シューマンについて

作成日:2000-12-21
最終更新日:

1. シューマンの人気

クラシックの分野ではシューマンは一定の人気がある。私はシューマンの音楽にはなじめない。 理屈もなにもないのだが、少しばかりどうでもいいことを書いてみる。

2. 幼いころ出会ったシューマン

シューマンのピアノ曲を最初に聞いたのはいつだったか忘れた。小学校2年のとき、 オルガン楽譜に載っていた「楽しき農夫」を弾きながら聴いたのが最初だろう。 たぶん簡略版だったと思う。この曲を弾きながら、 「どこが楽しいのだろう」とか「なぜ農夫でないといけないのか」と妙なことを思った。 これが最初のボタンの掛け違えとなったのだろう。 未だにシューマンの曲を十全に理解しようとする気にはならない。 まして、好きになるなど、とんでもないことだ。

その次はいつだろう。小学校4年のときだろうか、 多分、日本放送協会の「ピアノのおけいこ」で井口澄子さんが講師だったときのテキストに載っていた、 「初めての悲しみ」が次のシューマンの曲の出会いだったような気がする。 この表題が、図らずも今の気分である。 この曲に対する印象は悪くない。 むしろ、表題から受ける印象よりさっぱりとしていて、好感がもてる曲だった。 といっても、もとは「子供のためのアルバム」に収められている曲だから、 あまりごたごたいっても仕方がないのだが。

さて、「ピアノのおけいこ」では、 同じ「子供のためのアルバム」からは、 「サンタクロース」とか、 「春の歌」も取り上げられていた。 そして、「子供の情景」からは「トロイメライ」、「詩人は眠る」などが、 そして「音楽帳」(アルバム・ブレッター)からは「幻想的舞曲」 (ファンタジータンツ)が載っていた。これらの作品は弾いていた。 このころの、楽譜が2ページに収まる小品で知られたシューマンならよかった。

そういえば、ピアノのおけいこの最初の曲が、 シューマンの「森の情景」から「森の入口」だったときもあった。

3. 成長して出会ったシューマン

中学生から高校生にかけて、FM ラジオを中心にクラシックのいろいろな音楽にはまっていった。 その頃知ったのは、 シューマンという作曲家はどうやら2ページを超えるピアノ曲も書いていた、 ということだった。 それもけっこうな数だった。 「アベッグ変奏曲」、「蝶々」、ピアノソナタ(3曲)、「謝肉祭」、「アラベスク」、 「クライスレリアーナ」、「幻想曲」、「交響的練習曲」、「幻想小曲集」などなど。 他の曲もあるではないかと突っ込む方もいるだろう。 すいません、残りの曲はすぐにどんな曲だか出てこないので勘弁して下さい。 今挙げた曲はかろうじて一部を覚えているので 出てきてもらったのです。

これらの曲を成長期にはかなり聴いた。しかし、自分で練習してみたいと思った曲は一つもなかった。 なぜかはわからなかった。 難しい、と思ったからかもしれない。 では、なぜ、同じように難しいと思っていたショパンの曲は練習したのだろう。 よくわからなかった。

これもホームページのどこだかに書いた気がするが、忘れた。重複を恐れずばらすことにしよう。 シューマンのピアノ五重奏曲をエアチェックしていたときのことである。 第 4 楽章のロンドで、冒頭部が再現されたあとで 終止形が出てきたので、 もうこの曲が終わってしまったように思い、そこで録音を終了するため停止ボタンを押した。 ところが、さらにこの後から曲が始まるのだった。私は焦ったが、途中5秒ぐらいが切れてしまった。 シューマンに対するうらみつらみは、ここから出ているのかもしれない。

4. 学生時代のシューマン

学生時代には、腕達者のアマチュアピアノ弾きが集まる場にたむろしていた。その場では、 当然のことながらシューマンを熱心に練習する方々がいた。 その一方でシューマンに無関心だったり、あからさまにけなしたりしている一派もいた。 けなす一派の文句もたいした理由があるわけではなく、 「髪型が気に入らない」、「女にもてそうにない」、 「頭が悪そうだ」など、はっきりいってただの悪態である。

今までの経緯でお分かりの通り、私はどちらかというとけなす一派だった。正確にいえば無関心であった。

驚いたのは、アマチュアピアノ弾きの中でのシューマンの人気が高かったことだった。 そしてシューマンを熱心に練習するピアノ弾きの中には、シューマンという人と彼の曲に対して、 あくなき探究心と見事なまでの熱意の双方を持っている人が稀にではあるがいた、ということだった。 もっとも、このような探究心と熱意、そして技術を持っている方はそうはいなかった。 少なくとも私がそのように思い、感服する演奏者はそうそういるわけではなかった。 これは、アマチュアだけでなく、プロのピアニストにもいえることだった。 そうして、熱意もテクニックもない演奏者がのっぺりと弾くシューマンは、 生で聴いてみたところで私にとってはただの時間つぶしに過ぎなかった。

あるとき、熱意も技術もある稀な方がシューマンのピアノソナタ第2番を演奏したのを聴いた。 びっくりした。 それでは、ということで私も練習してみることにした。この試みは失敗だった。 だいたい、 ピアニスティックに書かれていないという意味で悪名高いシューマンのピアノ曲の中でもとびきりの難物である。 第 4 楽章は、「できるだけ速く」という指示で始まるくせに、 途中で「さらに速く」という指示が(ドイツ語で)入るものだから、練習しながら頭にきたものだ。 自分の技術がなかったのがこのソナタを嫌いになった理由の大きな一つだろう。 しかし、それ以上に感情移入ができなかった。だから、結局弾けなかった。 そして、シューマンという人も、シューマンの曲も好きにはなれなかった。 それでも、シューマンが好きな人の気持ちはわかるような気がしたのが唯一の収穫だった。 今から思えば、練習したのがこの曲でよかったかもしれないと思う。 他の曲ならたぶんシューマン弾きに対しての畏敬の念すら湧いてこなかっただろう。 その理由を語るのは難しい。しかし、次の節以降で説明する、 シューマンの他のピアノ曲に対して抱いている私の感情を説明すればわかってもらえるのではないか。

5. 年寄になって聴くシューマン

今まで挙げた曲のなかでどこが私とそりが合わなかったか、書いておくのも無駄ではないだろう。 掲示板に「自分が弾いてみるほうがよくわかります」というご意見を寄せた親切な方に感謝しつつ、 今年(2000年)の暮から来年の正月にかけて、 ここに挙げたシューマンの曲を弾けないながら少しなぞってみるつもりである。 そうしたら、また別の見方ができるかもしれないと思っている。

交響的練習曲

まず題名からしていけない。 ただの変奏曲をこんなふうにドイツ風に重厚に飾り立てるのはよくないことだ。 それから、リズムが各変奏で単調すぎる。どうしてだろうと考えたら、 これは練習曲であったからだ。ひょっとして、 この単調性の言い訳に練習曲という名前を使ったのだと考えるのは穿ち過ぎだろうか。 まあこんな曲を弾きたくて作るのでは、指を怪我するのも当然だ (彼の指の怪我は指の訓練のために妙な器具を使ったのが直接の原因だったと聞いているが、 遠因はこの曲にある、というのがいいたいことだ)。 この単調性を打ち破るという目的で、 付録(と読んでいいのでしたっけ)を入れるのは大いにほめられることだろう。

そしてあの大仰な終曲が命取りだ。華やかなのでいいという意見もあるし、それはそれで納得できる。 しかし、あのリズムとメロディーを5万回も繰り返すことはないだろう。 そのせいで、この曲を最初から最後まで通して聴いていても、思い出せるのはこの 「チャーーラ ラッチャッ チャーーラ ラッチャッ チャーーラ ラッチャッ チャン」だけということになってしまう。 ピアニストの方々、御苦労さまでしたと思わず同情してしまう。

なお、私が好きな瞬間もある。嬰ト短調の変奏はよくできていると思う。

謝肉祭

こちらは、最初だけ「ジャジャーーーン」と威勢がいい。そのあとはよくわからない。 最後はどうも3拍子のマーチらしいが、 そんなもの作ってもマーチにもなんにもならないだろう。 あのもったりしたリズムはどうみても終曲には相応しくない。

シューマンの曲は分裂気味なところがあり、 遅いところは妙に遅く、速いところは粘り気のある速さで弾き通さないと、 シューマン節が匂い立たない。その分裂気味なところが最初に色濃く出た作品がこの謝肉祭だと思うのだが、 世のアマチュアピアニストのほとんど、そしてプロのピアニストの半数近くが、 この曲を最初から最後まで弾くだけで精一杯になっているように聞こえる。 分裂気味であることが明確に出せる水準に達した、匂い立つような演奏を聴いて、 初めて好きか嫌いか、私の判断が下せる。そんな演奏は、50回聴いたうち、3 回もなかった。

謝肉祭が嫌いなのは、曲だけではない。あの、文学的な修辞なのだ。 この曲の解説に出てくるのが決まってなんとかとかんとかという道化の役の説明なのだ。 どちらが陰でどちらが陽だとか御託を並べるのはいいかげんにしてもらいたい。 陰陽師ではあるまいし、 そんなことがわからんでも曲を曲としてだけ聴けばいいのだ。 もったいぶった解説などあるから余計に混乱する。

修辞ついでに、この曲でASCH だかの並べ替えを楽しんでいるとか解説書にはあるけれど、 これも聴いている者にとってはどうでもいい話だ。 バッハは最後に1回だけ使った奥の手だから許せるけれど、 シューマンのそれは何度も使い回して新鮮味がない。

クライスレリアーナ

この曲もまたよく聞く曲ではあり、シューマンらしさはよく出ていると思うが、それゆえに嫌いである。 まず最初の曲が速すぎて歌えない。これを歌うのは、ばかげた考えではあるだろう。しかし、 私に言わせれば調性のある音楽なら歌えるのが当たり前だ。ああだこうだいうのはそれからあとである。 すなわち、この第1曲はああだこうだいうその水準にさえ達していない。

第2曲はうってかわって、ティラリラティラリララーという歌えそうな節で始まるから、まだましである。 しかし、その先におもしろい展開があるかというと、何もない。 次の曲は、その次の曲は、と考えているときりがないのでここでやめる。

ピアノ四重奏曲

ピアノ五重奏曲ばかり長く聞いてきたせいか、ピアノ四重奏曲の印象は薄い。 今回久しぶりにどんな曲かを思い出してみようと CD を買って聞いてみた。 声部が一つ足りないせいか遊び心に欠けるのが残念だ。各楽章には聞き所は多そうだから、 もっと聞きこめばいろいろな発見があるのかもしれない。しかし、私が聞いた限りは、 「この出だしはフィンランディアに似ている」とか、 「この通奏低音の引きずり方は悪しきブラームスの先例みたいだ」とか、 「この終楽章はジュピターとハンマークラヴィアの終楽章を同時に突っ込んだみたいだ」 という妙な感想を持つに留まった。 シューマンの持つ美質を感じ取るにはまだ私は五万年早い。

6. 再度弾くシューマン

私が持っているシューマンの楽譜は安くて粗悪な Dover 版である。 この1集,2集は持っていたが3集はなかったので買ってきた。 3集に入っている「交響的練習曲」や「幻想曲」を練習しなければ本格的な悪口が言えないなあ、 と思ったためである。 「幻想曲」は、やはり難しかった。そして、難しいわりには効果が上がりそうにないのだった。 そして、いろいろと辟易するところがあった。一つだけいうならば、不均等音符の割り付けだった。 これは交響的練習曲にも出てくるのだけれど、左手が 4 の倍数で伴奏を刻んでいる個所で、 平気で 5 連符を挿入してくるのである。ショパンの走句ならば非常によくあてはまるのだけれど、 シューマンのそれは全く必然性がない。こんなところにいやらしさを見るのだが、 好きな人にはこれが好きなのでしょう。

7. シューマンの曲に構成力はないのか

インターネットにあるシューマンの特集ページを見た。 「シューマンの嫌いな人は見ないで下さい」とわざわざ断り書きがあるくらいだから、 シューマンが嫌われていることは重々承知なのだろう。 たとえば、シューマンの悪口に関しては、ピアノ編曲の世界で有名になった夏井さんのページがある。 ここに比べれば、私の悪口は生温い。 けなされる度合いもほめられる度合いも強烈だから、 大作曲家であるということは認める。

それで、そのシューマンのページを見ると、 「シューマンの曲は構成力がないから」というのが批判の一つなのだそうである。 しかし、そんなのは八百屋に魚を求めるようなもので、ないものをねだっても仕方がない。 だいたい、構成力があるからその作曲家はすばらしい、といえるものなのだろうか。

私がシューマンの音楽が嫌いだが、その理由は構成力の観点からではない。 というより、そもそも構成力とは何かがわからないので観点もへったくれもないのだ。

8. シューマンの室内楽

私がこっぴどくけなすのはピアノ独奏曲である。歌曲や室内楽、交響曲についてはよくわからない。 たとえば、ヴァイオリンソナタ第1番をとってみよう。 フォーレのヴァイオリンソナタの第2番を「第1番より魅力に欠ける」と評した渡辺和彦さんは、 このヴァイオリンソナタ第1番を「演奏効果の上がりにくい曲」といっている。 わたしにはそのようには聞こえなかった。たまにあらわれるどうでもよいフレーズが、 シューマンの生の息遣いを表しているかのようで、好ましいものに感じられるのだった。

9. シューマンの歌曲

シューマンには、いろいろなジャンルの曲がある。 歌劇もあるし、ミサ曲も、レクイエムもある。協奏曲も、 ピアノ、ヴァイオリン、チェロと皆揃っている(あと揃っているのはドヴォルジャークくらいか)。 しかし、シューマンの場合、ジャンルが有名だからといって曲も有名、というのではないところが面白い。 さて、シューマンの歌曲であるが、残念ながらいい曲も多い。 私が知っているのは、詩人の恋の第1曲「美しい五月に」だけなのだが、 和声の落ち着きのなさがなんともいえずいい感じだ。この匂い立つような曲には 「美しき五月に」という、古風な言い回しがむしろ似合うだろう。 (2003-12-23)

10. シューマンの合唱曲

シューマンは、合唱曲も多く書いている。無伴奏もあるし、ピアノ伴奏もある。 ピアノ伴奏つきの合唱曲で有名なのは、「流浪の民」である。これは面白いけれど、 鑑賞用というよりは、自分達で歌って楽しむものだろう。 (2003-12-23)

11. ドイツ語の綴り

シューマンのピアノ作品として名高い、「子供の情景」のもとの綴りは Kinderscenen である。このことばをドイツ語の辞典で調べても出てこなかった。 今のドイツ語では Kinderszenen とつづるべきものである。Szene は r グループの名詞(女性名詞)で、辞書には -, -n とあるから、 複数主格では -n が末尾につく。子供という意味の Kinder と組み合わされて、子供の(さまざまな)情景という意味になる。 しかし、なぜシューマンは scene を使って szene を使わなかったのか。当時はみんなそうだったのか、 それともシューマンだけがひねくれていたのか。同様に、彼の後期の作品として知る人ぞ知るピアノ独奏曲「森の情景」も Waldcenen として出版されているが、 今はWaldzenen と綴るのが普通だ。まったく、なぜだろう。だからシューマンは嫌いだ(2014-09-28)。

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MARUYAMA Satosi