が昼火事で全焼したときも、末の子が交通事故で重傷を負ったときも、帰宅後に鞠絵の活躍を「武勇伝」として興味深く聞いた。

四十日を超えた海外出張から戻った日には空港まで出迎えた鞠絵が言った。「まず報告。家の買い替えは決めたわ」当該物件エントリー五番目で不成立を予想して出発したのに、先の人たちが次々に辞退あるいは失格して順番が廻り早急の決断を迫られたのだという。

通算五年になった二度の単身赴任も後顧の憂い無しに全うし得たが、思春期や受験期にあった子供たちとさまざまな葛藤があったろうにと、今にして思う。出来事のそれぞれが鞠絵にとって修羅場であったろう。とすると、この骨折ごときの対応はむしろ容易だったということか。

日曜日一日を横になって過ごした鞠絵は、月曜日の助手との作業から活動を始めた。

娘は早朝出勤、深夜帰宅であてに出来ない。家事一切の主夫業と教室の支度と片付けがぼくの仕事になった。学習日は火曜日、金曜日である。鞠絵は午後一時から九時近くまで四人の助手を指揮して、やってくる数十人の小中学生を指導した。

「教室が終ったら直ぐにトイレを掃除してね」と言われていた。最初の火曜日は無事に済んだ。次の金曜日に「ああ疲れた。お腹空いた」という言葉を聞きながら食事の支度をしていたら「汚れたトイレは松葉杖では使えない。直ぐに掃除だと言ったでしょ」という大声が聞こえた。疲労と痛みの極に達していたのだろう。

これほど感情を露わにしたのはこの時だけだったが。学習日以外も事務処理、教室便りの作成、事務局への連絡などの仕事が発生する。負傷翌週の水曜日に上大岡へ送迎して欲しいと頼まれた。聞けば新任指導者養成講座で話をすることになっていると言う。早くに決まっていたことで土壇場でのキャンセルは出来ないとのこと。何とか担当の二時間をこなしたそうだ。

これまでは一切ぼくに関与させなかったから、初めて見る職業人としての妻の顔だった。子育てと家庭のロジスティックスを抜かりなく遂行しつつ鞠絵は二十五年この仕事を続けてきた。当然のように長い年月負わせてきた妻の苦労にようやく気がついた。今回ぼくに役割分担が廻ってきたのだ。

長男の伴侶のユミちゃんが見舞いに来てくれた。彼女は骨折体験者である。「おかあさま、痛むでしょう」という言葉に真実味があった。鞠絵は事務局の男性たちを黙らせた得意の科白を放った。

「痛いたって、お産に比べれば…」

「まあ」出産未経験のユミちゃんは真顔になった。「やはりお産は大変なんですね」

孫待望の鞠絵は慌てた。「ごめん。冗談よ。お産の痛みは間歇的だし…」と取り繕ったが、鞠絵が犯した唯一の失敗だった。

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