還れぬ人


 伯父から電話があった。
「香菜ちゃん。都合のいいときに学校の帰りにでも会社のほうに寄ってくれないか?見せたいものがあるんだよ。鰻でもご馳走するから」

鰻か。そういえば若葉が鮮やか、晴れた日は汗ばむ季節になった。
 母方の祖母が九十五歳の天寿をまっとうしてからもう三ヶ月になる。臨終から葬儀、逮夜、忌明けまで万端を仕切った伯父もやっと落ち着いたのだろう。伯父は四人きょうだいの長兄で、末っ子の母とは十五歳も違うから、早く亡くなった父にかわって妹を可愛がったという。
わたしは伯父にとっては孫娘のような存在なのだろう。何かと声をかけてくれる。
 数日後の夕方、伯父がやっている築地の小さな水産会社を訪ねると竹葉亭に案内してくれた。座敷に通されて蒲焼を注文し、ビールで乾杯したところで伯父が言った。

「電話で言った香菜ちゃんに見せたいものというのは、これなんだよ」

伯父が風呂敷包みから取り出して座卓の上に載せたのは、和紙を綴じた冊子と大学ノートだった。いずれも古色いちじるしい。

「おばあちゃんの遺品を整理していたら出てきたものだけれど、ひょっとして、香菜ちゃんに興味があるかもしれないと思ってね。ざっと目を通しただけだけれど、この和綴じの方はおばあちゃんの母親、つまり香菜ちゃんの曾祖母が書いたもので、それを貰ったおばあちゃんがつづきを書いたのがこちらのノートらしいんだ」

「ずいぶん古そうね。いつ頃書いたものかしら」

「和綴じの方は、明治二十四年の夏に書かれている。その時期、タイトルになっている坂元わさという人物がひいおばあちゃんの実家の田辺家に滞在していたんだな。その人の話を記録した、ということらしい」

和綴じの冊子を手にとると、表紙に毛筆で「坂元わさ女のこと」と書いてある。中身をちらと見て悲鳴をあげそうになった。毛筆で書いた句読点のほとんどない雅文が続く。

「これはまるで樋口一葉の『日記』ね。わたしには簡単に読めそうもないわ」

「そう、ちょうど一葉と同じ時代に書かれたものだ。その頃ひいおばあちゃんは十八か十九で、開校して間もない共立女子職業学校、のちの共立女子大につながる学校に通っていた当時のインテリだったんだよ。わさ女の話に感動したのだろう。それで聞き書きをまとめた。面白いのはその先でね。」

伯父はビールを一口飲んだ。

「これを書いたのはいいが、発表するあてもないままに三十年余り放っておいたらしい。ところが大正十三年の東宮裕仁つまり皇太子時代の昭和天皇の結婚に当たって、この聞き書きを思い出す出来事が起きたんだ。その時には、ひいおばあちゃんは結婚していて娘がいた。亡くなったおばあちゃんの若かりし頃だ。で、おばあちゃんに言ったんだな。『ちょうどお前の年頃に私が書いたこの聞き書きのつづきが、今ごろになって新聞に出ている』ってね。その話に興味をもったおばあちゃんが、聞き書きを読んで『私がこのつづきを調べてみる』ということで、書いたのがこちらのノート、ということらしいんだよ」

「おばあちゃんらしいわ。口癖だった『府立第一高女の才媛』の面目躍如ってところね。で、その出来事ってなんなの?」

香ばしい匂いを先にして蒲焼が運ばれてきた。急に空腹を覚えた。

「や、うまそうだ。食べながら話そう。どうぞ、めしあがれ」

「いただきまーす」

ノートのほうはペンで書かれていたが、月日の経過でインクの色がやや薄れている。こちらは句読点もあって、なんとか読める。

「はじめのページに『母上の手記に記載の所番地へ計介贈位の祝辞を書き送ったところ返信あり。わさ女健在を確認』とあるわ。この『計介贈位』というのが大正十三年の出来事なのね」

「そう。摂政だった東宮慶事に当たって叙位叙勲が行われたんだな。その計介というのは、わさ女の弟なんだが、二十五歳で戦死したこの弟を軸にして、わさ女の生涯が展開して行くんだ。それに気づいて、これは日本近代史専攻の香菜ちゃんの役に立つ資料じゃないかな、と感じたんだよ。卒論のテーマを決めなくちゃ、と言っていたろう?」

そうなのだ。この夏が山になる。それまでにテーマを決めて資料読みをしなくてはならない。急に宿題を思い出した気分になった。

「明治維新、富国強兵、大日本帝国憲法、海外派兵といった日本近代史の歩みと、わさ女の決して幸せいっぱいだったとはいえない生涯が裏表の関係にある。それを曾祖母、祖母が記録しておいた。最初は百年以上前に書かれたものだよ。それを三世代目、いや香菜ちゃんだと四世代目になるのかな、我が一族の四世代目が使用して、今だから見ることのできる資料や現代の解釈を加えて完結させられたら、どんなにすばらしいことか、と思ってね」

あっと思った。そうなのか。伯父の思いはそこにあったのか。なんてすてきな構想。
 『ある女が歩んだ日本の近代』なんて仮タイトルが思い浮かんだ。
 それぞれの施策が一庶民にどのような影響を及ぼしたか。一人の女性が体験した日本近代史。しかも原資料は目の前にある。
 やれそう、と思った

『明治二十四年水無月坂元わさ女宮崎を発ち大阪をへて上京し田辺助右衛門方に参らせ給ふひと月あまり宿り給ひしあひだものがたりし給ふわさ女の越し方を書き記さんと思ひたちて筆をとりぬ。ききがきなればものがたり給はりしまま記すべきものなれどおのが知らぬ故におくに言葉おくになまりのそのままにしたためるはいと難しくあれば我が知りしこと知り得しままに書き記しぬ』

とにかく読まねばという思いだけで翌日からわたしは読みにくい毛筆の手記を判読していった。

意味の良くとれない部分もあり、背景を知らないと理解できない事柄もあった。記述が簡単すぎる個所は他の資料で補う必要もあった。わたしは図書館を回り関係する資料を漁った。大学だけでは足りず、公立図書館、国会図書館にも足を運んだ。
 そのうちに事項毎のコピーやメモが溜まって収拾がつかなくなってきたので、整理してノートを作ることにした。これをパソコンに入れておけばあとで自在に料理ができる。
 まず、前提となるわさ女と計介の関係をまとめることにした。

                 一

「嘉永六年癸丑(一八五三年)三月二十二日(原文は陰暦で記され二月十三日となっている)、日向国東諸県郡倉岡村の郷士坂元利右衛門の妻である横山郷兵衛の娘うめが、わさの弟である男児を出産した。この子は諸次郎と名づけられた。坂元家には、この子の上に姉わさのほか、兄正八がいた。
 諸次郎の誕生後わずか三ヶ月で生母うめが病歿した。利右衛門は乳母とくに諸次郎を託したが、自分の子を連れていたとくは三ヶ月を経ずに去った。利右衛門は、諸次郎を穆佐(むかさ)郡小山田の池田氏へ里子に出した。池田の妻ちよが倉岡郷の出であった。しかし、半年足らずでちよの乳が出なくなり、安政元年(一八五四年)春に諸次郎は利右衛門のもとに戻ってきた。
 諸次郎の養育はおのずから八歳年上の姉わさの仕事になった。姉は諸次郎を抱いて遠近をとわず貰い乳に歩いた。乳が貰えない時は重湯を飲ませたようだ。その頃の諸次郎は、やせてお腹ばかり大きな子であった、とわさは語っているが、おそらく栄養失調気味だったのだろう。
 二歳の年に継母うめが坂元家に入り、三年で去ったが、わさを慕う諸次郎にとっては何程のこともなかった。

安政三年(一八五六年)、四歳になった諸次郎は谷村平兵衛の養子となり、谷村姓に変わった。平兵衛は文政四年(一八二一年)に死亡していて谷村家は三十年余絶家していたから、谷村家の継嗣となった後も、諸次郎は利右衛門とわさのもとにあった。

倉岡は薩州藩領の最東北端にあったので、利右衛門は士として島津氏に隷していた。父の士としての誇りは、息子の教育にあらわれた。六歳になった諸次郎は陶山謙斎に就いて読書と書道を習った。その後、寺子屋式で約二年加藤担斎に師事した。剣術は石川与左衛門と田中六左衛門に就いて示現流を、槍は緒方七郎左衛門、弓は佐竹太郎左衛門、馬術は川口祐衛門の子強衛門から、それぞれ手ほどきを受けた。いずれも免状を受ける域には達しなかった。

わさは十九歳で同郷の郷士加藤利易へ嫁入りした。利易は諸次郎より七歳年長だが近隣の交遊仲間であったから、諸次郎も姉の婚家に親しく出入りした。わさの嫁入り後に継母もりが入来したが、数年で去ったようだ。諸次郎は十五歳で元服して名を計介と改めた。

やがて、幕末の歴史のうねりが計介の身近に押し寄せてきた。
 慶応四年(一八六八年)計介十六歳の年、戊辰の役が起こった。十歳年上の兄正八改め休太郎祐光は鹿児島藩番兵三番隊兵士として参戦した。汽船で越後路へ向かい秋田付近の船川に上陸し、大曲、椿台の各地で庄内兵と激戦を交えたのち、追撃して庄内鶴ヶ岡城を開城、会津若松城まで達して同年十二月に帰郷してきた。
 計介に時代の変化を印象付けたこの役のあと、王政復古で新政府が発足、江戸開城、天皇即位と大きな出来事がつづいた。この年の内に年号は明治に改まった。

翌明治二年(一八六九年)正月二日、計介は姉わさの夫加藤利易と共に戸長佐竹昌保宛ての書き置きを残して鹿児島遊学のために出奔した。計介十七歳、利易二十四歳であった。誰にも知らせない計画であったが、わさだけは知っていたらしい。二人は薩摩の関所として知られた去川関を密かに抜けて、鹿児島平の馬場の園田塾に入ろうとした。しかし、入塾しようとした二人は番所抜けの罪で捕らえられて国許に帰された。帰郷後謹慎して許された二人は、翌三年父兄の諒解を得て通関手形も取得し、知己友人に見送られて晴れて園田塾に入った。師の園田成章からは山鹿流の兵学を学んだ。計介は学僕として師に仕え、学資を免除された」

計介にとって姉わさは育ての母であったし、わさにもその思い入れがあったとわたしは考える。 時代の変化に対応しようとする計介の思いを、わさは母の心で大きく包み込もうとしていたのであろう。しかし、あたらしい世に飛躍したいと願う計介の意思はそのわさの思いを越えて行く。


                    二

「明治四年、一年間の修学を終えて計介が郷里に帰ると、留守中に利右衛門は丸菅源五衛門の長女十七歳のとよを計介の妻に貰い受けていた。
 翌五年二月十八日、月足らずの女児が生まれたが生後四十二日で夭折した。この時二十歳であった計介は、女児誕生を待たず鎮西鎮台に壮兵として志願し、二月七日に鹿児島分営三番小隊二等卒として採用されていたため、我が子の顔を見ることはなかった。

熊本に鎮西鎮台が置かれたのは明治四年(一八七一年)十月のことで、計介志願のわずか数ヶ月前であった。同時期に東京、大阪、東北に鎮台が設置された。この時、国民皆兵の徴兵令はまだ出ていない。
 計介の壮兵志願の理由は明らかではないが、新時代の風雲に乗じるために士族の子弟が選び得る進路は官吏か壮兵しかなかったであろう。
 明治五年(一八七二年)七月、入隊半年足らずで計介は熊本城に置かれた本営第十二大隊六番小隊に異動する。

この年十一月二十八日に徴兵の詔が出た。『全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス』というこの詔は翌六年一月十日、徴兵令として発布された。国民皆兵の時代に入ったのである。兵制が改まって新たに名古屋、広島に鎮台が設置され、東北鎮台は仙台鎮台、鎮西鎮台は熊本鎮台と改められた。
 計介は四月に対馬に派遣され、六月に一等卒に昇進、七月には第十一大隊七番小隊に異動、さらに八月に第三中隊に編入されて熊本本営に帰った」

計介が妻子を置いてわさのもとを去ったのは明治五年二月である。それから明治十年三月に戦死するまで郷里に帰らなかった。したがって、この間のわさからの聞き書きは、伝えられたわずかな消息以外に計介に関して多くを書きとめていない。
 しかし、この間に計介とわさの前途を定める出来事が、日本の近代国家への発展途上で起きていた。一兵士であった計介にその経緯を知るすべはなかったろうし、わさにとっては文字通り雲の上のやり取りだったろう。無縁に見えた事件がやがてふたりを巻き込んで行く。
 わたしは、ある人間の一生を左右する状況の展開を調べることに、次第に楽しみを覚えていた。

「 明治六年(一八七三年)六月、朝鮮から変報が届いた。朝鮮政府が日本人排斥の令を発し、釜山・草梁倭館の門前に日本を無法の国と侮辱した書札を掲示した、というのである。

朝鮮国とは意思疎通が滞っていた。王政復古以来の日本の国書は、天皇が朝鮮国王より上位にあることを示す『皇室』『奉勅』などの字句を含み、新印を使用するなど日朝外交文書の旧例に反するという理由で受け取りを拒絶されていた。かねて燻っていた征韓論が澎湃として起こった。 天皇は太政大臣三條実美に朝鮮事件の処理を命じた。
 参議西郷隆盛は、軍隊派遣の前に公理公道をもって彼の国を諭す全権使節の派遣を主張し、みずからその使節を志願した。
 三條は、欧米派遣の特命全権大使右大臣岩倉具視の召喚を奏上し、岩倉に帰朝を命じた。隆盛は三條を訪問して『国内には内乱の発生を願う兆候もあり、その鬱勃たる気鋒を海外に転じて国威を発揚すべきだ』と説いた。

 八月十七日の閣議は、一旦朝鮮国遣使を内定した。しかし、上奏に対する天皇の勅は、西郷の朝鮮遣使は岩倉の帰朝後『相熟議シ、更ニ奏聞スベシ』というものであった。
 九月になって岩倉具視が帰朝し、討議が再開された。朝鮮国派遣を急務とする西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らと、政府の基礎を固めて列国に対するためロシアとの国境論定を急務とする岩倉、大久保利通、大隈重信、木戸孝允らの論争は沸騰したが、遂に十月十五日の閣議は隆盛の朝鮮国遣使を決定した。
 上奏に先立って、三條は十七日の閣議で今後の方略を討議しようとしたが、岩倉は病と称して引きこもり、大久保、木戸はともに辞官を願い出た。三條は閣議を延期し、岩倉を訪ねて懇談したが、岩倉もまた辞官を告げた。

翌十八日早朝、進退極まった三條は、自身の辞官の執奏を要請する使者を岩倉に送った後、劇症を発して人事不省に陥った。
 二十日、天皇は内幸町新シ町の三條邸に実美を見舞ったのち、馬場先門内の岩倉邸に臨幸、具視に対し『汝具視太政大臣ニ代リ朕ガ天職を輔ケヨ』と勅を降した。
 十月二十三日、太政大臣摂行となった岩倉具視は天皇に謁見して閣議の顛末を奏上し、併せて朝鮮国遣使が不可である理由を述べた長文の意見書を上申して宸裁を仰いだ。事態の反転を察した西郷隆盛はこの日のうちに病と称して辞官並びに位記返上を上申した。

明治六年(一八七三年)十月二十四日九時、参内した岩倉は『今汝具視ガ奏状之ヲ嘉納ス』という勅書を受け、征韓派は敗れた。
 同日、板垣、江藤、後藤、副島が病の故をもって辞表を提出、二十五日には少将桐野利秋が辞表を提出した。二十七日から二十九日に至る三日間に近衛局長官篠原国幹以下将校四十六人が辞表を提出した。『爾後薩長土肥の俊壮の士、職を辞して去るもの多く殊に薩人の如きは過半隆盛の後を追ひ帰県するに至れり』という。こうして、翌年二月の佐賀の乱から明治十年の西南の役に至る内乱の種子は地に落ちたのであった」

                 三

わたしは、わさと計介が一別以来の五年間に取り交わした手紙の類を見たいと思った。たとえ残っているとしても、現地調査でもしない限り実物が見られるはずもないが、計介が死後脚光を浴びた時点で写真版ででも何かに掲載されていないかと調べてみた。
 ねらいは当たって計介が書いた二通の手紙の一部写真が掲載された書物を見つけたが、手紙は曾祖母の毛筆の比ではなく、判読不能なまでに崩し書きされていた。
 平時であったから、わさは計介の身の上に大きな不安もなく対馬からの便りも読んだことであろう、とわたしは思う。しかし、計介熊本帰還の便りにわさがほっとした時点で、すでに地に落ちた運命の種子は芽をふいていたのだ。わたしは計介が初めて表舞台に登場する部分を次のように要約した。

「明治七年(一八七四年)二月、参議を辞したばかりの元司法卿江藤新平と、元侍従武官長の島義勇を首領とする佐賀の乱が起きた。『朝鮮国の暴慢無礼を責めざるは、実に国権を失墜するの甚だしきものなり』として政府の方針に反対する征韓社、新政を喜ばず封建の旧制回復を主張する憂国社の両派を中心に、新政府に不満を抱く佐賀県士族を結集してその勢三千余人に及んだ。
 佐賀県士族暴動の兆しの報は二月三日に内務省に達し、陸軍省は即日熊本鎮台に出兵を命じた。
 おりから佐賀県権令として東京から赴任途中の岩村高俊が熊本鎮台に到来し、護衛の出兵を依頼した。鎮台は出兵に決し、第十一大隊を二つに分け、右半大隊三百十六名を大尉山代清三(参謀・少佐佐久間左馬太)が率いて陸路から、左半大隊三百三十二名を大尉和田勇馬(参謀・少佐山川浩)が率い、岩村を護衛して海路から、それぞれ佐賀へ進撃させることにした。一等卒谷村計介は左半大隊に属した。

左半大隊が乗船した汽船乃母丸、舞鶴丸は二月十五日に熊本の百貫石港を出た。その日のうちに両船は筑後川河口の早津江港に着き、兵員は首尾よく佐賀城に入った。
 この動きが一触即発の臨戦態勢にあった佐賀士族を刺激した。
 翌十六日、佐賀士族は挙兵して佐賀城内の県庁を襲撃した。城は完全に包囲され佐賀軍は城門に迫った。鎮台側には歩兵銃しか無かったが、寄せ手は大砲による攻撃を仕掛けてきた。鎮台側は寡兵にして十分な弾薬・糧食の備え無く危殆に瀕した。その上、山川少佐を初め、大尉奥保鞏、同大池蠖二らが重傷を負い、大池は死に至った。夜に入って包囲軍が水道を遮断したが、城内には井戸が一つしか無かった。

十七日から十八日にかけて砲撃が続き、このままでは全滅するとの判断から、鎮台兵は三梯団に分かれて出撃し囲みを破って進軍途上の右半大隊と合流することになった。
 先鋒を山脇大尉の隊が務め、岩村権令と山川少佐を護衛する中央隊を和田大尉が指揮し、安田大尉の隊が奥大尉を護衛して後衛を務めることになった。谷村計介は安田隊に属した。
 十八日午前七時半、先鋒隊が後門を開いて出撃し城南の諸富方面へ走った。この隊は多大の犠牲を出しながら山脇以下が脱出に成功したが、西島少尉は捕虜となった。
 続く中央隊は苦戦した。寄せ手の包囲の中に陥った津井城中尉は自刃した。それでも和田大尉は、岩村、山川を擁して蓮池から海島村を経て筑後川を渡り脱出した。
 奥大尉を擁する安田大尉以下の九十名余は、蓮池から姉村へ走り東の直鳥村(縄取村)に向かったが、村の東端を流れる川の対岸に敵の旗が翻るのを見た。背後からは追撃兵が迫って来た。前後を扼されて止む無く少尉三木一が小部隊を率いて堤を渡り銃を放ちつつ敵の右翼を突いた。計介もこの隊に加わって奮戦しこれを破って全隊の渡河を成功させた。
 さらに東へ逃れ、六田村を経て江見村に至った。その時はるか前方を農夫が一人走るのが見えた。敵地での戦闘である。住民は敵軍の味方と見なければならない。鎮台軍の動静が農夫によって通報されるものと考えられた。

谷村計介の本領が発揮されたのはこの時である。計介は指揮官に進言した。『地理不案内のまま全隊が一緒に行軍するのは危険です。住吉津は遠くないと思います。私がひとりで先行して河津に参り、船の手配などをしたいと考えます。途中で私が撃たれる銃声が聞こえたら、前方に伏兵ありとして、どうぞ進路を変えて進んでください。私の一死を掛けて部隊を無事に嚮導出来るようお願いします』
 許しを得た計介は単身先行した。住吉の渡しまで三十数町を無事駆け抜けた計介は、渡船を調達して部隊の到着を待ちうけた。全軍が筑後川の左岸住吉村に渡り終えた時、追手が渡しに殺到してきた。しかし、船はすべて左岸に引き上げられており追手は為すすべも無かった。その後、七十余名に減じた安田隊は夜を徹して駆け、旧久留米藩領の御井町府中駅に達して右半大隊と合流した。

二十二日、援軍を率いて到着した少将野津鎮雄は主力をもって佐賀士族が第一防御線とした朝日山の塁を攻め、ついにこれを奪取した。この日、計介は千栗、豆津、六田方面で戦った。
 その後も戦闘は続き、二十三日に寒水村付近で佐賀士族を破った政府軍は、さらに進んで敵の本拠地神崎を陥した。江藤新平は『事の成らざる』を覚り、西郷隆盛との再挙を期して鹿児島に脱出し、戦局は政府軍有利のうちに収束に向かった。
 三月一日、政府軍主力は佐賀城に入った。勝ったとはいえ、この乱で熊本鎮台兵は死者百六十人、負傷者六十五人を出した。
 戦いの帰趨が明らかになった九日、計介らは熊本に引き揚げた。江藤と島が頼った西郷は立たず、高知に逃れた彼らは捕らえられて斬首・梟首となった。
 誰の目にも戦功明らかだった計介は、この乱の論功行賞が行われた六月二十八日に陸軍伍長に昇進した」

                   四

夏休みに入って、わたしは親友の留美と台湾へ旅行した。
 親しみやすい人情とおいしい食べ物に満足したが、わたしには留美とは違った感慨があった。資料調べが明治七年の台湾出兵に差し掛かっていたときだったから。
 飛躍的な発展を遂げている現在の台湾から、宗主国の清に「化外の地」と呼ばれ、「蛮族」が住み、「悪疫瘴癘の地」とされた頃の様子を想像するのは難しかった。しかし、この台湾は出発が遅れた日本帝国主義の最初の標的となり、その過程で計介や谷干城も登場する場面が現出したのだ。そう思うと、近代都市の晴れやかな顔を見せる台北を歩いていても、わたしは何か白昼夢の中にいるような気分に陥ったのだった。

「征韓論が破綻して外征派の参議がすべて辞職し、それに続いた佐賀の乱が収まった時点で動き出したのが台湾征蕃問題だった。
 明治七年(一八七四年)三月二十五日、陸軍大輔西郷従道、海軍大丞赤松則良、外務少丞平井希昌は台湾生蕃処置取り締まりを命じられた。これが近代日本最初の海外派兵の端緒であった。
 ことの起こりは、明治四年十一月に琉球宮古島の船が那覇を出港したが嵐に遭って台湾の南端に漂着し、乗組員六十九人中の三人は溺死、上陸して救いを求めた人のうち五十四人が台湾の先住民牡丹族に殺された事件にあった。

明治六年(一八七三年)三月に事件が再発した。一月に紀州を出た備中小田県柏島村の水夫四人が風浪に流され、ふた月の漂流の後三月上旬にようやく台湾の東南岸にたどり着いた。九死に一生を得て上陸した四人を『蕃人』が襲った。その所有物を奪い、積み荷を掠め取り、船を破壊し、四人を殺害しようとしたのである。この報は先の事件で台湾討征を主張していた征蕃派を激昂させた。
 同年四月、外務卿副島種臣は、穆宗成婚・親政開始の祝賀と日清条約批准を兼ねた特命全権大使として清国へ赴き、清国皇帝に国書を呈し、日清条約批准書を交換し、台湾事情を質した。台湾に関する清国側の答えは『台湾の半部は化外の地にして清国その責に任せざる』というものであった。
 明治七年(一八七四年)五月十九日、台湾蕃地処分が布告された。すでに五月十七日に台湾蕃地事務都督西郷従道は約三千六百の兵を率いて長崎を出発していた。
 この軍に、少将谷干城と赤松則良が参軍として、熊本鎮台からは第十九大隊が加わった。この時、熊本鎮台司令長官には野津鎮雄が入り、野津の下で佐賀の乱に奮戦した第十一大隊は留守隊として残っていた。谷村計介にも束の間の安穏な日々が訪れていた。

谷、赤松率いる先鋒隊が台湾社寮に上陸して、出師の理由を告知し協力を求めた時点で、すでに西岸一帯、風港より大樹房に至る間はことごとく帰順した。さらに五月二十二日に西郷従道が到着すると生蕃十八社のうち網社、小麻里、周膀束も帰順した。
 しかし、海陸兵二百が四重渓付近に進出したところ、雙渓石門の険に拠った数十人の生蕃から攻撃された。日本軍は十数人の死傷者を出したが、ついに『之れを破り、首級十二を獲たり…』という。その中に最も凶暴とされていた牡丹社酋長父子の首級もあった。従道は掃討を命じて三道から進撃させ、牡丹社を焼き討ちした。
 遠征の将兵を苦しめたのは戦闘よりも瘴癘の地台湾の風土であった。この出兵では戦死十数人に対し病死六百五十人余を数えた。滞陣部隊の交代が必要になっていた。

その頃、谷村計介は休暇を申請していた。もう二年余も故郷を見ていなかった。しかし、この休暇は実現しなかった。第十一大隊に、第十九大隊と交代の台湾派遣が伝達されたからである。計介は、妻とよよりも姉わさに会いたかったのだろう。彼はわさ宛てに六月二十四日付の手紙を書いている。
 この手紙の原文は巻紙に毛筆で書かれたのであろうがその所在を知る手立てがない。後年の書物『贈従五位谷村計介』の中に〃小学児童の読みうる程度に改作した〃ものが掲載されたので、内容の一端を知ることができる。

『…私も朝ばん姉上さまにおあひ申上げたくてたまりません。ひとまづかへるつもりで内へさう申してやりましたら,父上さまがたが御しんぱいなされて願書を認めてさし出して下さいましたから、遠からずかへることと思ってゐましたが、当鎮台の第十一大隊は急に台湾せいばつに行かなければならぬことになりました。いつしゅっぱつするかは分かりませんけれども,大かた今月の二十七、八日ごろでございましょう。もっともそのせつは遠い台湾にわたつてせんさうをしなければならぬと思ひますから、そしたら決して人にはおとらないはたらきをして、死んでも功名手柄を立てたいと存じます。私ははやばや御母上さまにはなれまして姉上さまがたの大へんなお心づかひによって生長することができました。其有りがたい御恩にたいしてちりほどもおむくひいたしませず不幸のうち死にでもいたしましたらふとどきものとおかんがへ下さるかも存じませんが…もしうちじにしましたら父上さま御大切に私の分まで孝行してあげて下さい。くれぐれもこの事ばかりおねがひ申上げます…』

文中の、父上が願書うんぬんは、利右衛門が兵営を訪問して計介に面会したことと関わりがあるかもしれない。時日は不明だが、この面会時に計介は、姉わさが万一不縁になっても決して再嫁させてくれるな自分が生涯扶養するからと頼んだと、父から聞いた言葉をわさが伝えている。

出発は計介の予想より遅れて八月末になった。長崎から運輸船金川号で台湾に渡った第十一大隊は、九月から風港の守備に就いた。計介の覚悟の手紙に反して、もう戦闘は終わっていたから交渉妥結を待つだけの滞陣であった。
 西郷従道は谷干城と少佐樺山資紀を上京させて『後図を画し、蛮地永遠平治の基礎を建てんことを建言し』『蛮地を占領し移民拓殖の業を建てんと』したが、イギリス、フランス等の列強は日清の間に立って牽制した。 難航した日清交渉は英国公使ウェ―ドの調停案でまとめざるを得ず、十月三十一日に全権弁理大臣大久保利通が条約書に調印、日清両国互換条款および互款馮単が結ばれた。
 清が、日本に償金五十万テール(当時の日本円で七十万円前後)を支払い、日本は台湾から撤兵するという内容であった。出兵に費やした千二百六十万円と六百五十名の犠牲からすれば得るところのない和平であった。十一月十二日に撤兵詔書が出され、十二月に入って計介らは東京号に乗船して熊本の百貫石港に戻ってきた」

                 五

わたしは、司馬遼太郎が台湾出兵を無名の師と呼び、官製の倭寇と言ってもよいと書いているのを知って、面白いと思った。しかし、明治維新から日が浅く、国内の治安には穏やかでない雰囲気があったし、新政府に不満の勢力も各地に息づいていたから、為政者が国民の目を外に向けておいたほうがいいと考えても不思議はなかった。
 台湾旅行から帰って、わたしは再び図書館で長い時間を過ごす日常に戻った。

「明治八年(一八七五年)三月十日、熊本鎮台にあった第十一、第十三、第十九の各大隊が一斉に解隊され、新たに歩兵第十三、同第十四連隊が編成された。壮兵の多くは帰郷を命じられ、士農工商を問わない徴兵が連隊を構成することになった。下士官の谷村計介は第十四連隊付となり、小倉で勤務することになった。
 翌九年、計介二十四歳の年、熊本で敬神党(神風連)の乱が起きた。十月二十四日夜半、小倉駐屯の第十四連隊に熊本から出張中の鎮台衛戍本部大尉大迫尚敏の帰台を命じる電報が到着した。急遽帰ろうとする大迫に、連隊長心得少佐乃木希典は護衛として谷村伍長を付けた。二人は綱引きを付けた人力車で直方、飯塚を過ぎ、冷水峠を越え、久留米で俥と車夫を交代させ、南関を経て二十五日未明に熊本鎮台に到着した。

神風連は国学者林桜園の感化を受けた神官ら百七十人余の国粋派で結成され、王政復古の実を挙げ攘夷の遂行を目指す太田黒伴雄、加屋霽堅に率いられて蜂起した。
 二十四日深夜藤崎八幡宮に武装して集合、神前に決起理由を奉告して七隊に分かれ、鎮台幹部や実学派と呼ばれた改革派の私邸、および熊本城内の砲兵営・歩兵営を襲撃した。私邸奇襲は成功して鎮台司令長官少将種子田政明、参謀長中佐高島茂徳を殺害、第十三連隊長中佐与倉知実と熊本県令安岡良亮(三日後死亡)に重傷を負わせ、改革派邸宅を炎上させた。

 しかし、武器が刀槍だけの神風連は、砲兵営は炎上させたが洋式装備で応戦した歩兵営を破ることは出来なかった。神風連首脳二人は死に、大迫を護衛した計介が鎮台に到着した頃には、すでに乱は鎮圧されていた。

任務を果たして小倉へ戻ろうとする計介に、新たな偵察任務を与えることを参謀少佐児玉源太郎が提案した。柳川士族に不穏な兆しがあるとの風説がある、これを偵察させよう、というのである。大迫はこれに賛成し、不穏の兆しを見れば熊本に戻って報告せよ、なければ小倉へ帰れ、という命令を下した。計介は身なりを車夫の姿に変えて柳川に向かった。
 敬神党の思想は孤立していたが、新政府に抵抗する点に同志的な関心を寄せる党派が各地にあった。敬神党の阿部景器、富永守国は蜂起の前に萩、秋月などを訪問して決起を呼びかけていた。柳川士族にも単なる風説以上の動きがあった。しかし、それらは一つの大きな流れにまとまることなく、多くは時期尚早と自重して沈静化し、起こったものは十月二十七日の秋月の乱、同二十八日の萩の乱のように単発で、いずれも旬日の内に鎮圧された。柳川に入った計介は、柳川城外を徘徊し、各所で風説を確かめたが得るところ無く小倉に帰った。
 十二月二十四日、計介は第十三連隊第一大隊第二中隊付異動の命令を受けて熊本に帰り中隊長山本盛英の部下となった。計介の運命を定めた異動であった」

                 六

伯父が電話を掛けてきた。
「どうだい?少しはすすんだかい?」
と聞く。

「もちろん、やってるわよ。でも、毎日の大半を周辺事情を調べてノートにまとめるのに費やしてるの。わさの思いや生き方を考えるところまで行き着くのに、まだかなり時間がかかりそうだわ」

「暑いさなか大変だね。折りをみて出ておいでよ。息抜きも必要だよ」

「明治十年(一八七七年)が明けた。計介二十五歳の晩年である。一月二十九日、鹿児島に西郷隆盛が開設した私学校生徒が、陸軍省砲兵属廠の弾薬を略奪し、次いで海軍省造船所の火薬庫に闖入する事件が起こった。
 西郷帰郷以来の鹿児島の情勢に神経を尖らせていた政府は、熊本、秋月、萩と相次いで生じた騒乱に危惧の念を募らせ、鹿児島貯蔵の弾薬を大阪砲兵支所へ移すために汽船赤龍丸を派遣した。これを聞いて私学校生徒が蜂起し、二月三日までの毎晩続けて各火薬庫を襲い弾薬を掠奪した。
 こうして鹿児島県下が騒然とした雰囲気にある中で、警視庁少警部中原尚雄らが私学校生徒に逮捕拘禁される事件が起こった。生徒らは、中原が大警視川路利良の密命を受けて西郷隆盛を暗殺に来たのだと主張した。この事件の真相は明快ではない。生徒らは、暗殺計画に抗議して事を挙げよう、と西郷に迫った。政府大改革断行のために起てと言う桐野らや、逸る生徒達を抑えるため、鹿児島を出て遊猟に日々を過ごしていた西郷も、事態先行の現実に直面して、ついに『我が事既に終わりぬ』と嘆いて生徒らに一身を委ねた。

 鹿児島の形勢不穏に対処するため、すでに一月二十八日には、陸軍卿山縣有朋から熊本鎮台司令長官少将谷干城に対し不慮の備えの命令が出ていた。さらに、二月九日には、近衛歩兵一連隊、東京鎮台歩兵一大隊、同山砲兵一大隊、同輜重兵一小隊、同騎兵一分隊、大阪鎮台歩兵一大隊、同山砲兵一大隊に出征準備を内命していた。
 また、二月十日には、岩倉具視が大久保に命じて内務大書記官品川弥二郎および警視局巡査二百人を熊本に、二百人を長崎に、佐賀、福岡に各百人を派遣した。十三日には東海鎮守府司令長官少将伊東祐麿が軍艦春日、清輝を率いて鹿児島に向け神戸を出港していた。

西郷起つの報を聞き、鹿児島県内各郷から士族が陸続として参集してきた。鹿児島県令大山綱良は官金十五万円を軍資に提供した。総勢一万五千人が七個大隊に分かれて行進を始めたのは二月十四日であった。
 政府は急遽京都の旅寓で廟議を決し、二月十九日に鹿児島県暴徒征討令を布告した。征討総督には熾仁親王が任命された。

熊本鎮台の谷干城は、篭城策を採ることにして、小倉営兵、福岡分営兵に熊本集合を命じた。谷は、鎮台兵の多くは農商の子弟で武道の訓練を受けていないから白兵戦には向かない、現に敬神党の乱で気力沮喪した実例がある、城を出て戦えば西郷と気脈を通じる熊本士族に襲撃される可能性もある、と考えたのである。同様の心配をした旧熊本藩知事細川護久は、二月十七日に京都で天皇の許しを得ると熊本に帰り、士民の説諭に努めたので西郷軍に投じたのち翻意した士もあったという。

二月十九日の午前十一時頃、熊本鎮台は火災を生じた。天主閣と書院を結ぶ渡り廊下から発した火で、二百七十年余も風雪に耐えた天守閣は焼け落ち、食料倉庫群も焼けて貯蔵品は灰燼に帰した。さらに市内に延焼して民家一千戸以上を焼いた。武器░弾薬は無事だったので、谷は司令部を焼け残った宇土櫓に移し、急遽食料を民家から徴して『数旬を支ふるの計を為』したという。火災の日の午後四時、小倉から第十四連隊第一大隊左半大隊が到着した。結局、開戦前に入城して篭城に参加出来たのはこの先遣隊だけであった。
 翌二十日、少警視綿貫吉直が巡査四百人を率いて入城し、さらに熊本県権令富岡敬明が内務大書記官品川弥二郎と共に入城した。篭城の兵力は、鎮台本営百四十六人、第十三連隊千九百四人、砲兵第六大隊三百三十人、予備砲兵第三大隊九十八人、工兵第六小隊百六人の合計二千五百八十四人に、小倉からの半大隊三百三十一人、巡査四百人を合わせて三千三百十五人である。兵器は、小銃以外に野砲六門、山砲十三門、臼砲七門を備えていた。

対する西郷軍は、同志を率いて投じた熊本県士族池辺吉十郎や同県民権党領袖平川惟一を初めとして、佐土原、延岡、高鍋等の旧藩士ら各地から参加してくる有志を加えて二万人に達しようとしていた。
 別府晋介率いる西郷軍の先鋒隊は二月二十日には熊本の西南川尻に到着していた。鎮台は二個中隊を送って二十一日午前一時に夜襲をかけた。しかし、哨兵に発見され、隊を乱して逃げ帰った。
 谷はこの作戦を悔い、その後は篭城に徹した。この日、西郷軍は熊本に入り、鎮台はこれを砲撃した。
 二十二日には、西郷軍の攻撃が始まった。一挙に鎮台を陥して前進しようとして城の前後から攻めたが城兵はよく防ぎ戦った。
 同じ日、乃木希典は鎮台に入ろうと第十四連隊主力を率いて熊本の北西約十五`の木葉村まで来たが、敵がすでに熊本に入り、その一部が木葉の隣りの植木町まで進出していることを知った。乃木はこれを撃破することに決めて前進し、植木の駅端で激突した。すでに午後七時半で月明かりの下での戦闘になった。西郷軍先鋒の勢いは盛んで喊声を揚げて肉薄してきた。乃木隊はこれを支えきれず、木葉に撤退せざるを得なかった。
 この夜の激烈な戦闘の中で旗手少尉河原林雄太は戦死し、連隊旗が奪われて乃木の軍人生涯の汚点となった。乃木隊は二十三日も終日戦ったが抜けず、第三大隊長少佐吉松秀枝を失って撤退した。

この日、熊本の西郷軍も熾烈な攻撃を加えたが城は陥ちず、鎮台兵の侮りがたい力を知って持久作戦に切り替え、城を包囲して封鎖部隊を残し、主力は城を迂回して前進した。二十三日は政府軍も、野津鎮雄が引率する第一旅団が博多を、三好重臣が率いた第二旅団は福岡を出発していた。二十五日には木葉村の北西約二十`の南関に達してここに野津の本営を置き、三好はその南方の船隈に本営を設けた。
 政府軍大挙して襲来の報に西郷軍主力部隊が熊本から急行し、二十六日から木葉、植木、山鹿、高瀬など近辺各地で激戦が繰り返された。
 一方、軍艦を率いて鹿児島に派遣された伊東祐麿は、すでに西郷軍が進発したことを知って長崎に引き返していたが、開戦の報とともに海上から政府軍を助けた。西郷軍の補給に携わっていた迎陽丸、野母丸、舞鶴丸を捕獲して海上運輸を途絶させたほか、西郷軍屯集の河内村砲撃、海岸焼き討ちなどの実戦にも参加した。
 二十七日には出征諸艦は春日、龍驤、清輝、鳳翔など十一隻に達しており、さらに増援に横須賀から筑波、日進が、横浜から浅間が出発していたから、制海権は完全に政府側が握っていた」

               七

東銀座のビアホールで伯父と会った。
 ジョッキを傾けながらの会話はおのずからわさ女に向かった。

「ノート作成は、いまや西南戦争の真っ最中よ。まもなく計介戦死の段階に入るわ。でも、そのうちに郷里のわさ女の周辺も調べなきゃ、と思っているの。聞き書きでも、西南戦争中わさ女は肩身が狭かったと、嘆いているのよ。倉岡はもともと薩摩藩の土地柄でしょ?計介は政府側で戦ったのだもの。反発はあって当然ね」

「我が子のように育てた計介の身の上を思うと、わさ女の嘆きは深かったろうな」

「その嘆きが、やがて誇りに変わる。妙な成り行きだけれど、結局、戦争は勝ったほうが正義だものね」

「二月二十二日に戦闘が始まってから熊本鎮台は外部との通信が途絶えていた。鎮台への出入りは厳重に監視され、隙を狙って脱出しようとする伝令も成功しなかった。
 軍用電信は政府軍の前進に従って順次敷設されていた。高瀬、山鹿方面から始め、やがて戦線の拡大と共に熊本を経て水俣、人吉に通じ、八月には都城にまで達した。工部大学校の学生に技手を努めさせた軍用線は、最終的に六十七線、総延長二百数十里(約一千`前後)に達したという。
 しかし、緒戦のこの時期、敵の包囲下にある熊本鎮台は外部に連絡するすべが無かった。二月二十四日、谷干城は、参謀長樺山資紀負傷療養中のため、参謀児玉源太郎に政府軍本営へ送る伝令の人選を相談した。ある資料では、砲声が沖に轟くのを谷が聞き、海軍が到来したことを察してその軍艦に便乗させようと考えた、としている。

児玉が推薦した鎮台会計部囚獄課監獄宍戸正輝が密命を受けて城外へ出たのは二十四日深夜であった。児玉が日ごろから、凡人ならずと目を付けていた宍戸は道理の分かる剛直な男で、股引・腹掛け・印半纏の職工姿で脱出して行った。
 宍戸が出た夜、県庁関係でも布田直紀、古堂秀雄の二人が連絡に脱出した。翌二十五日朝、この二人の首が城内に投げ込まれた。これを知った谷は、直ちに宍戸に続く第二の使者を送り出すことにした。
 篭城戦で城の南西面法華坂上の陣にあった谷村計介は司令部に呼び出され、連隊長心得少佐川上操六から指示を受けた。
 川上は熊本鎮台の将校ではない。東京から九州情勢を視察に来た直後に篭城となったため、神風連の乱で重傷を負い開戦劈頭に死亡した第十三連隊長与倉知実に代わり臨時に連隊長心得を務めていた。川上が計介を知っていたはずはない。計介を選別したのが誰だったか。それは謎のままである

川上の指示に計介は、一下士官の身でそのような大仕事が出来るでしょうか、と答え、川上の再三の説得にも沈思黙考していたという。
 ややあって、計介は『慎んで命令をお受けします。全力で使命達成に努力しますが、復命の期日は予定できません』と死を決した言葉で答えた。計介は川上に伴われて司令長官のもとに出頭し、谷から本営に伝達すべき条項を授けられた。司令部を辞した計介は煤煙を全身に塗り薄汚れた衣類をまとい、二十六日午前一時頃に城を抜け出た。

計介は北へ向かい、段山の北麓で井芹川を越え、牧崎と琵琶崎の中間に設けられていた敵の前哨線をすり抜け、島崎の裏手から本妙寺の裏山に入った。第一関門は突破したと思われたが、本妙寺山から続く金峰山の麓で敵の歩哨線に引っ掛かった。捕らえられた計介は変装の通り農夫になりきって助命を乞うたが、怪しいと見た歩哨兵に荒縄で縛られた。
 しかし、この歩哨線に計介護送の人手が無く、歩哨任務を離れられなかったのが計介に幸いした。敵兵は計介が逃亡出来ないように立ち木に縛り付け番兵を一人残して見回りに出て行った。計介は爪で縄を少しずつ切り始めた。縄が切れてもそのままで機会を狙い、番兵が居眠りを始めたのを見澄まして計介は逃げた。

一層の用心を重ねながら三之岳の麓を過ぎ吉次越えにかかった。行程の三分の二を踏破したと思われた。しかし、ここは最前線であった。高瀬を攻めて失敗した西郷軍は、一旦退却して山鹿、田原、吉次、木留などの各地を押え、政府軍と熊本鎮台との連絡を絶とうとしていた。
 その包囲網に紛れ込んだ計介は、田原坂・吉次越えを占領していた西郷軍第一大隊の兵士に再び捕らえられた。この夜、計介を尋問した吉次越え指揮者一番小隊長佐々友房の後年の談話記録は次のように記している。『此夜、兵士安田義虎、吉次峠山中より熊本鎮台の脱卒を縛して至る。齢二十五六。方面低鼻、顔色黎黒、眇然たる小丈夫なり。之を詰問す』農夫では通らず、計介は鎮台の脱走兵だと陳述したのであろう。見たところ大事を成し遂げる人物とは思えず、『小倉の豆腐屋の息子で、徴兵されたものの戦が恐くてたまらず、故卿に逃げ帰る途中でした』との弁明を佐々は信じた。『何でもします。命だけは…』と嘆願する計介に哀れを覚えた佐々は、縄を解かせ軍夫に加えた。

記録によれば、西南の役での政府軍軍夫動員数は十二万三千人で総兵力の二倍強にのぼり、人夫賃は総戦費の三一%を占め兵器購入費の三倍に当たっている。一方、海上輸送を封じられた西郷軍の補給は陸路を人手に頼るしかなかったが、政府軍に比べて資金、徴募の両面で不如意であった。一人でも多くの軍夫が欲しかった状況が佐々の追及を鈍らせたかもしれない。危機を脱した計介は、人夫役を務めながら一、二日機会をうかがい、逃亡した。

 三月二日の夕方、計介は高瀬と船隈の間で政府軍の哨兵に捕らえられ、弁明は通らず縛られて船隈本営に引き立てられた。飲食もままならず山間をさまよい、二度の危機で消耗して政府軍陣営に到達した計介は、肉落ち骨痩せ『喪家の狗の如し』であったという。 熊本鎮台からの密使であることを認められるまで、幾多の関門を抜ける必要があったろうが、計介はついに第一旅団司令長官野津鎮雄に面会する。この日、野津は、二十七日に三好少将が負傷して後送されたため第一、第二両旅団を指揮していた。野津の前に出た計介の有様は『歔欷流涕言はんと欲して言ふこと能はざりき』と描写されている。
 計介が知る由もなかったが、谷から伝達を命じられた熊本鎮台の状況は、すでに政府軍司令部の知るところであった。宍戸正輝が二月二十八日に高瀬町屯集の小倉第十四連隊に達し、南関の本営に出頭していたからである。直ちに引き返した宍戸は、三月三日には熊本鎮台に戻り城外の状況を復命し使命を完遂した。宍戸のとった経路は明らかでない。
 計介も、直ちに復命に出立しようとした。しかし、野津はそれを止め、営内一泊の休養を命じた。再度の敵中突破には体力回復が必要であった。

翌三月三日は、政府軍と西郷軍が田原坂争奪に激闘を繰り広げた最初の日として記録に残る。少将大山巌指揮の別働第一旅団四個大隊到着を待っていた第一、第二の両旅団は、木葉から植木に進む本隊と、伊倉村から吉次越えを経て小窪に進む支隊に分かれ、三日午前五時に進発した。しかし、戦いは激しく、本隊は木葉までしか進めず、支隊も立岩の塁を陥したのみで吉次峠には達しなかった。
 山鹿にあった西郷軍四番大隊は、早朝から南関を衝き激戦は夜に入って止まず、本営にいた大佐福原和勝は重傷を負い、死亡した。
 本営が前線になる激しい戦闘の広がりに、計介出立の機会は失われていた。四日朝、本隊進発の前に計介は戦隊へ加わりたいと申し出た。その願いは許可されなかったが、計介は重ねて参加を嘆願した。その意志の堅さを認められて、結局、計介は伝令を命じられた。
 始まった戦闘は前日に増して激しくなった。第一・第二旅団本隊は田原坂に構築された要衝を攻めた。坂下から攻め上る諸隊は断崖上の各塁から瞰射され『飛丸霰集、進む者は必ず傷つき退く者は必ず斃る』状況になった。

西郷軍の銃砲は稜線上に列線をしき、山腹には散兵線がしかれていた。政府軍が弾雨下を銃剣の集団を形成して突貫し、中塁を奪い取っても、白刃をかざした薩摩人が殺到してたちまち奪い返す、といった場面が繰り返された。吉次越えに向かった支隊は西郷軍第一大隊長篠原国幹を斃した。
 三月四日の乱戦の中で計介は戦死する。場所、時刻など詳細は分からない。計介は伝令を命じられて武器を与えられなかった。部隊に加えられたものの、崖上からの猛射と白刃を振るって肉薄する西郷軍の圧力に押され気味の味方に切歯扼腕していた計介は、湧き起こった持ち前の闘志に戦場の興奮が加わったか、あるいはまた、復命を果たせない無念の思いに耐えかねたか。突然決起して近くの兵士の銃を奪い、単身叱咤しつつ敵陣に突入したという。たちまち多数の銃弾を浴びたのであった。

この日の戦いで篠原を斃した支隊も死者五十二人、負傷者百六十五人を出し、奪った保塁を支えきれず、夜に入って一部を原倉、戸倉に残したが主力は高瀬まで退却した。さらに本隊も、この日のうちに船隈本営を木葉村に移し、それから連日続くことになる激戦に備えた」

               八

「西郷挙兵の報はかなり遅れて倉岡郷に達し、士族たちを沸き立たせた。計介が幼年のころ一時師事したこともある萩原兼雄が隊長となり、郷士二十四人、夫卒四人をまとめあげた。二十四人の郷士には計介の兄祐光、わさの夫加藤利易も加わっていた。倉岡隊は去川関外の他の三郷(高岡、綾、穆佐)の士族と合併して高岡隊の一部となった。高岡隊は貴島清指揮の下に三小隊に分けられ、三月八日に日向を出発して熊本方面に出陣した。
 この時すでに計介は戦死していたが倉岡郷には伝わっていない。『計介が見つかれば、一緒に西郷どんのところで働かせる』と言って兄や夫が出て行った、とわさは語っている。

計介が熊本鎮台の下士官であることを倉岡郷で知らない人は無かったから、周辺一族のすべてが西郷軍に加わって後の、計介の妻とよの立場は厳しかった。
 とよは『あれは計介賊軍の妻よ』と指弾された。武運長久を祈る神社への参拝も、人々が散じた後にこっそり詣でるしかなかったという。
 とよの悲しみを、わさはわが身に引き付けて肩身の狭さを嘆いた。後に計介戦死の報が伝わった時にも『計介賊軍が死んだげな』と話題になっただけで、利右衛門が遺髪を城の下(俗称下の墓)に葬った日も会葬者はわずかだったという。

高岡隊は三月十七日に山鹿、田原坂方面に到着した。西郷軍の増援としては最も遅い部隊であったろう。すでに戦局は西郷軍不利に傾きつつあった。田原坂が陥ちたのは三月二十日である。高岡隊は退いて各地を転戦することになった。その後も政府軍の増援は続き、四月になると北から四個旅団が、南からは八代に上陸した別働四個旅団が熊本を目指していた。

熊本鎮台は、宍戸の報告で、二個旅団が南関、船隈まで来ていることを知りやや安堵したに違いない。鎮台の食料貯蔵は、事前準備の五百石を燒失したが、およそ六百石を急遽集め得たという。三月九日に谷が篭城食料を計算した結果では、一日消費量を一人米七合二勺余として毎日二十九石、この時点の貯蔵が四百四十九石余であるから十五日余りもつ、一日六合に減らせば二十日はもつ、としている。半月余も持ちこたえればよかろう、と考えたのだろう。が、篭城が終わるのは結局四月半ばになった。
 熊本鎮台の篭城は五十日を超え、死者百六十人余、負傷者五百人余に達していた。銃弾も乏しくなり乱費が禁じられていたが、最も深刻なのは食料の欠乏であった。粟粥を啜り、城内の濠を干して鯉鮒を掬い、軍馬を屠り、さまざまに工夫を凝らしても蓄えには限界があった。また、医薬品の欠乏も多数の傷病者を苦しめていた。
 鎮台包囲陣を破り、別働第二旅団右翼指揮官中佐山川浩が選抜隊を率いて熊本鎮台に入城したのは四月十四日であった。五十二日間の熊本篭城は終わった。

田原坂陥落以後も木留、植木に塁を築いて政府軍の南下を食い止めていた西郷軍は、政府軍熊本鎮台到達の報が伝わって、背後からの攻撃を恐れて撤退した。四月十六日に參軍山縣有朋が入城して南北からの鎮台連絡が成った。熊本県庁も復旧された。
 しかし、徐々に衰微しつつも西郷軍はなお九州各地に転戦した。これに従った高岡隊も消耗が激しかった。計介の兄祐光は五月二十九日に肥後人吉付近中神村の戦闘で戦死(享年三十六歳)した。わさ女の夫加藤利易も日向宮崎郡瓜生野村の戦闘で負傷し、帰還したが夏が越せずに死んだ(享年三十二歳)。

西郷軍は九月に入ると鹿児島城山に立てこもった。政府軍の総攻撃で西郷隆盛が死に、城山が陥落して西南の役が終了したのは九月二十四日であった。
 大きな災厄を受けた坂元家に九歳の祐安が残されたのが父利右衛門のせめてもの慰めだったろう。利右衛門は計介の妻とよが若くして未亡人になったのを哀れみ、翌明治十一年一月離縁して実家の丸菅家へ帰した。同様に、利右衛門は計介の思いを実現して、夫を失ったわさを婚家から引き取った。さらに、谷村家のために、佐竹義篤の二男定規(さだき)(五歳)を計介の養子に迎えた。同十一年七月のことである。この時、利右衛門は計介の墓を倉岡郷に建立した。墓石には『陸軍伍長 谷村計介之墓』と刻んだ」

                九

「聞き書きでのわさ女は、折りに触れて『お上のなされようは…』とつぶやいているの。どの場合も言葉の後半は書かれていない。きっと、わさの言葉はそこで途切れたのね」

水羊羹を一切れ口に入れ、お茶を啜って伯父は答えた。

「わさの思いは、そのつど為政者のご都合主義に振り回された、ということかもしれないね?あるいは、亡くなった弟を静かに眠らせてほしいと考えたか…」

祖母の新盆である。ノートを残した祖母の眠りは穏やかだろうか。

「それはそうと、香菜ちゃん。就職はどうするんだ?」

「もう時期を逸したわ。迷ったけれど大学院に進むことにする。このテーマを調べるほど奥が深いことが分かってきたから。両親の説得に伯父様も協力お願いね。一端の責任は伯父様にもあるのだから」

「明治十年十一月一日、新橋停車場に凱旋した少将谷干城、同三好重臣、同三浦梧楼は各々に儀仗兵一分隊を付けられて参内し、勅語を奉戴した。他の凱旋旅団長の処遇も同様であった。 十一月二日、九時に出門した天皇は日比谷陸軍操練所に幸し、指揮長官野津鎮雄率いる近衛・東京鎮台・教導団の凱旋兵を親閲し勅語を降した。同日午前十一時半から小御所で西南の役の論功行賞が行われ、陸軍大将熾仁親王に大勲位菊花大綬章、陸軍中将山縣有朋、同黒田清隆、海軍中将川村純義に勲一等旭日大授章が授与され、のちに山縣ら三人と西郷従道に各年金七百四十円が付与された。そのほか西南、佐賀、台湾の役の功に対して勲二等以下の勲章が授与され、賞金が付与された。
 十一月十四日、西南の役戦死者大佐福原和勝ら六千五百五人が招魂社に合祀され、十二月三日、西南の役に際して旧封地に力を尽くした旧藩主は特旨を以って位階が進められ、旧熊本藩主継嗣細川護久は正四位に叙せられた。
 同月十九日、西南の役は明治史の重要な部分を成す、ということで、諸軍の戦状、各地の探報、出張文官の報告、降伏人口供聞取書等の資料を修史館に交付して戦役史編纂が命じられた。
 こうして、西南の役の後始末はすべて終わった。

明治十年十二月、閣議は各省予算定額五分の一削減を決定した。国家財政は緊迫していたのである。西南の役の戦費およそ四千二百万円も予算外の支出として大きな負担であった。
 年が変わった明治十一年(一八七八年)四月五日『各兵並ニ諸生徒被服給与ノ規定』が改められ、まず兵の被服支給が減らされた。続いて五月二十二日『陸軍給与概則俸給諸表』が改正された。その内容は『佐官ハ平均五十分ノ一強ヲ減シ、尉官ハ六分ノ一強ヲ減シ、曹長軍曹ハ十分ノ一強ヲ減シ、伍長兵卒ハ二十分ノ一強ヲ減ス。但シ佐官ハ歩兵、騎兵科ヲ除キ尉官以下ハ歩兵科ヲ除ク』というものであった。

給与改定から三ヶ月経った八月二十三日深夜、東京・千代田・竹橋門内に屯営の近衛砲兵大隊で反乱が起きた。午後十一時、下士官・兵二百数十人が決起した。
 乱の遠因は西南の役の行賞にあった。行賞にあずかったのは大尉以上で、六千五百人もの戦死者の九五%以上が下士・兵卒であったにも拘わらず、下級将校や下士官兵卒には音沙汰が無かった。下士・兵は死に損であり、負傷して働けなくなっても補償はない。あの地獄から帰った兵士が兵役満期で除隊しても手当金は出ない。不満が募っていたところへ、日々の食事から毎日履く靴下まで減らされた。
 『官給品オヨビ官物ヲ毀損落失スル者ハ弁償』させるというお触れも出た。その上、給与まで減額である。しかも砲兵は歩兵より軽んじられている。これでいいのか、政府は何を考えているのか。『天皇に直訴しよう』としたのは村一揆の発想である。事実、参加者の大部分は農民出身であり、士族はいなかった。

その夜、赤坂仮皇居で宿直していた大隊長少佐宇都宮茂敏は、不穏な動きを聞いて急遽帰営し説諭しようとしたが失敗して殺害される。週番士官大尉深沢巳吉も制止しようと努めるうちに斃れた。
 決起した一団は、営内秣舎を焼き、山砲二門を曳いて営門を出た。目的は天皇への強訴であり、行き先は赤坂仮皇居である。その一部は、気脈を通じた兵がいる隣の近衛歩兵連隊門内に闖入しようとして阻まれ、もみ合いの中で同連隊少尉坂元彪が死ぬ。一団が近衛歩兵門前を通過する時に銃撃され、大混乱に陥って山砲一門は放棄された。一団は数を減じたが、百人前後が皇居前に到達した。

しかし、政府は反乱の情報を得て準備していた。東京鎮台兵で皇居は厳重に警護されており、一団はたちまち捕縛された。同志を率いてきた近衛砲兵大隊兵卒大久保忠八は、その場で小銃を発して自裁した。
 反乱に対する処分は苛烈を極めた。捕縛者三百八十七人のうち三百三十一人が陸軍裁判所で有罪となり、死刑五十三人、準流刑十年百十五人、徒刑六十八人、戒役十七人などの刑が宣告された。死刑の五十三人は十月十五日に銃殺された。全員兵卒である。事件から四十七日目の処刑であった。二人だけ死刑になった下士官の扱いは別で、翌年四月十日に銃殺された。
 この反乱の背後には、薩長政府内で傍流の紀州人脈による政治的動きがあったらしい。兵の不満を利用しようとしたのである。反乱参加兵士の処断より半年遅れの明治十二年三月、関与を追及された東京鎮台予備砲兵第一大隊長少佐岡本柳之助は、発狂を装って断罪を免れたものの官位を剥奪され、同大隊付少尉内山定吾は自裁させられた。

この反乱は政府に大きな衝撃をもたらした。さらに地方の鎮台にも兵の動揺が見られたから、山縣有朋は軍人勅諭の原形になった『軍人訓戒』を十月二十日に配布し、忠実、勇敢、服従を強調した。
 反乱兵士の死は犬死にではなかった。彼らが結局は政府を動かしたのである。『政府は是の暴挙に省みる所あり、遂に西南戦役の賞典を一般に行ふことと為せりと云ふ』と『明治天皇紀』は他人事のように記している。
 この賞典で、二男計介の戦死賜金が下りることになったという通知を貰って、受領のため坂元利右衛門が鹿児島県庁へ向けて出立したのは、明治十三年(一八八〇年)二月八日のことである。しかし、利右衛門は県庁には到着しなかった。

二月二十日に戸長の佐竹昌保が県庁に出張して利右衛門が行方不明であることを知った。近親が探したところ、途中、去川で一泊したことはすぐ分かったが、宿を早朝に出た、というところで消息は途絶えた。
 三月三日になって、去川山中の谷川に落ちている利右衛門の遺体が発見された。背後から二つ玉で撃たれたのが死因であった。うち一弾は体内に残っていた。犯人は挙がらず、何が起こったか誰も知らなかった。

もはや計介の戦死賜金を受領すべき遺父母、遺祖父母はいない。結局、計介は死に損なのか。『お上のなされようは…』とわさがつぶやいたのはこの時が最初である。坂元家と谷村家を維持すべきすべての役割がわさの背にのしかかっていた。いまでは暴徒に荷担しての横死となった兄が遺した未亡人と長男祐安、戦死の名誉だけが残った計介の養子定規を養わねばならなかった。  才幹のあった利右衛門は、倉岡郷で島津家の役職である郡見廻(くりんめ)、横目、與頭(くんがした)、郷長(あつけ)と昇進したが、平素は農業を営み、作男を置いていた。わさも、自作農として食べることは何とか賄えたが、明治六年(一八七三年)の地租改正以来、農地価格の三パーセントを貨幣で納付しなければならず現金収入が無いのはつらかった。幼い男の子の教育にも現金が必要であった」

                十

「明治十五年(一八八二年)一月四日、『軍人勅諭』が発布された。その後六十年余にわたって日本兵士を支配する天皇の命令であった。
 同年七月四日、ほぼ一年前に陸軍士官学校長兼陸軍戸山学校長を辞した陸軍中将谷干城は東京築地の春み屋で開かれた熊本篭城会『熊本守城陸軍将校臨時会』に出席した。将校四十人ばかりの会合であった。席上、谷村計介の紀功碑建設が提議された。

計介戦死後五年余を経て何故この話が持ち上がったのか経緯は分からない。軍人勅諭の発布と軍人教育に携わった谷の存在という状況証拠だけがある。臨時会と銘打ったこの会合そのものが、碑建設目的だった可能性もある。その可能性を裏付けるように話はとんとん拍子に進んで募金が始まり、谷自身が執筆した碑文は早くも八月二十二日に書き上げられ、二十五日には警視総督になっていた少将樺山資紀に手渡された。 
 碑文は計介が『一兵卒を以って』『一下士を以って』為した戦功を語る。
『而して忠勇義烈、魏然、炳然、以て軍人の亀鑑となすに足る。谷村計介が如きは悼むに勝ふべけんや』『事聖聴に聞す。勅してその忠烈を賞し金若干円を賜ふ。計介の功是に於てか炳然として著聞す。一下士にして此恩寵を蒙るその栄たるを以て加ふる無し。ああ盛んなるかな』
 
 千二百字余の漢文で、計介は軍人勅諭の権化に祭り上げられた。
 文中の『金若干円』は、樺山資紀が、碑建設について九月三十日に天皇に内奏し、十月二十日に五十円が下賜されたことを指すと思われる。谷の執筆時期と下賜の日付を対照すると、この件の下賜金については事前の根回しがしっかり行われていたことがうかがえる。
 全国の陸軍各官衙、各学校、各鎮台二万人余からの醵金は二千五百九十三円三十三銭九厘にのぼった。

明治十六年(一八八三年)三月二日、故陸軍伍長谷村計介の紀功碑を靖国神社境内に建設することが特別を以って許可された。除幕式は同年五月六日午後二時から挙行された。五月四日付の東京日日新聞はこの碑を『棹石は御影にて台座は奇形の磯石を用ゐらる』と紹介しているが、高さ一丈余り(三メートル余)、最大幅六尺余り(二メートル弱)の変形の根布川石に、征討総督熾仁親王の篆額『軍人亀鑑』と前述の谷干城撰になる計介の事績が刻まれた。碑陰に、谷干城、樺山資紀、乃木希典、児玉源太郎、川上操六らかつての鎮台幹部に下級将校を加えて軍人ばかり十二人の建設委員名が刻まれた。 醵金のうち三百六十円で公債証書が購入され、養嗣子定規の学資にと、わさの手に渡った」

             十一

「計介戦死から十二年目、明治二十二年(一八八九年)二月に大日本帝国憲法が発布された。この盛典に際して叙位叙爵が行われ、各府県八十歳以上の高齢者に金員が下賜された。同時に大赦が行われた。赦免された五百四十人の中に西郷隆盛の名もあった。赦免と同時に隆盛には『旧勲を録し、曾て享受せし位階に拠りて正三位』が贈られた。
 翌明治二十三年七月、枢密顧問官吉井友実の発議により、子爵樺山資紀は男爵九鬼隆一らと語らって、宮城正門外に隆盛の銅像を建設する請願を上程した。樺山は薩摩出身で、西南の役では熊本鎮台参謀長として同郷人と戦ったのであった。この請願は二十四年十月十四日付で一旦聴許された。
 天皇によって逆賊隆盛の名誉が回復される時代に入り、西南の役戦死兵への関心は薄れて行った。まして賊軍に荷担して死んだ兵士はただ忘れ去られるばかりだった。亡夫、亡兄を偲ぶわさの無念は募った。

明治二十三年(一八九〇年)六月に軍人恩給法が公布された。その関連で翌年十二月、佐賀、熊本、台湾、萩、西南役での戦死者の現存する遺父母、遺祖父母にも扶助料が給されることになるのだが、当然、姉わさと養嗣子定規に恩恵が及ぶことは無い。当てにできない『お上のなされよう』を見越して、わさは定規を国費での教育を目指してまい進させていた。わさの期待に応えて励んだ定規は明治二十三年九月には陸軍幼年学校入学を果たした。その翌月には教育勅語が発布された。

わさは、記憶の中にある計介養育の道筋をふたたび辿る気持ちで定規を育てた。心中ひそかに、計介の弔い合戦という思いがあった。その思いに定規がよく応えたのは、わさにとって幸いだった。
 幼年学校入学という当面の目標を達成させ、ほっとしていたわさにタイミングよく舞い込んできたのが東京への招聘であった。書肆厚生堂主人相澤富蔵が北村紫山に依嘱して編纂中の小冊子『尽忠の光』に計介を取り上げるため、郷里の状況聴取のために招いたのである。多分、相澤の紹介だったのだろうが、わさは、縁あって田辺助右衛門宅に滞在することになった。わさは四十七歳になっていた。
 上京に当たって、わさは、谷干城に手紙を送って面会を求めていた。この機会を逸したらまみえる機会の無い相手に何としても会いたかった。計介の命運を決めた人物である。計介の死と栄誉の双方を演出した人物である。曾祖母は、わさの言葉を『計介のありさま聞きたかりければ』と記しているが、計介に決死の使者を命じた当人の本音を聞きたいというのがわさの気持ちだったろう。
 この時すでに谷は予備役に編入され、従二位勲一等子爵貴族院議員であった。人力車で市ヶ谷の谷邸を訪れたわさは、玄関脇の部屋で半時も待たされ、書生に案内されて美しく長い廊下を一番奥の座敷へ案内される間に雰囲気に飲まれてしまう。
 正面に悠然と腰掛けた谷から『お前が計介の姉か。ああ、いい部下を失って残念である。計介は国のために死んでくれた。病気で死んでも仕方が無いが、計介は忠義のために一命を捨ててくれた。これから世間に名前が出るから…』と言われて、ただお辞儀をし、谷夫人からお茶とお菓子をいただき、反物一反と十円をもらっただけで引き下がった。

帰り際に、上六番町の川上操六邸にも寄るといいと言われ、添書までもらったものの川上は留守。最初の意気込みが挫けて、もう一度訪ねるのが何だか恐ろしくなりそのままにしていたら、川上から反物一反と十円が田辺宅へ届けられた。『物乞ひに訪ねしにはあらずとわさ女涙ながし給ひき』と曾祖母は記している。
 その翌日、曾祖母の案内で計介の紀功碑を訪れたわさは、碑を拝んだあと、高い碑面を振り仰いで『ああ』とため息をつき『お上のなされようは…』とつぶやいた」

              十二

祖母のノートは大正十三年(一九二四年)二月に書き始められた。
 その時、わさは八十歳、近隣に住む計介の元妻丸菅とよは七十歳、佐竹昌保の妻とみも八十歳で、いずれも健在であった。わさ達老女と二十歳前の祖母の間に立って文通を助けたのが、計介の兄祐光の子祐安の長男積善
(もよし)であった。わさと連絡がついてから祖母は、さかのぼってその後の経過を明らかにしているが、わたしのノートは年月の流れに従ってまとめることにした。

「さきに聴許された宮城正門外隆盛銅像建設の請願は、『故ありて』とのみ記録されている理由で明治二十五年十二月になって取り消され、樺山らに対して、場所を上野公園に移して再申請せよ、との指示がなされた。それに従って計画が進められる中、明治二十六年(一八九三年)八月二十二日に五百円が下賜された。
 高村光雲の手で隆盛銅像の制作が始まったころ、わさの期待を一身に担って励んだ谷村定規は陸軍士官学校に在学中であった。学校には欧米列強の東洋進出に備える雰囲気が満ちていたろう。
 すでに日本は朝鮮独立を巡って派兵、駐兵を経験しており、日清間の緊張は高まっていた。明治二十七年(一八九四年)四月全羅北道に起こった東学党の乱が日清戦争の引き金を引いた。属邦保護のための出兵と主張する清軍と、属邦と認めず居留民保護のために派兵するとした日本軍とは、七月末の豊島沖海戦と成歓・牙山の戦闘で戦争状態に入った。日本軍は連勝して翌二十八年四月の講和条約調印で遼東半島、台湾、澎湖島を清国から割譲され、全戦費に相当する賠償金二億(邦貨約三億千万円)を得た。遼東半島は露独仏三国の干渉で返還せざるを得なかったが、台湾を属領として東アジアの指導者を目指す足場を築いた。日本帰属に反対する劉永福らの軍隊との掃討戦が台湾で続く間、わさは、計介の台湾駐留当時を思い出し『また台湾で戦とは…』ととよと語り合った、という。 

明治三十一年(一八九八年)十月三万三千人からの醵金を集めて西郷隆盛は上野の地に甦った。この時陸軍少尉に任官し中央幼年学校生徒隊附であった谷村定規は名誉回復で上野の山から東京を睥睨する西郷像を見た。その便りを受け取ったわさは『西郷どんは嬉しかろうが…』とつぶやいた。加藤利易、利右衛門、祐光、計介の追悼に生きるわさの気持ちは満たされなかった。 明治三十二年(一八九九年)春、五十五歳になっていたわさは、谷干城が九州へ旅し、宮崎で宿泊することを聞き込んだ。
 四月三日、第二十三連隊の対抗運動を視察した谷は宮崎の古い呉服店丸屋に入った。定規の実父佐竹義篤を同道したわさは、大淀川の名産鯉二尾を持参して谷を訪ねた。 かつて訪問の意図も充分に谷に伝えられなかったわさが、あえて旅先の谷を訪ねた。その思いは、計介に関わる話を聞くことよりも、陸軍少尉谷村定規の将来にあった。
 谷も機嫌よく『前に会ったときと少しも変わらん。大変元気のようだ』といい、定規の少尉任官を喜んで聞き、帰り際にはみずから茶菓子を紙に包んでくれた」

                 十三

「明治三十三年からの四半世紀は、列強のアジアにおける帝国主義展開の最中にあった。わさの周辺にも変化が生じた。国際的に優位な立場を求めて日本が戦争へと突き進むなか、谷村計介が教科書に登場したのである。

初等教育の教科書は明治十六年(一八八三年)以来認可制がとられていたが、学校令の公布によって文相森有礼が教科書検定条例を制定したのは明治十九年(一八八六年)であった。こうして強められた教育の忠孝愛国路線は、教育勅語の発布を経てますます画一化されて行った。そしてついに国定教科書刊行が決定されたのが日露戦争の前年(一九〇三年)四月であった。  日清戦争で弱体をさらした清国に列国は露骨に踏み入り、ドイツは膠州湾、ロシアは旅順大連、イギリスは威海衛、フランスは広州湾を租借した。清国民衆に排外気運が高まる中で明治三十三年(一九〇〇年)に生じた義和団の乱は、各国の北京大使館を包囲したため、英米仏露日など八カ国の連合軍によって鎮圧された。
 この出兵を機会にロシアは中国東北地区要地を占領し、東清鉄道の支線南満州鉄道を大連旅順に伸ばした。明治三十五年(一九〇二年)にロシアの南下を懸念するイギリスとの間で日英同盟が成立したが歯止めにはならず、日露交渉は難航した。
 この時期、国民を結束し国威を発揚しようとする政府の文教政策は国定教科書に集約された。対露交渉決裂で明治三十七年(一九〇四年)二月に日本はロシアに宣戦を布告した。その二ヵ月後から使われ始めた最初の国定教科書修身の三の二『ちゅーぎ』の素材が計介であった。この教材の指導目標は、忠義の念を養うことに置かれた。

『明治十年に、カゴシマのぞくが、クマモトのしろをかこんだとき、しろの中からは、こちらのよーすを、とおくのかんぐんに、しらせようと、おもって、そのつかいを、谷村計介に、いいつけました。計介は、いろいろのなんぎをして、とーとー、そのつかいをしとげました』

日露戦争は長引き、軍事力、財政力が底をついて戦争続行が困難になる中で、ロシア国内で激化した革命運動に助けられて日本は勝利を得た。
 この戦争に谷村定規も大尉クラスで参加したに違いないが詳細は分からない。わさ女と祖母の遣り取りに何も記されていないのは戦地へ出征しなかったからかもしれない。ともあれ谷村定規は順調に昇進していった。
 明治四十四年(一九一一年)五月、谷干城没(享年七十五歳)。正二位に叙位。この年、わさ女は六十七歳。計介の死後三十四年が過ぎていた。
 明治が遥かになった大正十一年(一九二二年)八月十五日、谷村定規は陸軍少将に昇進し秋田の第十六旅団長に任命された。定規四十八歳の出来事である。

大正十三年(一九二四年)は計介戦死から四十七年目である。この年二月十一日の紀元節に、東宮裕仁と久邇宮良子との婚儀を祝して国家への功労者二百三十九人に贈位叙位叙勲が行われた。
 そのうち贈従五位名簿の中に谷村計介の名があった。
 二月十二日付の東京朝日新聞には『表彰された日露戦役の両志士』という見出しで、松花江鉄橋爆破の軍事探偵としてロシアで処刑された贈勲五等横川省三と沖禎介が大きく紹介されている。清、ロシア両大国との戦争を報道した新聞は、西南役の『英雄』贈位をニュースとは見なかったのだ。
 死後半世紀近く経てば止むをえないことだろう。計介と同時贈位の中に、大阪落城の武将木村重成、吉野朝の義将菊地覚勝、元寇の武将大矢野種村などと並び、敬神党の総帥だった太田黒伴雄、加屋霽堅の名前がある。五十年の歳月は恩讐を越えるということか。政府は熊本鎮台襲撃の首謀者二人に、それを鎮圧に向かった人物にまさる正五位を贈位した。計介も彼らもすでに歴史上の人物に仲間入りしつつあったのだ。

祖母が曾祖母から聞き書きを見せられたのはこの記事がきっかけであった。
 祖母のノートには、積善に写しを送ってもらった定規の手紙の一節が記されている。行軍宿営中の秋田県陸中花輪から送られたもので、日付は二月十三日になっている。計介贈位を知った直後にわさに書き送ったものである。

『本日当地にて東京新聞拝見致候処、父上様には今般贈位の恩命に浴せられ候由、聖恩の優渥なる誠に感激の至に不堪候。地下の父上様は勿論叔母(原文のまま)上様方にも如何ばかり御喜の事と奉存候』

『贈従五位谷村計介』の贈位記は、上京した養嗣子谷村定規が受け取った。
 贈位の報が倉岡郷に伝わると、村長、在郷軍人分会長らは歓喜して表彰方法を協議した。在郷軍人会の行動は素早く、二月二十七日にはもう計介の墓への墓参道路の拡張修理が終わった。次いで計介生家に通じる道路を修理し、生誕家屋の保存も決まった。 青年会員は、計介が心身の鍛練に利用した岩摩淵(いわすりふち)に通じる道路を作り、岸辺に記念碑を建てることとした。さらに倉岡郷にも記念碑を建てることにして、第六師団司令部から熊本城に用いられていた巨大な石(高さ四尺八寸、幅三尺六寸、厚さ一尺二寸)を貰い受け、閑院宮載仁親王に書いてもらった『忠烈』の文字を刻んだ。
 倉岡郷の外でも顕彰の動きが高まって、宮崎神宮に計介銅像を建てようとする銅像建設会ができた。総裁に子爵上原勇作、顧問に東郷平八郎、奥保鞏らを据え、高村光雲監督の下に関野聖雲が制作するというもので、二万五千円の目標を掲げて募金運動が始められた。
 陸軍墓地に計介の墓がある木葉村では、村教育会と在郷軍人会が共催で贈位報告会を四月三日に開いた。この会には谷村定規も出席して謝辞を述べた。
 これは長寿を果たしたわさに与えられた栄誉でもあったはずだが、わさは『お上のなされようは…』と言ったのみで、勧められても晴れの場に出ることはなかった」

              十四 

わさの醒めた目を記して祖母のノートが終わったところで、わたしは心に兆していた疑問を集中的に調べた。
 鎮台密使の使命を達成した宍戸正Wはどうなったのか。
 西南役が終息して、宍戸は家郷に生還した。何らの栄誉が与えられることもなかった。その戦功談は家族や知己に語られたに違いない。手記も書かれたようだが、それが公になることはなかった。
 大正十三年九月、計介贈従五位を機に計介伝執筆を志した伴三千雄は、正Wの嗣子で当時陸軍三等主計だった宍戸圓三郎を訪ねたところ、圓三郎が手記を所蔵していたと書いている。しかし、計介に関する記述が無い、として手記の内容については触れていない。敵中往復の宍戸が取った経路などが明らかになるはずだった資料は、そのまま埋もれてしまった。

谷干城はさらに後続の密使を送らなかったのだろうか。
 熊本篭城は五十二日にも及んだ。開戦の数日後に宍戸、谷村の二人を送り出しただけで、谷は満足したのだろうか。ある資料は、鎮台から出た密使は前後九人で、生還したのは三人だけだった、と書いている。谷がさらに密使を送った可能性はある。しかし、この両名以外についての記録は事実の痕跡すら探しだせない。

『官兵の情況を知んと欲し人を遣る数度に及ぶと雖も能く其功を遂る不能茲に看守宍戸正輝を遣り其目的を達するを得彼我の両情知悉するを得』という谷自身の記録は、計介のことすら書き残していない。計介は『其目的を達する』ことが出来なかったのだから当然ともいえるけれど…。

いったい、谷はどの程度まで計介を知っていたのだろうか。
 計介の紀功碑には『眼に丁字なし人未だ之を奇とせず後憤りを発して書を読み字を習ひ』というくだりがある。実際の計介は幼少から文字を習った。慶応三年(一八六七年)に倉岡郷で郷士の子弟八人の『論語』素読を検閲した地頭名越の日記に『谷村諸次郎十五歳』の記述がある。谷には、兵士下士は無知という思い入れがあったか、あるいは撰を書くに当たり兵は愚直を旨とすべきと考えて文盲にしてしまったのか…。
 碑文には他にも間違いがある。『計介佯て懦夫の状を為し股栗垂位す。賊之を憐れみ担夫と為す。復間を得て逃れ遂に第一旅団に達す。時に二月二十八日なり』経過は計介のものだが、日付は宍戸正輝との混同である。将官と伍長の関係から言えば、谷にとって計介は持ち駒のひとつに過ぎず、使えさえすれば誰でも良かったに違いない。計介が生還していたなら、谷は『軍人亀鑑』の栄誉にふさわしい他の戦死者を選んでいたのだろう。

西南戦争で戦った政府軍のエリート(大尉以上の将校)は目を見張るほどの昇進栄達をとげた。使い捨てられた下士兵卒の死者の間から敢然として立ち上がり、ついに将官に達した谷村定規のその後はどうなったろう。
 興味を持って調べてみたが、どうやら少将秋田旅団長が上限だったようだ。定規のその後は、昇進の記録も転任の記録も見つからない。定規が在籍した陸士第六期は二百十六名が卒業した。そのうち将官に達したのは四十七名(大将一、中将十四、少将三十二)で卒業生全体の二一・七%にすぎない。定規は陸軍大学校には進んでいない。閣下の地位を得たのは、わさ女の願いを背に自力で這い上がった成果にほかならない。

教科書の計介はどうなったか。
 第一期国定教科書は明治四十二年(一九〇九年)まで使われた。第二期はその翌年から大正六年(一九一七年)まで、第三期は大正七年から昭和七年(一九三二年)まで使われたが、第二期、第三期のいずれも、計介は修身の『忠君愛国』と表題を変えた教材としてほぼもとの内容で登場した。しかし、第四期では姿を消している。近代戦の時代に旧態依然の忠君教材はそぐわなくなったのだろう。
 計介退場に先立ち、定規が昇りつめた地位で贈位記を受領できたのは、わさ女の生涯の終幕に当たってまたとない僥倖であったというしかない。

              十五

秋風が立った。一夏の成果をもとに論文作成に取り掛からなければならない。
 その前に確かめておきたいことがわたしにはあった。
 計介の碑はすでに靖国神社境内にはない。同神社の拡張に伴って九段坂下牛ケ淵公園に移されたことは文献にある。その公園も都心再開発の中で消滅した。碑はどこへ行ったのだろう。

「それは靖国神社で判るんじゃないかな。この週末に行ってみよう」と伯父が言った。
 わたしたちは靖国神社を訪ねた。社務所で尋ねたら、係りの女性は用件を聞いて室内へ引き込んでしまった。かなりの時間が過ぎて、わたしたちが待つ受付の電話が鳴った。「いえ、まだいらっしゃいます」と受付の人が答えた。もう帰ってしまったか、という問い合わせだったらしい。「電話に出てほしいと言っています」と渡された受話器を耳に当てると、先ほどの係りの人だった。

教えられた通り、わたしたちは九段坂を下って九段南牛ケ淵畔を目指した。
 九段会館に隣接するさほど大きくない付属の駐車場に入ると、右手前方のわずかな植え込みの中に碑面が白く風化した大きな碑が見えた。遠目には『軍人亀鑑』の篆額のみが読める。何も書いてないのかと近くに寄ると碑文の刻字はしっかりしている。台石に上がり振り仰ぐ。が、頭上高くは反射もあり文字を読むのは極めて難しい。

『鳴呼一卒一下士耳而忠勇義烈魏然炳然足以為軍人亀鑑如谷村計介者可勝悼歟…』

こういう訓点のない漢文を千二百字余りも碑面で読み通すのは不可能だと思った。この碑を探して訪ねてきたわたしがそうなのだから、一般に読む人があるとは思えない。この植え込みには少しはなれてもう一つ碑がある。西南戦争忠魂碑であった。
 駐車場への車の出入りは頻繁で会館利用者も多い。しばらく眺めていたが、碑に気づく人、目をとめる人はいない。
 今年平成十二年(二〇〇〇年)は計介の死から百二十三年目である。碑の周辺だけが時代の流れに取り残されている。

「これはまさに、弁慶ならぬ『計介立ち往生』という格好だな」

と伯父がつぶやいた。
 谷村計介が他の密使同様に無名で土に還るには、時の堆積が碑をもとの石に返さねばならない。それにはまだ千年もかかるだろう。
 このとき初めて、わたしにはわさ女の言葉に込められた思いが分かった。碑の現状を見ればわさ女はきっと言うに違いない、とわたしは思った。

「お上のなされようは…」


(主な参考文献)

贈従五位谷村計介  下田一喜、古財運平編  稲本報徳舎

贈従五位谷村計介伝 伴三千雄          同君銅像建設会

谷干城遺稿 上下  島内登志衛編        靖献社

明治天皇紀 各年                   宮内庁

西南記伝 上中下                   黒龍会

西郷隆盛伝  勝田孫弥          

日本の百年@御一新の嵐              筑摩書房

明治文化全集 正史編、軍事編、交通編     日本評論社

軍事史物語  松下芳男               国民図書協会

陸軍省沿革史                      陸軍省

明治文化資料叢書 外交編             明治叢書

郷土史事典 宮崎県、熊本県            昌平社

東京百年史                       東京都

火はわが胸中にあり 沢地久枝           文芸春秋

近衛野砲兵連隊史  編纂委員会

国定教科書     粉川 宏             新潮選書 

軍国美談と教科書  中内敏夫            岩波新書

日本教育小史    山住正巳            岩波新書

軍人名鑑各種               

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