ひとつのいのち

 ジージー、ジジー、ジジー。

(どうしたんだろう。どうして前に進めないんだろう。庭の草木もよく見えているのになぜなんだろう)


「あれ、何の音かと思ったらハチだよ。おかあさん。どこから入ってきたんだろう。ガラスにぶつかって外に出られないんだ」

「せんたく物を取り入れたとき入ったのかな」

「かわいそう」

「刺されないうちに外に出さなきゃ」

「少し窓を開けてみるね」

「あっ、ちょっと待ってカホちゃん。これひょっとして、あれじゃないかしら」

「あれって?」

「ほら、大雪山に登ったとき黒岳石室の前に出ていた『監視してください』という看板」

「ああ、あのハチ?これが?」

「ほら、胴体は黒と黄のタイガースカラー、黒い毛がふさふさしてお尻が白い」

「ぴったりだね。なんて名前だっけ」

「あのハチのことは、カホがインターネットでくわしく調べたじゃない」

「そうだ。プリントしたんだ」


(困ったなあ、どうしたらいい?見えない何かがじゃまして飛んで行けない)


「セイヨウオオマルハナバチだよ。おかあさん。どうする?」

「どうするって?困ったわね」


 〈このままだと、困るわね〉    

 〈そりゃ困るよ。ぼくたち日本のハチも、君たち野生の花も生きのびられないよ〉

 〈なぜ花粉を運んでくれないのかしら〉

 〈あいつらの舌が短いからさ。上からは届かないから横に穴を開けて蜜だけ盗み、花粉にはさわ 

  りもしない。おまけに強くて、ぼくたちが住みかを追われてるんだ〉


 《困りましたね。このままでは日本の昆虫と植物の助け合いが途絶えてしまう》

 《温室から逃げ出すのを防げず、各地で野生化させたのは大失敗でした》

 《日本のマルハナバチとセイヨウが混じって雑種が生まれるのも困ります》

 《みんなが力をあわせ、見つけたら殺し、巣をこわすしかありません》


「セイヨウオオマルハナバチは、オランダやノルウエーから連れてきて温室トマトの実をつけさせる 

 のに利用したって書いてある」

「トマトの花には蜜が無いから、巣を作るのに役立つ花粉運びに利用したのよね」

「外国から連れてきて利用して、閉じ込めに失敗したから殺すというのはひどすぎない?」


(早く巣に戻って子どもを産まなくてはならない。わたしは女王なんだものうんと仲間を増やさなく

 ては)


「このまま逃がすのはまずいわ?日本のハチや植物が滅びる手助けをすることになる」

「じゃあ、どうするのよ。おかあさん」

「そうね。掃除機で吸い取ってしまう」

「殺すの?こんなに生きようとしているのに」

「このハチはトマトの温室の中だけで生きる価値があるのよ。外に出ては困るの」

「温室の内外で命の値うちに違いがあるの?」

「あるのよ。人間の勝手だけれど。このハチは野外で生きるだけで罪を犯しているのよ」

「そんなのおかしい。命の値うちに違いは無いよ。そんなことをいうおかあさんは嫌い」

 

(敵の女王を殺して巣を奪った私だ。負けるものか。でも、ほんとに疲れた)


「カホに、おかあさんを嫌いにさせないで。窓を開けさせて。いいでしょ?」

「気持ちはわかるわ。ひとつの命と多くの命、どちらが大切とは決められないものねえ」


(すずしい風を感じる。その方へ行こう。これはなんだ。行き止まりだ)


「窓わくに行き当たって戻っちゃった。そんなにガラスにくっついてちゃダメだよ」

「前に進むことしか考えないから、まわりのことが目に入らないのね」


 (巣づくりの途中なのに。もうだめだ) 


「もっと広く窓を開けないと

「カホちゃん、このままにしておいて。飛び出せたらハチの勝ち。疲れて飛べなくなったらハチの負

 け、ということにしましょう」

「そうだ。写真を撮らなきゃ。写真をつけて報せてくださいと書いてあった」


(もうふらふら。もう飛べない。ああ、風を感じる。風の流れにまかせて


「あっ、飛び出した。庭へ飛んでいったよ」

「よかったね。カホちゃん。ほっとしたわ」

「おかあさん。日本の自然を守る研究会へEメールに写真をつけて送るよ」


(助かった。急いでみんなのところへ帰らなければ。あの木の間をぬけて行こう。あっ何かに

 引っかかった。見えない網が張ってあったのに気づかなかった。羽根がくっついて動かせない。

 あれっ恐ろしい怪物が近づいてくる。助けて

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