二十年目のノクターン



 金太郎は、自分の名前がいやで聞いてみたことがあります。

「どうして金太郎なんてつけたの?」

「そりゃ、うちが坂田だからよ」

「どうして、坂田なら金太郎なの?」

「昔話の金太郎は、坂田金時という源氏の武士になったのよ。でも、金時じゃいやでしょ?」

「金太郎だって、やだよ」

 そうなのです。金太郎という名前のおかげでどれほどひどい目にあってきたことか。

 小さい頃は「あなた金太郎ちゃんっていうの。まあ…と、たいていの大人が笑いました。なぜって、金太郎はやせっぽちで色白で絵本の金太郎とはまったく違っていたからです。

 小学校に入ると「やーい金太郎、すもう強いんだろうな」とワンパクどもにいじめられました。クラスで一番弱いのが金太郎だったのです。かけっこはいつもビリ。鉄棒は前まわりもできません。先生は「名前に負けずがんばれ」といいます。

 学校に行くのがいやでたまりませんでした。いやな学校につながる勉強もすきになれないので、どの学科も成績はあがりません。

 何もかも人におよばないので、仲良しの友だちもいなくなり、金太郎はいつのまにか仲間はずれになっていました。

 一度はみ出すともうもとへは戻れません。席替えがあって金太郎と並ぶことになった子は「えっ、金太郎のとなり?最悪」というし、班分けがあるといつも金太郎ひとりはみ出してしまいます。学年が進んでもクラス替えがあっても、金太郎の評判はみんなに伝わっていてそれを変えることはとても無理なのでした。

 修学旅行はつらい経験でした。みんなが金太郎は参加していないということにしてしまったからです。だれとも話ができず、だれも一緒に歩いてくれません。寝る前にトイレに行ってどってくると、金太郎のふとんは廊下に出してありました。仕方なくそこに寝ていたら見まわりに来た先生は金太郎を叱りました。

 中学に行ったら楽しいかも、という期待はすぐにしぼみました。

 入学式のあと、上ばきを脱いでくつ箱から出した運動ぐつにはきかえたら「あ、痛た」。見るとくつの中に画鋲がひとつ入っていました。それがいじめの始まりでした。

 だれからも無視されることには慣れていても、持ち物がなくなり探し回ってゴミ箱のなかから見つけるというようなできごとが続くと気が滅入ります。

 学校に行こうとすると気分が悪くなる日がでてきました。しかし、休んだ翌日はいじめがひどくなるような気がして、無理にでも登校しようとしました。よほど気分が悪いときは保健室で過ごしました。

 ずいぶん努力した金太郎でしたが、二年生の秋にはなんのために学校に行くのか分からなくなり「もうどうでもいいや」と思った日から登校できなくなりました。

 はじめは叱った両親もそのうち心配になり、担任の先生に相談に行き、校長先生とも話し、その話を金太郎に伝え、なんとかしようと動き回りましたが、結局何も解決しないままで日が過ぎて行きました。

 ぼくはなぜ生まれてきたのかなあ、と金太郎は思いました。なぜみんなにきらわれるのだろう、と考えました。いくら考えても答えは出ません。金太郎は考えることにも疲れてしまいました。

 春のある日、コンビニへ行った金太郎は入口で女の子にぶつかりそうになりました。

「あ、金太郎」

「あ、…

 とっさに名前は出なくても、その子が同じクラスにいることは知っています。長身で長い髪、いつも昂然と顔をあげて一番後ろの席から教室を見渡している子です。「すまし屋」「ひとりよがり」「にせクイーン」などと呼ばれて女の子の中で孤立しているのを金太郎も知っています。

「金太郎の家はこの近く?」

「うん、四丁目」

「うちは三丁目だから近くね。ちょっと待ってくれる?切手買うだけだから」

 コンビニを出た二人は散りはじめた桜の並木が続く坂道を登ってゆきます。

「登校拒否長いね」

「うん。そうなってしまった」

「この先どうするつもり?私自身がいじめられっ子だから何もしてあげられないけれど、私は金太郎の味方よ。出ておいでよ」

「君は強いんだな。ぼくはダメだよ。耐えられない」

「そうね。気持ちは分かる。わたしはね、受け流してるの」

「受け流すって?」

「自分の目標だけを見つめて、そのほかのことは雑音だと思っちゃうの」

「自分の目標?…そういう君の目標は何?」

「私はピアノ。コンクールに出るのよ。もちろん優勝をめざして」

「すげえ。いいなあ、そんな目標があって。ぼくなんか何もない」

「そうかな。何かあるはずよ。学校に来ないで何してるの?」

「うーん、何っていうほどのことはしてない。そうだなあ、…お菓子作ってるかな」

「すてき。どんなものを作るの?クッキーやケーキ?」

「そう。いろいろ試してる」

「それよ。とりあえずはそれね。…うんそうだ。頼まれてくれる?ママの誕生日のケーキ。来週土曜日なの。そうね、五百円払うから

作って」

「そんなむちゃな。無理だよ。できないよ」

「逃げないの。これが当面の君の目標。これくらいができなくてどうするのよ。たとえ失敗しても恥をかく相手は私一人でしょ?私は君のこと笑ったりしない。うちの番地教えるわね」

 別れたとたん金太郎は思い出しました。そうだ、あの子の名前は真帆だ。

 金太郎の日々に張りが生まれました。来週土曜日までに誕生日ケーキを作らなくちゃ。

 どんなケーキにするか、あれこれ考えるのは楽しいことでした。いったんは無理だよとはいったものの、いざやると決まれば真帆を感心させたいという思いがつのります。町の洋菓子屋には売っていないケーキを作ろうと心に決めました。学校のことを忘れるために手を染め、お手本通りに作っていたケーキも、最近ではすこしずつ自分の工夫を入れるようになっていました。砂糖の代わりに蜂蜜を使ってみた金太郎は、蜂蜜の種類によって出来上がりの香りが違うことに驚いたりしていました。今回はその中で一番気に入っているのを作ることにしました。

 そしてやってきた土曜日。焼き上げたケーキを、ハンズの店で手に入れた箱とラッピング材料でお化粧して、金太郎は真帆の家を訪ねました。

「まあ、すてきなケーキ。これをあなたが?」

 真帆のママはとても喜んでくれました。

「さっそく、いただきましょうね」

 切り分けたケーキを味わった真帆とママは顔を見合わせました。

「おいしい。とてもいい香り。こんなのはじめて」

 蜂蜜を使ったと聞くと、ママが言いました。

「じゃあ金太郎さん。コンクールに出すといいわ。実はねえ、私が出そうかと少し調べていたの。でも今日こうして味わってみると私なんか遠く及ばないわ。ぜひ、お出しなさいな」

 金太郎はインターネットのホームページを印刷したというコピーを見せてもらいました。そのタイトルは「蜂蜜レシピコンクール」。種目は「スープ」「メインデイッシュ」「サラダ」「デザート」の四部門に分けてあります。その「デザート」部門に応募したら、というのがママの勧めでした。

「インターネットで呼び出せば詳しい規定が出ているし、前回の入選作も紹介されているから参考にするといいわ」

 金太郎は考えました。大人の中に混じって競うのだからこれはとてつもない挑戦になる。とうてい勝てるとは思えない。しかし、真帆のいった自分の目標にはなる。ほかにやりたいことはないのだからやってみる価値はある。

 とはいえ、前回入選作を見て金太郎はこれはとてもかなわない、と思いました。味だけの審査ではありません。材料、作り方、出来上がりの形、味のすべてが試されるのです。第一次審査はレシピ(材料・作り方)と完成写真による書類審査、第二次審査は審査員の前で規定時間内に作り上げ、盛り付け、試食になるのです。

「私は、ショパン国際ピアノコンクールに出場するのよ。十一月に関東地区予選、一月に全国大会、そのあとにアジア大会があるの。ひとつずつ勝ち抜いてゆくつもり。あなたのコンクールは九月から十月でしょう?お互いにがんばりましょう」

 真帆の言葉で金太郎は心を決めました。結果がダメでも失うものは何もない。何かをめざして進むことに意味があるのだと思いました。

 しかし、金太郎はたちまち困ってしまいました。これまでの経験は、お手本をもとに一部に工夫をこらすケーキ作りでした。今回は最初から自分で作り上げなければなりません。いったいどこから手をつければいいのか。途方に暮れた金太郎は蜂蜜の勉強からはじめました。それが役に立つのかどうか、それも分かりません。何かせずにはいられなかったからにすぎません。

 スペイン・アラニア洞窟の一万年前の壁画に蜂の巣から蜜をとる女性の絵が描かれている、メソポタミア文明の象形文字で蜂蜜の記述がある、アリストテレスが養蜂について書いている、日本の養蜂の始まりは六百四十二年頃らしい、蜂蜜の比重は約一・四で、結晶する温度は摂氏十度から十五度と幅があり素材の花の種類で異なる、水の粘度を摂氏二十度で一cp(センチポアズ)として、蜂蜜は五千から六千cpである、いま東京・銀座のビルの屋上で養蜂事業を行っている団体がある等々、手当たり次第にさまざまな知識をたくわえて行きました。

 こうして日々蜂蜜のことを考えているうちに、不思議なものでいろいろアイデアが浮かんできました。それをケーキにするにはどうすればよいのか。材料、分量、その配合、焼き方、ソース、ひとつひとつ具体化しなければなりません。

 あれこれ作ってみたものの失敗つづき。創作がこんなに難しいとは考えていませんでした。止めようかと思ったことも何度もありました。そのたびにピアノに向かっている真帆のことを考えました。

 ひと夏かかってようやく金太郎は出品作品を決めることができました。名前は「フライングビー」とつけました。蜜蜂が飛ぶようすをイメージしたお菓子です。

 レシピと写真を送って一仕事終えた満足感にひたり、もうこれでいいと思いました。ところが意外なことに「フライングビー」が第一次審査を通ったという通知が来たのです。

 審査会場に行って金太郎はびっくりしました。第二次審査を受けるのは十人だけ。他の九人は大人です。うち女性は四人。五人の審査員が見守る前で調理を進めます。持ち時間は二時間。

 金太郎は、卵白に蜂蜜を加えながらメレンゲを作り、卵黄と薄力粉をあわせ、三センチの大きさにしぼり出したベビーカステラ風をオーブンで焼きました。

 つぎに、生クリーム、卵黄、蜂蜜をまぜて火にかけゼラチンを加えて蜂蜜クリームを作りました。

 さらに卵白とレモンジュースをミキサーにかけ、煮詰めた蜂蜜に注いで蜂蜜メレンゲを作りました。

 こんどは皮ごとカットしたオレンジをバ

ターと蜂蜜で加熱しコンフィを作りました。

 オレンジコンフィを敷いて蜂蜜クリームをしぼり出し、その上に蜂蜜メレンゲを渦を巻くようにしぼり出します。それを交互に繰り返して表面をバーナーで焼くと、縞々のハチの胴体のイメージができました。

 その上にベビーカステラ風を置いて蜂蜜レモンスープを流し、砂糖を溶かして作った薄い透明羽根を広げました。

 蜂蜜を数滴たらし、ミントをかざってようやく完成です。

 緊張のあまり疲れはててしまった金太郎は、あとのことはよく覚えていません。

 長い長い時間が過ぎたように思います。やがて人の名前が呼ばれ、拍手が起き、つぎつぎと行事が進んで行きました。とつぜん自分の名前が呼ばれて「はい」と立ち上がった金太郎は、ものすごい拍手につつまれて何が起こったのか分かりません。

 史上最年少の「デザート」部門金賞受賞、これが金太郎に与えられた栄誉でした。

 真帆に誘われて久しぶりに登校した金太郎はクラスのみんなから拍手で迎えられてびっくりしました。近寄ってきたボスは「おれにも一度ケーキを食わせろよ」とささやきました。

 関東地区予選中学生の部を銀賞で通過した真帆は、一月に開かれた全国大会に進みました。金太郎も東京・浜離宮ホールに行きました。中学生の部の課題曲は地区予選での演奏曲およびショパン練習曲一曲となっていて、真帆はノクターン二十番と作品十エチュード三番を選んでいました。

 真帆の演奏が始まると金太郎は深い感動に引きずり込まれました。金太郎の感嘆を言葉で表現すれば華麗、玲瓏、流麗の極みとでもなるでしょうか。金太郎は音が宝石のように輝くのを初めて知ったのです。

 エチュード三番を聴きながら金太郎は、地元の調理師学校に入る自分と東京の音楽大学付属高校に進む真帆とはもう会うこともなかろう、と思いました。

 この演奏で真帆は奨励賞を受賞しアジア大会出場権を手にしました。

 三月。卒業式のあとで真帆と顔をあわせた金太郎はいいました。

「きっと便りをするからね。よかったら君も」


 十年後。金太郎の手紙

「真帆さま。しばらくでした。先月、ぼくが勤める東都ホテルで蜂蜜協会連盟世界総会が開かれました。総会後の夕食会を『蜂蜜づくし』にしたいと考えられた総料理長は、蜂蜜なら金太郎だとぼくにメニュー作りを命じられ、手直しはされましたが次の通り決まりました。

 [前菜] 

 えびのグリル アボガドハチミツ風味

 [スープ]

 ハニースイートポテトスープ

 [主菜] 

 ハチミツと鴨肉のマリアージュ

 [サラダ]

 ハチミツたっぷりのフルーツサラダ

 [デザート]

 チーズタルト ハチミツゼリードレッシング

 主菜はお客様のさまざまな宗教事情を考えて鴨肉にしました。マリアージュはフランス語で『結婚』です。オリーブ油で両面を焼いた鴨肉にオレンジブロッサム蜂蜜とマスタードを塗って薄くスライスし、バターでソテーし白ワインとビネガーと蜂蜜で煮詰めた生姜、クローバー蜂蜜で炒め赤ワインとビネガーで煮込んだ赤キャベツとりんごのソルべを添え、蜂蜜ココアソース、蜂蜜赤ワインソースをたらし、蜂蜜がけのマカデミアナッツ、セロリ、パセリ、クレソンで作ったブーケを飾りました。

 宴会後、総料理長と一緒に総会会長ジェラール・フィリップさんにごあいさつしたところ、たいそう満足されていて『エスプリに満ちたメニューだった。パリに修行に来る気はないか』とお誘いいただきました。このチャンスを逃してはと、お言葉に甘えてパリに行くことにしました。来月出発して数年は帰らず料理に打ちこむつもりです。どうか真帆さまもピアノ修行に励まれますように」


 さらに十年後。金太郎の手紙

「真帆さま。しばらくでした。十月一日に東京・六本木に『レストラン・キンタロー』を開店します。それに先立って、前夜九月三十日午後七時から、お世話になった方々をお招きしてささやかなパーティーを開きます。ぜひ、お出でください。

 そのおり勝手ながら、店のピアノの弾き初めをかねて演奏をお願いできないでしょうか。

 選曲はおまかせしますが、ショパンのノクターン二十番はかならず入れてください。修行中のつらいとき、くやしいとき、どれほどこの曲に癒されたでしょうか。でも、誰の演奏を聴いても最初のあの感動にはいたらず、またあなたの演奏で聴きたいと思い続けてきました。このお願いをするために、これまで努力してきたような気もします。

 その望みがかなう日が手の届くところまできたことを喜んでいます。

 お目にかかれる日を楽しみに」

 

 真帆の返信

「金太郎さま。おめでとうございます。とうとうやりとげたのですね。パーティーには大喜びで出席させていただきます。

 いまの私は、あなたの励ましにもかかわらず夢は同じ道を歩き始めた娘に託して、近所の子どもたちにピアノを教える日々です。その私にこのような晴れの場を与えてくださってありがとう。精いっぱい弾かせていただきます。

 あなたのお便りを交響詩『金太郎の生涯』を聴く心地で読み続けてきました。いよいよ第四楽章の始まりですね。どんな展開になるのでしょうか。

 二十年ぶりの再会にわくわくしながら少し怖くもある真帆より」

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